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私の考え方は「驕り」でしょうか?
私は人と意見が合わない時、とことん話し合うのは重要な事と思っています。 理由は、自分の考えを狭いものにしたくないから、いろんな人の意見を聞きたい。 自分が間違っていれば、それに気づき、直す努力ができる。逆に相手が間違っていれば、その人の人間性が高まるのでその人の為にもなると思う。 つまり話し合う事で、お互い今以上に人間性を高められるんではないかと考えているのです。 ですが、それをある人に言ったら「驕りだ」と言われました。相手の為にもなると言うが、自分が優越感にひたる為であって、自分の意見を主張して従ってほしいだけなんじゃないか、と。 とてもショックでした。 私は誰にでも相手の間違いを指摘して、こうじゃないかと忠告するような事はしません。 この人には自分の考えを知って欲しい・他の人から嫌な人間だと思われてほしくないと思う、自分にとって大切な人にだけにしています。 ですが、これってやはり「驕り」なんでしょうか。 自分の間違った考えを教えてもらうのはいいとして、相手が間違った事をしている場合にそれを教えてあげる事は驕りですか? ちなみにそんな考え方は疲れるだろうって言われました。もっと楽に生きろと。 私はちっとも苦じゃないし、そうやって人の意見を聞いて自分を高めようとする事は大事じゃないんでしょうか。 こういう考えは固すぎますか? 皆さんのご意見を聞かせて下さい。
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こんにちは。 意見交換をすることは僕も好きですが、それをするにも時と場合そして相手によると僕は思っています。 そんなことはないと思いますが、人と意見が合わなかった時はいつでも、その内容にかかわらず意見を述べ合おうとしている事はないですか? 貴方の文を読んでいて、何となくそんな疑問が湧きました。 貴方のような考え方は疲れないか?と聞いてくる人も、同じような所に引っかかりを感じているかも知れません。 >相手が間違っていれば、その人の人間性が高まるのでその人の為にもなると思う。 この部分は僕にはやはり驕りに見えます。誰しも向上心のような物はありますが、それが同じ方を向いているとは限らないでしょう。 自分が伸びていきたいのはそういう方向じゃない、と思っている人にとって意見を繰り出すことは、押しつけと取られても仕方ないでしょうし、良かれと思ってそうしているとしても、それは貴方の価値観の中で良いと思えるだけであって、相手にとってはどうか分かりません。 自分にとって良いことは、誰にとっても良い筈だ。と言う発想は驕りではないでしょうか。 自分を高める為にいろんな事を知りたい、いろんな人の意見を聞きたい。という事には大いに価値があると思います。 が、そのために望まない相手に意見交換を持ちかけたり、意見を述べることを強要する場合があったとしたら、それは貴方のわがままに相手を付き合わせている事になるのではないでしょうか?
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ちょっと別の見方から。質問者がかねてから「正しい」と思って人にしてきたことを、他人に話したら「驕りだ」と反論されてショックを覚えた。それで、ここに投稿しておられたわけですよね。つまり、自分がよかれと思って他人にしてきたことが、人から自分にされるのはショックだった、ということになりませんか?そうなると、自分がするのは良いけれど、人からされるとショックだ、というのは、あまり好ましくないことではありませんか。人ととことん話し合うのが正しいことならば、相手の方があなたを「驕りだ」と批判する権利もあるわけで、批判はショックでも甘んじて受け入れましょう。 人間って、子供のときなら「あ~、○○ちゃん、そんなことしたらいけないよ」と平気で言えますけど、長じるにつれて、いちいち他人に言いもしないし、言われもしなくなるものです。大人になったら黙って人から学べ、ということでしょうね。学ばない人にはそれなりの人生しか与えられません。他人が何をしてどう考えていても(犯罪でない限り)ほおっておきましょう。 でも、あなたはきっと真面目で熱心で勤勉な人生を送ってこられているので、どうしても一言いいたくなることもあると思います。 これは、私の愛読書「人を動かす」(デール・カーネギー著)に出ている一節です。アメリカ史に残る偉人のベンジャミン・フランクリンは、若いころ、猛烈な議論好きだったそうです。自分と意見の違う者たちには、徹底して議論をするので、彼の意見を聞かされるのがイヤさに、誰も彼の周りにいなくなってしまいました。それをある人が、ありがたくも指摘してやったそうです。そういう指摘を受け入れるのは楽しいことではなかったと思いますが、フランクリンは、それ以降、人と真っ向から違う意見や、自分の断定的な意見を述べなくなったそうです。どうしても言いたいときは、やんわりと、 「自分としてはこう思うのだが・・・」 「なるほどどういう意見もあるだろうが、この場合は少し事情が違うように思えるのだが・・・」 と、決して頭から反論したり、「絶対」「疑いなく」という断定的な語を使わないようにしたそうです。控えめに意見を述べたほうが、相手はすぐ納得し、反対する者もめっきり減った、とか。 人間って、人から違うことを指摘されて楽しいものではありませんからね。ですので、satomaronさんも、今後は、「私も間違っているかもしれないんだけど、私はこれこれこう思うんだ。でも、あなたはどう?」と、謙虚な言い方をして、それでも相手が引かなければ、もうそこで話を止めてしまったほうが正解だと思います。
お礼
お返事ありがとうございます。 「驕りだ」と言われた事にショックを感じていましたが、言われてみればそれもその人なりの意見だったのですよね。批判的にばかりとっていましたが、それもその人なりの忠告・意見であったと考えれば、納得です。 仰るとおり、私の行動は少し強引すぎたと反省しています。いろんな人がいて、いろんな考え方・人との接し方があるんですよね。 謙虚な言い方を身につけようと思います。相手に不快感を与えるのが目的ではないし… 大人はやはり自分で学ぶものですか。 厳しいけど、それが当たり前なのかな… 貴重なご意見ありがとうございました。 こうやってずばり指摘して頂けると大変参考になります。
- cse_ri2
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質問者の方のような行いを一生かけて実践した人がいます。 古代ギリシャの大哲学者ソクラテスです。 詳しくは彼の伝記(彼の弟子のプラトンが書いた本が元に なっているようですが)を読んでください。 これでもかっ!ってくらい、他人との対話を繰り返しています。 もっとも反発も大きかったようで、晩年にアテネ市民が彼に 死刑判決を下したのは歴史上有名な事件ですから、ソクラテス のように信念に殉じるだけの覚悟がないのであれば、ほどほど に収めておいた方がよいかもしれません。
お礼
お返事ありがとうございます。 確かにいろいろな考え方、性格の人がいるんですよね。全てが自分の様な考えとは限らないので、相手の性格などを理解した上で、ほどほどにしておきます。
- kyoromatu
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satomaronさん こんにちは。 それは、驕りではないと思いますよ。 じゃ しからば何なのさ・・ということに なれば・・う~む それは“あなたの性格”です・・としか言えません けどね。 安易な妥協で摩擦を恐れていては、進歩は出来ませんよね。私は好きですよ あなたのその“性格” 固定観念に陥らない柔軟な思考と判断力を、保つようにさえしていれば、なんら問題ないと思います。
お礼
お返事ありがとうございます。 性格なんですかね… 好きと言ってもらえるとありがたいです。 相手の性格・考え方をよく理解した上で、今後は話し合いの場を持っていこうと思います。
- temperance
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というか・・・ (基本的な、人としてというものは別にして) 意見は意見であって、絶対的に 正しいとか、間違っているとかはないんじゃないかと。 だから、間違いを指摘っていう部分は驕りかも。 勿論、人の意見を聞いて、そういう考え方が正しいと 自分で思えばそれはそれでいいけど、それはあくまで 自発的なものじゃないと意味がない気がします。 そういう意味では、 >人の意見を聞いて自分を高めようとする ことは有益なんじゃないかと思います。 間違いを正す目的ではなくて。 ただ、とことん話し合うのが苦痛な人もいます。 相手も望んでいる時に話し合いましょう!
お礼
お返事ありがとうございます。 確かに物事の考え方は自発的なものですよね。 そう考えると、自分を高めようと思っていない人には無意味な事なんでしょうか。と言うか迷惑なんでしょうね。 物事に結論が出ないこともあるというのは承知しております。その点では自分の意見が正しいとは思わないし(というか分からないし)、もちろん押し付けるような事は言っていません。 ただほんとに人間として間違っていると感じた時だけなんですが…(おおげさに言うと人殺しを計画している人を止めるとか、ですね) ただそれさえも何が正しいかどうしてお前にわかるんだ!って言われてしまえば驕りなってしまうんでしょうかね… 皆さんのアドバイスを頂き、つくづく相手の性格を考えなければと思いました。 その点は十分気をつけたいと思います。
人のものの考え方、観方はその人が育った、あらゆる環境(自然も含む)に左右され形成されます。 大雑把に言ってほとんどの人が「自分の考えに自信を持って」います。従って「あなたにとってはそうかもしれないけど、私はそうは思わない」ということも十分ありえます。予め結果がわかっている物に対しては、それでいいのでしょうが角度で見方が違う「思考」に関しては一概に言えません。 >この人には自分の考えを知って欲しい・他の人から嫌な人間だと思われてほしくないと思う、自分にとって大切な人にだけにしています。 これって、結局は「己の考え」を受け入れてくれる人(または言いやすい人)に対してのみの行為で 受け入れてくれる事を「前提」で、受け入れてくれなきゃ、相手は自分とは関係ないみたいな・・、「独りよがり・独善・押し付け」的ではないでしょうか?。 >他の人から嫌な人間だと思われてほしくないと思う この部分ははっきり言って、「驕り」です。 それは、その人に対しての心からの思いやりではなく、あなたが付き合っっていく上で「こうあるべきだ」と、あなたの価値観を含めた自分に都合のいい人間を求めているに過ぎないと思います。 >私は人と意見が合わない時、とことん話し合うのは重要な事と思っています。 理由は、自分の考えを狭いものにしたくないから・・ この考えが「狭い」です。 「意見が合わない時もある」ことを学ぶべきです。 いくら意見交換しても「合わなかったら」どうされるのですか? 分かってもらえなかったら、「この人にはもう二度と言うまい」となるのですか? >私はちっとも苦じゃないし、そうやって人の意見を聞いて自分を高めようとする事は大事じゃないんでしょうか。 自分を高める事はいいことです。 ですが、 あなたにとってはちっとも苦じゃないことも、相手にとっては「苦」かもしれません。あなたほど深く考えていない相手かもしれませんから、「なんでそんなに一つの事にこだわるのか?」と思うかもしれませんね。 延々とあなたの意見を聞かされる人の気持ちも考慮なさってみて下さい。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに私は「大切な人」と「他人」をわけて考える傾向があるようです。そして「大切な人」にだけいい人になってほしいと思うのは驕りだったのかもしれません。大切な人だからわかってほしい、というのは押し付けがましい行為だったかもしれませんね。 それと、意見が合わない事があるというのも、結論がでない事があるというのも理解しています。 私もまだまだ知らない事があるので、人に間違っていると言える事なんてほとんどありません。 明らかに人間として間違った行為を行っていれば忠告しますが… だから、意見が合わなければ、こういう考え方もあるのだなと理解しますよ。二度と言うまいとは思いません。 確かに議論が好きな人とそうでない人がいるという事を学びました。相手にとっては苦であることもあるんですよね。そういう相手に同じように「自分を高めよう」と付き合わせた私は間違っていました。 他の方もおっしゃる通り、相手の性格・考え方に合わせて自分も行動しなくてはと思いました。
- kawakawa
- ベストアンサー率41% (1452/3497)
satomaronさんの姿勢は評価するに値するものだと思いますヨ。 外見も言葉も宗教も異なる多民族が混在していた欧米では,互いに主張しあい,違いを認識しあうということが伝統的に行なわれてきましたからネ。 ただ,日本では「和を以って尊し」の曲解なのか,主張しないで黙っておくことが美徳のようにされてきました。 その為か,主張すること,議論することは良くないことのようにも考えられてきたのですネ。 ・「絶対的な正解」がないものは沢山あること。 ・感情的な自説の展開をしないこと。 ・相手の意見の完全否定はしないこと。 ・考え方の多様性を理解するために討論するのであるということ。 これらの点を忘れないようにしてくださいネ。 でないと「傲慢な奴」になってしまいますから。 以上kawakawaでした
お礼
お返事ありがとうございます。 確かにあまりお互いが自分の考えを訴えたりする光景は見かけませんね。文化の違いなのでしょうかね。 ご忠告のなかで、感情的な自説の展開をしないこと。これは気をつけていこうと今回つくづく思いました。 あとの点は一応気をつけていますが、いろんな人がいるので、その人にあった言い方とか表現などを考えて伝えていきたいと思います。
- ran-chang
- ベストアンサー率24% (12/50)
私もsatomaronさんと基本的に同じ考えです。 たくさんの人の話を聞いて、それを吸収して人間的に成長したいと思っています。 ちょっと気になるのは「誰にでも忠告しない」ってところです。 分かって欲しい人にだけ・・・というのが、「自分の意見を主張して従ってほしいだけなんじゃないか」という意見に繋がってるような気がします。 satomaronさんにそういうつもりがなくても、です。 「間違ったこと」というのが、常識的な決まり(順番を守るとか)などの場合は「間違ってるよ」と言っていいと思います。 しかし、生活環境や経験が違う相手に対して「考え方が間違ってるよ」とは言えないと思います。 自分の考えが正しいわけではありませんから。 私も友人に、「あなたの考え方は子供だし、間違ってる。それを先に悟った私が教えてやっても、あなたは聞く耳持たない」と言われました。 電車の中のマナーの悪い人を見ると注意するとか、職場で挨拶しないのは変だよねとか、そういう事に対してそう言われたました。 言い方もあったんでしょうが、とても不愉快で見下されている気分になりました。 あんたが正しいのかよ、って。 そういう、考え方の違いを「間違ってる」と決めてしまい自分の意見を主張するのは、驕りになると思いますよ。 「間違ってる」と言った時点で、「私の考えが正しい」と言ってるようなものですから。 私も他人と話し合う時は、押し付けるような言い方をしないように気をつけています。 でないと、意見を聞いて自分を高めるどころか喧嘩になっちゃいますからね。 お互い、たくさんの意見を聞いてもっともっと成長していきたいですね。
お礼
お返事ありがとうございます。 おっしゃる通り、物事には結論が出ない事も沢山ありますね。そういう場合、自分が正しかどうかわからないし、そうとられないように気をつけているつもりです。 でもそのつもりがなくても、そうとらえられる可能性はありますね。私も十分に気をつけたいと思います。
- satiro
- ベストアンサー率9% (60/630)
あなたの文体には謙虚さが見えていますので決して”驕り”とは言えません。自分を守る為に、あるいは自分の人生の確かさを証明する為に、主張ばかりする、我を張る、それが所謂『大人』という事らしいです。 >ちなみにそんな考え方は疲れるだろうって言われました。もっと楽に生きろと。 この方は”主張する事”に疲れちゃった人。 「驕りだ」と言った人は”主張する事”の実行者です。 >人の意見を聞いて自分を高めようとする事は大事じゃないんでしょうか。 この『人の意見を聞いて自分を高めようとする』気持ちを持った人ばかりならOK。”主張する事”の実行者達の前ではいずれ倦怠が訪れれるように思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 いろいろな考えの人がいて、全ての人が向上心を持っているとは限らないですよね。 相手の考えや性格もよく考えて向き合わなければいけませんね。
- babuo
- ベストアンサー率17% (177/993)
すごく向上心があって立派だと思います。 >相手の為にもなると言うが、自分が優越感にひたる為であって、自分の意見を主張して従ってほしいだけなんじゃないか、と。 これは、近からず遠からずだと思います。優越感というより話し合っている自分自身に酔ってるのかも!?という感じもしないでもありません。 ただ、気をつけた方がいいのは、例え間違っていると思っても目上の人に主張すれば、衝突してしまうのでは!?と思います。 >私は誰にでも相手の間違いを指摘して、こうじゃないかと忠告するような事はしません。 >この人には自分の考えを知って欲しい・他の人から嫌な人間だと思われてほしくないと思う、自分にとって大切な人にだけにしています。 もっといえば、satomaronさんの事をよく解っている人に限定した方がいいかもしれません。もしくは、相手の性格を理解して忠告した方がいいです。 考えはすばらしいと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 目上の方に言う時は、プライドを傷つけてしまわないかとか年下の人間の言う事を聞いてもらえるのか等、心配はしていました。 でも誰かが言うべき事だとしたら、他の人が言ってくれるまで待った方がいいのでしょうか。私は見て見ぬふりをする?それともすごく慎重に言葉を選んで伝えるか… 難しいですね。 それからご忠告のとおり、相手の性格を考えて、自分の考えを押し付けない様に気をつけたいと思いました。 いろんな考えの人がいますもんね。ちょっと突っ走りすぎたかと反省しています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >誰しも向上心のような物はありますが、それが同じ方向を向いているとは限らないでしょう。 …このご意見は全くその通りですね! 常識的に考えて良くないと思う事を伝えたつもりだったのですが、相手にとってそれを直す事が良い事とは限らなかったのでしょうか。確かに私は立派な人間でもなんでもないし、言う資格もなかったかもしれません。 それに相手の為にもなると言う考えは自分勝手だったかもしれないですね。押し付けがましかったかも。 でも、そう考えると人(大人)は間違った方向を誰に忠告してもらうのだろう…? 自分で見つけ出さなければいけないのですかね。 それと皆さんにも言われた通り、望まない人に話し合いを進めたのはいけない事でした。 本当に迷惑な事だったでしょうね。 その点はこれから気をつけていきたいと思います。