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芭蕉の「おくのほそ道」について
芭蕉はこの紀行の終着地を、なぜ大垣に決めたのでしょうか?
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- konsan29
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回答への補足とは質問者さんがお書きになったものでしょうか? >大垣には「おくのほそ道結びの地記念館」もあります。 「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」 曽良との再会の地に建つ「蛤塚」です。 はい、それは私も知っています。 >その後、芭蕉は曽良とともに伊勢の遷宮に興味を持ち、伊勢に旅立ったことは十分承知しています。 これは当然「・・ほそ道」とは分離したものと考えています。 一度No.2で薦めた著書をお読みになるといいと思います。 分離したものとは考えられていません。
- konsan29
- ベストアンサー率38% (5/13)
大垣と忍者説は直接関係はないでしょう。 それに最終地は大垣ではありませんよ。 詩を読んだ最後は大垣ですが、舟に乗り伊勢神宮へ向かっています。 「伊勢の遷宮おがまんと、又舟にのりて」 これは旅立ちの深川から隅田川をさかのぼり、千住で舟に降りる、と対応関係になっていると考えられています。 「奥の細道をよむ」長谷川 櫂 ちくま新書 などを参照ください。 忍者説は、むしろ同行者の曾良でないかとも言われていますね。 ときどき同行からはずれています。 二人忍者説もありますが、いずれにしても伊達藩の江戸幕府への反逆を 探るために旅立ったのか?その謀反の兆候はなかったということです。
補足
深川から大垣まで巡った、芭蕉ファンの一人です。 大垣には「おくのほそ道結びの地記念館」もあります。 「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」 曽良との再会の地に建つ「蛤塚」です。 芭蕉は大垣を一つの最終地に決めていたのだと思います。 故郷の伊賀上野を意識したものか・・ その後、芭蕉は曽良とともに伊勢の遷宮に興味を持ち、伊勢に旅立ったことは十分承知しています。 これは当然「・・ほそ道」とは分離したものと考えています。
- AGGG
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場所で選んだのではなく、時期で選んだと思います。 それは、芭蕉の忍者説からきています。 芭蕉の1日の移動距離が、年齢の割に長距離すぎることなどからきています。 以下、その当時の歴史背景があやふやなので、説明に矛盾があるかもしれません。 徳川の命を受け、敵の多い東北に赴き、俳人の振りをして、敵国の情報収集をおこなっていたが、徳川の天下統一により、その必要がなくなったので、「では、この辺にして帰りましょう」となった。 これが徳川の放った忍者説だったと思います。
お礼
詳細な御説明に感謝申し上げます。 まだ読んでいない文献も数多くあるようです。 ご紹介いただいた物もぜひ読んでみたいと思います。 大変ありがとうございました。