私の人生ってイージー? ハード? どう見えます?
最近、私のことを甘えだ努力不足だと強く批難してくる人に出会いました。
そこで、少し別の人の意見をお伺いしたく、投稿させていただきます。
私の幼少から今までの人生の簡単な表記です。
読んで頂いて、イージーモードからハードモードのどれに該当するか、思ったところを教えていただけませんでしょうか?
私自身は現在三十代半ばで、妻と二人の子供に恵まれています。仕事は自動車の部品工場で、障碍者枠で働いています。
障害はアスペルガー症候群(書類上は高機能自閉症、アスペは医師の口頭です)でして、医師曰く「こんなに酷い人は見たことがない」「他人を思いやる能力が、根も種すらもない人」と言われています。たぶん重度なんでしょう。
障碍者手帳の3級を取得しています。
父親は昭和九年生まれで、私が生まれた時には五十近かったのですが、これは後に分かったことなのですが、若年性の認知症を発症していたらしいです。それも、遅くとも私が小学校に上がる前には。
変な人だとは子供の頃から思っていましたが、下手をすると私が生まれることには発症していたかもと医師に言われ、複雑な心境でした。
ついでにいうと、父は国民学校の六年しか教育を受けておらず、その教育も畑仕事や黒塗りの教科書での勉強しか記憶に無いそうで、私が教えてと、言った時に「分からない」と言われました。確か小2の頃です。
仕事はしていましたが、低収入で、小・中と学費補助を受けており、中学の征服も学校から貸与してもらいました。
母は母で、幼い頃から病弱だったらしく「二十歳まで生きられまい」と言われていたそうです。それが六十まで生きたのだから大往生だと思うのですが、どうも脳をやられていたらしいです。
これも後年分かったことなのですが、脳の一部が機能しておらず、脳梗塞の後遺症と思われること、またそうと思われる症状(記憶の混乱や言語の不明瞭さ・継続的な倦怠感など)からも、どこかで倒れているはずだ。と言われたのですが、私にはトンと記憶が無いです。
恐らくこれも私が生まれる前の出来事だと思ういます。
母はヒステリックで、生活力が無く料理も下手でして、幼い頃友人にお昼を振舞った際、後から「人間の食べ物じゃないよ」と耳打ちされたこともあります。
両親ともにお金の管理がずさんで、よく借金取りに頭を下げたり、暴言を吐かれたりしていました。
母方の親戚としか交流が無かったのですが、家がごみ屋敷であったので、ぼろくそに怒られながら片付けることも度々でした。
私もいる前で、借金の証文を破り捨て「貴様には払えんのだろう」となじられている姿も見ています。
私自身も中学を出るまでは、勉強もせず毎日家でぼんやりとテレビを見ていることが多く、あるいは本を読みふける(今で言うラノベの走りです。後は歴史小説。参考書や、勉学の本はあまり読みませんでした)くらいで、友達もいない、家と学校の往復のような生活でした。
中学を出た後、職業訓練校に入学(学力とお金から、そこしか選択肢が無かった)し、卒業後は親元を離れて、大工の見習いとして二年働きました。
ここは、厳しい徒弟制度の会社でして、起きてから寝るまでを管理される集団生活でして、最後は精神を病んで恩師に連れ戻されましたが、ここでの経験と、自分の学力の無さを痛感したことから、学費と自分の分の食費は自分で稼ぐという条件で、実家から通える定時制高校で勉強をしなおしました。
定時制では、真面目に勉強したおかげで成績は40人中トップクラスで「古臭い真面目なタイプ」「いまどき珍しい硬派なザ・学生」などといわれ、生徒会をずっと続けるなどもしてきました。
バイトをしながらなので、夜遊ぶことも無く、勉強はそこそこ出来て、人当たりはいいけど周囲との間に壁があることから、ストイックと見られていたようです。
定時制から夜間の短期大学に進学し(学費は有利子の奨学金で賄いました)教員免許を取得できました。
短大では学科紹介生として募集のパンフに載ったり、教職受講者サークルの取りまとめ等もしていて、教授連からの受けも良かったのか、四大への編入も推薦で面接の時に指導を受けていた教授から「ぜひ来てくださいね」と言われて一発合格でした。
学内の贈与型の奨学金選考も最終選考までは残りました(落ちましたが)し、卒業パーティーの実行委員もやりました。
結局四大編入は、入学金として準備していたお金を、母親の入院費用に当てなければならないかったため、断念しました。
何らかの手段があったかもしれませんが、当時は諦めというか、恨みの感情が大きかったと思います。
卒業後、定時と短大の間勤めていたバイト先を辞めて、派遣で就職しました。この前後で母は他界しています。
派遣先の工場では、何が良かったのか「出来る人」と思われたらしく、外人や正社員の人ばかりのラインの管理を任され、毎日朝8時から夜9時まで働きました。
一年で派遣先に正社員として雇用され、すぐにグループリーダーにされました。
扱うラインは定職率が悪くて、外人七割のラインでしたが、一生懸命やっていると自然と皆が付いてきてくれるようになり、大いに助けられました。
会社としても「使えない人」「扱いづらい人」を放り込む場として、重宝したようです(他部署部長談)。
朝七時から夜九時くらいまで、お昼休みもデータ整理や午後の仕事の段取りなどをしながらすごしました。
この頃に結婚し、翌年には子供も生まれています。
ラインがリーマンショックの影響で協力会社に移管となり、私自身は別の部署に移るのですが、そこでは失敗ばかりで上手くいかず、妻の育児ノイローゼも重なり、勤務時間自体は減ったのですが、適応障害と診断され、休職をしました。
この間で二年少しです。
復職後、リフトを使い製品の出し入れをする部署に移動となり、一年ほど経つと、直属の上司が急に退職し、私に部署のリーダーの任が下りました。
いた部署全体が人事異動でそれまでトップがベテラン部長だったのが、新人課長に代わり、製造部から辞めたリーダーの代わりを借りたこともあり、製造部からの無茶振りが酷くなりました。
さらにこれまでの物資の1・5倍の量の物資を「現場の裁量で」なんとかしろ。
各ラインへの供給も当然予定どうりに行わなければならず、素人に毛が生えた程度の私と、やる気も無い応援員と、簡単な雑用しか任せられない生え抜きの部下、そして各ラインのリーダーにも協力してもらい、融通をつけて業務を遂行していきました。
この頃、家庭では父の痴呆が進み、ケアが必要になり、妻は育児放棄で、私が家庭のこともしければならず、私が診断を受けた病院や行政に助けを求めましたが、「だんなさんが頑張ってください」と、援助を断られました。
会社も「仕事にそんなに支障が出るのなら離婚しいなさい」と取り合ってもらえませんでした。
朝五時半に出勤して午後七時まで休憩なしで働き、帰ると子供のご飯や風呂・寝かしつけをして洗濯や家事、、翌日の弁当の準備や、仕事の段取りの確認、データ整理などを行い12時前後に就寝、四時半に起きて五時に出勤という毎日を半年ほど続けて、
精神的に追い詰められて自殺未遂をしました。
その後、自殺未遂の怪我が直るのに半年かかりましたが、土木の会社に就職。
夏場が体力的にきつく、水分補給を十分に行っても仕事の前後で3キロ以上も体重が違う日が続き、最後には熱中症から腎不全を併発して入院、退職。
4トントラックのドライバーで就職するも、運転適正が無く、動作と確認のタイミングがずれる・安全な運転を確保できないなどを理由に退職をさせられました。
どちらも「頑張っているのは認めるが、結果が伴っていない」と言われ、それは自分でも納得しています。
現在は工場勤務で、ジョブコーチ等を入れた情報でも「よくやっている」「十分な努力を感じる」などと評価を受けています。
自分では、中学卒業までは駄目人間だったが、それ以降は人並みより少し苦労も頑張りもしたし、アスペルガー症候群であることや、家庭の環境を考えれば、そこまで悲観するとか、だらしない人生を歩んできたつもりは無いのですが、
どうも一部の方には「アスペルガーであるから」甘え「家庭環境」を口にするだけで甘え。
普通の人なら、その程度笑って人間が大成するといわれてしまいます。
これを読んでくださった皆さんは、私の人生は「楽な道のり」と思われますか?
苦しさの上を見ればもっと苦しい人もたくさんいるが、結構厳しい道のりと思いますか?
自分の感覚と、周囲の人の感覚のズレを体感したく、質問いたします。
よろしくお願いします。
質問の趣旨の第一は、
私の生い立ちや人生は、厳しいか、普通のものかです。
ついでに感想なども書いていただければ幸いです。
ある方から、すべてお前の努力の無さが悪い。私のアスペルガーの診断も、妻の育児放棄も、父の痴呆も私が努力すれば回避できたというような趣旨の意見を頂き、困惑しております。
世の中、そんなものなのでしょうか?