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那智大社 織田信長 焼き討ち 理由は??
熊野の那智大社は織田信長に焼き討ちにあったということですが、その理由はなんでしょうか? 自分でも探したのですが、分からなかったため質問しました。 何かお分かりでしたら教えてください。よろしくお願いします。
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那智大社は神社ですが、元は修験道の霊場で管理するのも宮司や禰宜ではなく社僧でした。 また青岸渡寺は比叡山と同じ天台宗でもあります。 信長が天台宗を攻撃したのには幾つかの原因が考えられています。 比叡山が浅井・朝倉軍を庇った。 天台法華宗がフロイスを目の仇にした。 紀伊半島に勢力を持っていた豪族の支援をした。などなど。 その辺から考えると、信長の野望に楯突いたのが天台法華宗で、青岸渡寺は紀伊半島の天台宗のお寺だからということでしょう。 実際どの程度加担したかはわかりませんが、山岳修験者は度々情報や食料武器などの支援の為、山々を駆け回ったと言われています。
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- buchi-dog
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『熊野の那智大社は織田信長に焼き討ちにあったということですが』 という質問の前提が私の知る所と相違します。 織田信長は 「比叡山延暦寺」 は焼き討ちしましたが、紀伊の南部に勢力を有する熊野那智大社などの熊野三山とは特に敵対関係になく、戦闘も行っていないはずです。 そもそも、紀伊国は織田信長の生前には未だ平定されておらず、織田の版図に入っておりませんでした。 「雑賀衆」 「高野山」 「根来寺」 という、3つの強力な「独立勢力」が勢力を持ち、複雑な地形ともあいまって、織田信長といえども武力制圧するのが困難であったからです。 ただ「熊野三山」は特に中央政権に歯向かう態度はとっていなかったように思います。 紀伊国は、羽柴秀吉が政権を握った後の1585年に大規模な兵力で上記の3つの独立兵力を打倒した後にようやく羽柴政権の版図に入りました。その際も、那智大社を含む熊野三山では特に戦闘はなかったはずです。 織田信長・羽柴秀吉の紀州との関係は、登場する「独立勢力」が必ずしも一枚岩ではなく、かつ友好を結んだり敵対したりして分かりにくいです。 このテーマを一冊の本で概観できると言う文献も見つけにくいのですが、強いて言いますと、吉川弘文館から近年刊行された叢書 「戦争の日本史」の該当する巻を読むと良いでしょう。 該当する巻は 信長の天下布武への道 戦争の日本史 13 http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31818917 一向一揆と石山合戦 戦争の日本史 14 http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31950282 秀吉の天下統一戦争 戦争の日本史 15 http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/31774038 あたりです。
お礼
buchi-dogさん 返信ありがとうございます。こんなに詳しく教えていただけるなんて嬉しいです。 熊野那智大社に行ったのですが、そこに書いてあったご案内で 「・・・御社殿は、熊野権現造りと称し正面五棟・側面一棟と御○彦社・鈴門・瑞堀から成っており、往古、織田信長により焼き討ちに逢い、豊臣の代に再興し、享保・嘉永に修復し、・・・」とありました。 そこで質問してみました。 何かお分かりでしたらアドバイスお願いします。
お礼
michael-mさん、 教えていただきありがとうございます。大変参考になります。