- 締切済み
何故「自殺」はいけない事か?
始めに断りますと、私は自殺志願者ではありません。) ご承知だとおもいますが、最近ネットでの自殺なるものが頻発してます。原因は色々言われております。不況や社会の不安、また欧米に比べ日本は自殺者が多いとも指摘されております。 今日では「自殺」はしてはいけない事と認識されてますが。日本(いや日本だけでなく東洋社会)での伝統では、自殺がかならずしも否定されるものではなかったという事実であります。武士の「切腹」や士大夫の「賜薬」というのも人間の意志を尊重するものであります。又古くは楚の「屈原」に代表されるように、自殺した英雄でも悲劇、美談として語られております。 何を言いたいかというと、平たく西洋、東洋と二局の価値観に別けますと、西洋の価値観では自殺は宜しくないことであるけれど、東洋の価値観では(伝統的には)必ずしも否定されるものではなかったのではないか?… (よって、「自殺」を悪い事と断罪する価値基準は必ずしも絶対的ではないのではないかということです。 (勿論、人間の命の尊さというものは、人間として共通する認識であるけれでも、自分で自ら命を絶つ=自殺を否定するかしないかは微妙に異なると思うのです。) 自殺を否定する価値観がキリスト教の価値観に端を発するのであるなら、それは必ずしも絶対的な価値観にはなりえないということです。 (政治学的にも人間の権利として、無条件に自殺を禁止しますし、今日の社会でもそのそのようですが) 「自殺」を否定する、理屈はなんでしょうか?考えると 私には「自殺」を否定する弁証よりむしろ肯定する弁証のほうが出てきてなりません。 世間の常識としては「自殺」を非難しますよね?TVのコメントの論調もそうです。あの方々は何故自殺はいけない事だと思っているのでしょうか?そういうふうに決まっているからでしょうか? 私は無条件にそう受け入れていたのですが、今となって、何故なのかわからないと納得できないので、宜しくお願いします。
- みんなの回答 (13)
- 専門家の回答
みんなの回答
>そうですね。 私も社会的には…いや俗世間では、自殺は容認されるものでもなく、できるものではないと思いますよ。 ただ、それを超える本当の真理があるかなと思いまして…。 やはりひとくくりにはできないと思うんです。自殺したやつは、地縛霊になると一概に言うのは、まったく事情を考えてなくて、ただせっかく両親や神様からもらった体を粗末にして悪いことをしたというそれだけだと思うんです。でも、逃げることが、神様への反逆でそこまでいけないことだったら、どうしても死んでしまうような苦しみはあってはいけないと思うんです。精神的にも肉体的にもです。発作で死んでも、反逆だなんていわれたら、どうしたらいいのでしょう?これに対しての宗教の側からの理屈としては、神は耐えられない苦難を人に与えないと言うものです。もしそうだとすると、なんでそんなきわどい苦難をわざわざ試練として与えておいて、耐えられないと、神に逆らったと言って怒るか、よくわかりません。最後は、思し召しなので、とにかくそういうことだと言われてしまいます。でも殉教の場合は、褒められたりして、ちょっと都合がいいようにも思います。 悪事をさんざん働いても自殺せずにノーノーと生きた人が別段攻められもせず、良い人でも自殺したとたんに罪人のように言う論調はどこか行き過ぎたものを感じます。 ひとくくりにできる「真理」はないと思うんです。 あくまで私個人の考えと言うことになりますが、自殺は良いことではないとは思いますが、現在の世間の論調はちょっと一方的だなとは思います。 もし普遍的真理があるのであれば、苦しい状況にあってその人がどれだけがんばったか、清い心を忘れないでいられたか、そういうことが全般的に土台となって善悪が決すると思うのです。カルマの解消ということにしても、自殺したらそれだけでより重い罪を背負うというのではなく、生を殺すことは良いことではないけれど、そこに至るその人の心構えとか生活態度とかそういうものすべてを含んで決していくものだと思います。自殺というだけで、その人の人生の善悪が決していくようなそんな杓子定規な裁判ではないと私個人は考えています。 もちろん、それを証明する手段は持っていません。
- welovekobe
- ベストアンサー率42% (38/90)
>これは宗教論理ですね。 >.一部の人間の思考の中以外に存在として、神とか霊界と >かあるのですか? >その論議からまず必要でしょう。 >後半からは、理解できかねます…。 ということなんですが、 どこから「後半」だととらえて頂いたのか定かでは ありませんが・・・、いずれにせよ、神様や霊界の 存在はあまり信じたくないみたいですね。 そのような論議をする「質問」ではそもそも無かったと 思いましたので、あえて詳しくはそこら辺は、 述べておりません。 (自殺は良いか悪いかという価値基準のことをご質問 されているので・・・) 要するには、人間を創造した神様が実在するか、 あるいは、実在しないで、単に人間という生物が 偶然に発生したのか?二つに一つなんですよ・・・ ということを言いたかったんですね。信じる信じないでは なくて、いるかいないかなんです。問題は・・・。 そして、もし、神様がいないんだったら、 すなわち、人間が単に偶然に生まれたのなら、 本源的に、生来、人間に存在目的は無いんですから、 存在価値も元来無いので、その議論すべき「価値基準」 も最初からないですよね。「性善」も「性悪」もないし、 善悪という価値基準もありません。人がそれぞれに それを(自殺を)心地よく感じるか、 気持ち悪く感じるかだけになってしまいます。 善いか悪いかと言う価値観では議論できなくなります。 実に冷淡なものの言い方に聞こえたら、ごめんなさいね。 けど、出来る限り、理論的に理詰めで推論しようとしたら 結局のところ、こうなるんだと思いますよ。 それでは、どうも失礼しました。 乱筆・乱文ございましたら、どうぞお許しを・・・ ではでは。
お礼
ありがとうございました。
- welovekobe
- ベストアンサー率42% (38/90)
「宗教的な理念にたよざらるを得ない」のがお嫌なのかも 知れませんね。なるべく、宗教的な理念を科学的に 説明できればと思っておりますが・・・ 自殺がなぜ駄目なのか・・・? もし、人間が単なる偶然にこの宇宙に発生したアメーバ の進化した最終形なのなら、 自殺してもいいんじゃないでしょうか・・・ 誰もそれを悪だと言える人はいません。 あなたを愛していた人達がただ悲しむだけです。 それだけのことです。 しかし、人間は有史以来、誰一人として、 自分の意思で生まれた人はいません。 そうですよね。けど、人間は何人と謂えども、必ず 死にます。これも絶対的な真理です。 だとすると、人間は 「自分が願ってもいないのに、死ぬために生まれてきた」 と言えます。 さぁ、ここで問題です・・・。 人間が自分の意思で生まれたのではないとすれば、 自分の為に私は生まれてきた! と言える人はいないはずですよね。 だとすれば、 1.誰かの為に生まれてきたか・・・さもなくば、 2.偶然に生まれたか・・・? の二つに一つなのです。これ以外には絶対ありません。 そう考えた時に、人間の「目」一つとってみても、 「まつげ」を考えてみても、全てに「目的」がある ということまず改めて考えてみる必要があります。 人間の臓器には全て「目的」があるのです。 目は対象を見る為という「目的」があって、 骸骨の中におさまっています。そして、 水晶体を通して網膜に映し出された映像を認識するという 高度は細胞組織が合目的的に連結されたシステムとして 成り立っています。それが脳神経へ伝達されます。 このようなシステムは「目的」がなくてはなりません。 まつげは目にゴミが入らないために有ります。 涙腺は、太陽の輻射熱で目が乾かないようにするために あります。つまり、人間は生まれる前から、 太陽があること、空気中にゴミが浮遊していること を知って生まれてきたのです。それ以外に考えられ ません。つまり、それぞれの臓器・組織が「目的」が あって作られているので上手く出来ているのです。 つまり、「目的」が先なのです。 「存在」よりも「目的」が先です。それ即ち、 「思惟」が先にあってその目的に合致した臓器なり 組織なり細胞なりが造られたのです。 そう考えると、そのような合目的的に全ての臓器・器官 が完全に合体して連結されて構成されている「人間」 それ自身が、「目的」がないとどうして言えるで しょうか?唯物論者の人がもし、いるならば、 もうそろそろ考えなおさなければならないのです。 科学的に推論しなければなりません。偶然に人間が 進化したなどと「盲目的に」信仰していてはなりません。 進化も偶然ではなくて、「目的」があって進化させられて 来たのです。人間を創造するという最終的な目的の為に です。 目的があるから存在価値があるのです。 創造目的=存在目的=存在価値なのです。 その時計が価値があるかないかは、時計自体が決めるの ではありません。時計を創造した人、利用している人が 決めるのです。人間に価値があるかないかは、 人間が決めることは出来ません。永遠に無理です。 ましてや、偶然に、人間が生まれたのなら、話は簡単 です。最初から、本来的に創造目的がないのですから、 存在価値があるはずがあり得ません。自殺しようが 人を殺そうが何しようがどうでも良いことです。 ただ、「法」という名の国家権力により裁かれるだけ です。性善も性悪もありません・・・! しかし、もし、神様が人間を必要として創造された としたら、創造目的があるわけですから、存在目的が あり、存在価値があります。そして、その創造目的に 合致して生きることこそが、存在目的であり、 存在価値が最高に発揮される瞬間なのであります。 ですから、人間を創造された神様が人間に自殺をする ことを願って人間を創造されたのなら、人間が自殺する ことは善なのです。しかし、人間を創造された神様の 願いに反して、自分の意志で生まれてもいない人間が、 自分の意志で勝手に寿命を縮めたとしたら、 それは神様の本意ではないので、「悪」だと言えるの ですね。もし、人間が、単なる偶然に生まれたのなら、 最初からお話になりませんね・・・。 こういう議論をすること自体がナンセンスなのです。 自殺しようがしまいが、本源的にどうでも良いことに なってしまうのです・・・。 最初から存在価値がないんですから、誰かが、 「自殺」は良いとか悪いとか言ってみたところで、 所詮、そのようは議論自体が、そもそも、何の価値も ないことなのです・・・。そのような議論に価値を もたせようとしても、自慰行為でしかないのです。 分かりますよねっ・・・。 ですから、神様が人間を創造された目的が、もし、 人間を愛する対象として、子女として創造されたと言う ならば、その愛する人間が、親なる神様の願いに反して 勝手に自殺してしまうことは、神様の悲しみになります ので、罪であり、悪なのです。 結局、神様が永遠の存在なので、その愛する対象である 人間も永遠性をもって創造されているということなん ですね・・・。 死ぬために生まれてきたのではなくて、死後の世界が あるというんですね。 心と体との相対的関係に因り 人間が存在しているように、この宇宙も霊界と地上界 との相対的関係により作用をなして存在の為の力を 発生させています。力は独自的には生じません。 必ず、作用により生じます。つまり、作用とは 主体と対象との相対関係により発生します。 そして、「目的性」を中心として相対的関係を 持とうとします・・・。 ですから、 「地上生活」の為の「準備期間」として 「胎中生活」があるように、 「霊界生活」の為の「準備期間」として 「地上生活」があります。全て何でも目的があるのです! 従って、地上生活での「目的」を達成されずに、 中途にして人生を放棄することは、不完全なまま、 霊界へ行くようなことだと思います。 創造原理に反しているのです。 創造目的に反するので、「悪」だと言うのです。 だから、自殺はいけないと、誰もが「良心」で 分かるのです。 「良心」も自分から始まったのではありません。 時空を超えて、歴史上、常に、対象である人間の 「良心」に作用し働きかけてきた何らかの「善の主体」 的存在がおられたのです。 それを私たちは「神様」と呼んできたんですね・・・。 分かりますよね・・・。 少しは、科学的に宗教的内容を咀嚼できたでしょうか? もし、何らかの一助になれば、幸いです。 ではでは。是非、ご一考下さいませ。 それでは、今日はこの辺で・・・
補足
これは宗教論理ですね。 一部の人間の思考の中以外に存在として、神とか霊界とかあるのですか? その論議からまず必要でしょう。 後半からは、理解できかねます…。
- kee_yan
- ベストアンサー率42% (38/89)
仏法的な観点から言うと生命は永遠であり、死とは生命の終わりということではないそうです。 死とは言わば生命活動の休眠状態と言うか、次の生への準備段階のようなものだ・・・という話を聞いたことがあります。 そして、すべての生命は今までの過去に話したこと、考えたこと、行い(生まれる前も含めて)を全て記憶、蓄積しているものなのだそうです。(これを身口意の業と呼ぶ) 生まれついての環境や才能や健康状態や身の美醜など、それらの業が縁に触れ、結果として現れたものだというのが「因果の理法」という考え方です。 仏法においてすべての幸、不幸の原因は宿業によるものだと教えています。 それでは結局、人間は宿業(運命)によって幸、不幸が決定されるのか。否。それらは正しい法によって変革ができるするのが仏法の教えなのです。 その仏法の教えも、現在は様々な解釈がなされ(その多くは曲解され)諸宗諸派に分かれていますが、(脱線するのでそのことには触れませんが)ようするに仏法の最大の特色は「自らの宿業を、自ら変革する」というのが本来の思想なのです。 さて、それを前提として・・・ 仏法では生命を「全宇宙に財宝を敷き詰めたよりも尊い」としています。なぜならば生命には仏性と言って、ひとりも漏れなく最高の生命を内在していると説いているからです。(同時に最悪の生命状態をも内在していますが・・・これもまた別の機会に) それを殺すことは他者であれ自分であれ、大変な罪業を背負うことになります。そして生命は永遠である以上、死んだ次の世以降にその報いを受けることになります。 また、自殺の動機となる現状を打開せずに、逃げの選択として自殺を選んだ場合、結局その動機は解決されないまま、生まれ変わった時に同じ悩みに直面することになります。 借金苦の末に自殺した人がいたとします。その人は生まれ変わっても貧乏に悩む家に生まれてしまいます。(これは単純な例えですが) 仏法の因果律はそれほど厳密で、すべての業は全て自身の報いとして現れると説くのです。 仏教は戒律的な側面がイメージとして根強いですが、それらは小乗のもので、本来は「生命を粗末にしてはならない」(かなり平たく表現していますが)という戒律以外は行動規範程度のものでしかありません。 仏法の本来の教えは「究極の主体性の原理」だと私は考えています。 話が逸れましたが、つまりは自殺は「損」であると言えるわけです。 ある経典には、人間として生まれ変わる可能性として「ガンジス川のほとりの砂浜で親指の爪で砂をさらいあげ、その爪の上に残った砂粒ぐらいの確率」でしかないのだそうです。 故に人間として生まれた「生」を精一杯に生き切るべきなのです。 艱難があることが不幸なのではありません。 艱難に負けることが不幸なのです。 故に、艱難に立ち向かう勇気を持つ人が「幸福」な人である。と私は思います。
お礼
仏教での捉え方の側面での理解にはなりました。 どうまありがとうございます。
私の考えをこの場で言わせて下さい。 私は、あるマンガの本でこんなセリフを読みました。 「おまえが一番過去に浸ったままだ。 そいつは未来への冒瀆ってもんだ。」 (白泉社コミックス『ぼくの地球を守って』日渡早紀) 第何巻かは忘れましたが、それはともかく 「未来」は本当に何が起こるかわからないと思います。 それがたとえ自分の未来であってもです。 今は最悪でも、もしかしたら奇跡が起こるかもしれません。 それを勝手に自分でもう駄目だと決めるのは どうかな~と思います。 「自殺」は正に(自分の)未来への冒瀆の 最たるものであると思います。この意味で自殺は 罪だと思います。 マスコミなどが自殺を推奨しないのは、もし推奨して、 その後自殺者が出た場合、間接的な「殺人」の罪に 問われる可能性があるからだと思います。 世間については間接的な「殺人」の罪の罪悪感に かられるからだと思います。 世間のことに関してもう1つ、これは私個人の意見ですが、 人に自殺されて傷つく人も、たまにいるかもしれません。 その人なんかよりももっともっと苦しんで いらっしゃるであろう身体障害者の人たちとか、 白泉社コミックス『闇の末裔』第7巻(松下容子 著)の 主人公のような壮絶な人生を歩んだ者とか (私自身の人生が大変よく似ています)。 自分ほどの苦労もしていないのに、なぜ耐えられない。 じゃあ自分は何なんだ。バカかアホかボケか。 耐えるのはばかばかしいのか。じゃあ自分の これまでの人生は何だったのか。これからの人生は何なのか。 なんだか自分がとても愚弄、冒瀆されたような気がする。 などと思っておられる方もいらっしゃるのでは ないでしょうか。 そしてそれ(自殺)は、同じように(あるいはそれ以上に) 苦しんでいる人々から、希望(光)を奪うものだと思います。 あくまでも私個人の意見です。
- lets5
- ベストアンサー率0% (0/3)
死ぬ事には理由がある →その理由のせいで死ぬ →その理由と自分が生きる事を秤にかけたら理由が勝った →その理由からはなれる事はできない →だから死ぬ 人は常に選択を迫られている生き物だと思います。そしてその選択肢は自分が決める価値観であるとも思います。ですから自分の「価値観」を満足させる、もしくは「目標」を達成するために人は生きるフィールドを制限し、効率的に自分の力を集中させ自分の価値に対する満足感の追及に走る。このような生き物なのではないでしょうか? もし、人間をそのように仮定できるならば「自殺する人」というのは、効率化を最大限に行い、目的・満足感への追求の手段を最後の一つ、または少数に絞りきってしまった人だと思います。このような人が、その目的に降りかかる障害に耐え切れず生きる糧、つまり自分の人生への価値を見出せなくなったため「自殺」という選択をしたのではないかと思います。つまりは自己完結型の人生であり自分という存在の限界を感じた末の「自殺」ではないかと思います。 なんか、自殺についての僕の考えになってしまいましたが参考にでも。。
高校からの大親友が20代後半に自殺しました。 それから、間もなく10年が経とうとしています。 最初、親友が自殺したときは 悲しい、とか、悔しい、などを通り越し まず、頭にきた!というのが正直なところです。 いろいろ悩んでいたのはよく知っていたけど 自殺直前は元気だったし、 なのに、何の相談もなしに(相談がある訳ないですが) 一人先に逝くことはなかろう!と。 でもね、だんだんと月日が経つにつれ 死ぬな!ってのは、残された者たちのエゴかも知れないし 一種の道徳観のようなものの「押し付け」のような 気がしてきたんですよ。 よく「親からもらった命」とか「親からもらった身体」 などと言いますが そういう堅苦しさが重荷になってしまう すごく生真面目なタイプの友でした。 最近、要するに人が多すぎるんだと思うのです。 不快きわまりない。 そういったモノを「受け入れろ!」とか そういったモノから「逃げるな!」というのは 何だか物凄く「傲慢」な感じがしませんか? そうやって「逃げないで居続ける」うちに 今度は「戦う」側に回ってしまったりして 他人を「殺す」側に回ってしまったりして。
社会的に言えば、悪ということになるんだと思います。自殺を容認・肯定した政治や権力は、きわめて特殊な状況下(神風特攻隊とか、自爆テロ推奨みたいなのはその特殊な事例ですね)を別として基本的にないと思います。秩序や体制を守らなくてはいけないからです。 自殺を否定するのは宗教的論理に追うところが大きいですね。今、自殺をことさらに絶対的悪として言うのは、キリスト教の影響です。 でも、イスラムのように、自爆テロを殉教と解釈したり、殉教はキリスト教でも賞賛しますが、自殺と殉教は一応別のものではあるのでしょうが、隣接した行為で、実際のところ、状況に応じて自殺に転換されえてるわけですね。つまり自殺を肯定する論理も宗教は持っていて、一概に否定しているわけでもない。という一面があります。日常の論理では自殺は否定され、非日常の空間では肯定される、もしくは推奨されるというこですね。神風も自爆テロもこのケース(政治と結びつくこと多し)ですね。東洋の宗教では、自殺そのものを善悪で取り上げることはあまりないと思います。というか、自殺にも動機がいろいろあるはずで、自殺だけ、他の様々な行為と切り離して、動機を問うことなく善悪を論じると言うことをしてこなかった、そういう伝統がなかったということでしょう。 私の考えですが、伝統的な東洋の考えに近いです。動機や事情を無視して一概に善悪を言えるのかな、と個人的には思います。ま、良いことだというのはどこかゆがんだ作為を感じますけどね。 病苦で発作的に自殺する人も、神への反逆者なのかしら?身勝手な行為なのかしら? なんで、人生の敗北者とか言えるのかなぁと思います。それはきわめて限られたケースですし、先入観が多分に入り込んでるのではないでしょうか?命の尊厳を思っていても死ぬことをさけられないこともあるとは思います。親は悲しむでしょう。社会的行為でもないでしょう。けど、個人としての行動ではあり得るとは思います。でも、社会的には、やはりあまり容認していくことではないとは思います。
お礼
そうですね。 私も社会的には…いや俗世間では、自殺は容認されるものでもなく、できるものではないと思いますよ。 ただ、それを超える本当の真理があるかなと思いまして…。 参考になります。ありがとうございます。
- mktoolll
- ベストアンサー率22% (20/88)
一人の人間が自殺することは、地球上のすべては一つと考えた時には何の意味もないしなんら不都合もない。そのエネルギーは地球上をぐるぐる巡るだけだから。 自殺が悪という考え方は、やはりキリスト教からきているのだろう。昔から自殺は多かったということなのかな。 苦しいことから逃げ出す人間を無理やり引きとめ働かせる為に、善悪という概念を自殺にはめ込み、貴重な労働力を確保したとも言えるかもしれない。昔のことは分かりませんけどね。 今日本で自殺が多いのは、やはり宗教が確立していないからだろう。なんでもありの今の日本。人の命を軽視する傾向があるように感じる。それが善か悪かはわたしにもわからないですが、悲しいと思うのは戦後教育の成功かそれともメディアの洗脳か? せめて「人間って楽な生き物だよな!!だるかったら自分で死ねるんだもん」と他の生物に笑われないように生涯を全うしたい。私はね。
お礼
回答ありがとうございました。
- tips
- ベストアンサー率14% (829/5762)
>現在多くの人間の自殺する人にはその意見はあてはまるとおもいますが、では孤独な身寄りもいない、山の中で暮らす人間が、だれにも迷惑かからないで自殺するなら「肯定」できるということですよね? そうですね。 自分は、自殺自体は、悪いことでもなんでもないと考えています。 自殺する人、自殺を決めた人には、その人なりの 理由があっただろうし、その人が決意したことだとおもうので それを尊重するっていうのも、人間として自分ができること、 すべきことだとおもうのです。 自殺しようとしている人間が、そばにいたら、話を聞いて とりあえず、考えた直してもよいのではないかなとは、 いうとおもいますが、あとは、本人しだいだとおもいます。
お礼
どこまで、本人の意思が尊重できるかは難しいですね。 「逃げ」と言われるようなものは宜しくないのでしょうが、それでも「いや?」って思うときもあります。 しかし、いずれにしても人が死ぬことが「悲しい」と思うのは人間として「自然の心」でしょう。 回答ありがとうございました。
- 1
- 2
補足
そうですね。絶対的な真理は勿論ないのだとおもいます。それを踏まえてもう少し考えることができたことに意義があるとおもいます。すぐにはこたえが出ることが難ししことがわかっていましたが、様々なかたのご意見を聞けてとても参考になり良かったと思っています。 とても忙しくなり、お礼を載せることが遅れてしまいました。この場を借りまして、皆さんにお詫びします。あと本当は、様々な方の意見が参考になり、考えさせられましたので多くの方にポイントを付けて差し上げたいのですが、甲乙着け難いので、申し訳ございませんが今回は、どなたにも差し上げられません。本当に沢山の方からの回答ありがとうがざいました。