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悟り・少々ヨコヤリ

少々ヨコヤリっぽいが、悟りを開く意味とは俗人的に生きるのにこそ必要なのではないのか? 俗世間から距離を置いて生きるのならそもそも悪いこともさほど起きないだろうし・・・、俗人的に生き、楽しいことや嬉しいことを満喫しつつ、悪いことや嫌なことは無くす。 そのための「悟り」ではないか?

みんなの回答

noname#117439
noname#117439
回答No.5

私もその通りだと思います。 聖職者にはそれなりの役割があるでしょうがそれとは別にです。

noname#89028
質問者

補足

なるほど、ロムってたらイっちゃってる人みたいに思えてきたんで

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.4

追加の回答まで 鳥か禅師と白居易の問答 白居易「如何なるか仏法の極意」 鳥か禅師「諸悪莫作、衆善奉行(しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう。悪いことはするな。つとめて善いことをせよ)」 白居易「三歳の子供でも、その様なことは知っておりますぞ」 鳥か禅師「三歳の子供でも言えるが、八十の老人でも行うのは難しい」 以上が仏法の極意、つまり悟りに至る方法ですね。 これをもっと心の問題として説いたのが天台智覬(てんだいちぎ)ですね。 各人の思いは定まることが無い。いろんなことが脳裏を巡っている。 これを心の針とよび、思いの対象を世界とよんで、心の針は三千世界を指して止まることがない。これを時々刻々、日々修正を入れながら仏の方向に向けるように訓練することが悟りへの道である。 (ここで仏がわからなければ、信・善・美・愛・智など仏の性質を12時の方向に定めればよい。) この針が肉体や物に長く留まることを執着というのですね。 つまり、悟りに至る道は心にあり、むしろ世俗にこそ修行の道ありといいたいのですね。 これは#3さんの回答への捕捉でもあります。 自我意識を離れたものとか自我が無になるというのは悟りでもなんでもないということですね。鳥か禅師も天台智覬もそのように言っているということです。

回答No.3

 こんにちは。  参考までに ナーガールジュナの『中論』から引いて中村元が注釈をほどこしているところを掲げます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは   存在しない。    《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものを見   る者は 〔実は〕見ないのである。     (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩)  という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。  チャンドラキールティの註解によると    《自我意識が無いこと》《わがもの》という観念を離れたこととい   う独立な原理または実体を考えるならば 実は事物の真相(諸法実   相)を見ないこととなる。(『プラサンナパダー』)  という意味であるという。・・・     (中村元『龍樹』2002 pp.225-226)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.2

僕の思うころを少し書いてみたいと思います。 一般的な理解の「出家と在家」についていっているのかなと憶測します。 「一般的ないみでの出家」はお釈迦様の戒を守ると決めた「比丘サンガ」。お釈迦様のいう「出家」は悟りの三段階目のことだそうです。 比丘戒を受けた人も、在家の人も皆、出家を目指しているのだと思います。 悟っている人にとっては「悟ること」は必要ありませんねw 悟ってないから「悟ること」に意味があるのだと思います。「比丘サンガ」だから上、在家だから下ということではないと思います。比丘戒を受けた比丘サンガは、心の成長を考えると、高速道路ではあると思いますが。心の清らかさとは別の話だと思います。在家の方でも悟ることは可能だとお釈迦様はおっしゃっていると思います。

  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.1

>>俗人的に生き、楽しいことや嬉しいことを満喫しつつ、悪いことや嫌なことは無くす。そのための「悟り」ではないか? 横槍ではなく至極まっとうな考え方だと思います。 逸話でもしましょう。 ある家の長男が修行して悟りを開くんだといって山に登りました。10数年後に帰ってきたのですが、家のみんなが驚くほどの格好、つまり山伏のような形相鋭い表情で帰ってきたのです。ご本人曰く、悟ったというのですね。 別の家の長男も隣家の長男に即発され、山に登り、やはり10数年後に帰ってきましたが昨日出て行ったような背広姿でどこに行ってたのかと疑うぐらい普通だったのですね。 さて、どちらが悟ったかというと普通に帰ってきたほうですね。 悟りには世間解というのがあるのですね。悟りたるものはどこにいても誰も気がつかないほど普通の生活ができる。ということなんです。 こんな話で、俗人的に生きるのがほんとの悟りたるものということです。をしてみました。 まあ、中国では「小人(修行者)は山に住み大人(悟りたるもの)は街に住む。」という譬がされてますね。ただ、修行のために一時的に独りになることも大切なことですよ。

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