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事物の本性について(Pierre Klossowski)
ローザンヌ博物館にあるクロソウスキー(Pierre Klossowski)の《事物の本性について(De natura rerum)》について解説してください。 あいにく画像が無いので、絵をご存知な方にお願いします。盛んに言われる擬態の道理について、この絵はその事物の本性を描いたものだとは思うのですが、今ひとつ理解できていません。
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ri_rong様、こんにちは~ 従来の伝統的な西洋絵画においては、まず「主題こそがありき」であって、いかにそれを表現するかという点に忠実に描かれてきました。 一方、マネ以降の多くの画家達と同様に、クロソウスキーは独自の絵画表現によって主題である≪事物の本性≫を≪姦淫とは何ぞや≫へと「変質ないし変形」せしめているのでしょう。 ri_rong様のご推察はごもっともかと思われます。 擬態(シミュラクル)が鏡の役割を果たすというならば、絵画を観る者によっては、一つの表徴をもう一つの表徴とを取り違えてしまう疑いや虚偽の危険性をも孕んでしまう場合があるかもしれません。 以前の回答でわたくしが述べた赤いヒト等に関する偽った解釈も、これに相当するという考えに至りました。 >あの地面に横たわってニヤケている赤い洋服のヒト >僕にはやはり、あれは影だと思えます。そしてあの顔は、女性ではなく太陽を見ている。ですから、天の笑いを映した影だと思うんです。くるくる回る、想いのようです。 >けれどこれが、『事物の本性』ではないのでしょうか。 はい、そうですね。 天の笑いを映した影。 だから赤の色調を帯び、かつ、戸外で戯れているのでしょう。 レダに比べて白鳥が小さいという点はいかがでしょうか。 レオナルドに限らず従来の絵画においては、レダと白鳥はおおむね等身大に描かれています。 でも、この絵画は違います。白鳥がやけに小ぶりなのです。 本来であればゼウスの化身の白鳥はレダと交わるためそれなりの大きさが求められるはずです。 これでは…鏡にまるで「さかさま」に映っているかのようですよね。 ギリシア神話的にも両者の立場が逆となり、レダが白鳥(ゼウス)を誘う女状態?! 天の笑う影は実質上はレダの影だからレダと等身大なのですね。 さしずめ陽光の下でレダが一層放縦に白鳥を誘う行為に加担する共犯者、といったところでしょうか。 太陽の陽の光と影が常に同一性を孕むものならば、「姦淫とは何ぞや」は「姦淫という行為ですらも善悪の同一性からは免れない」というのは乱反射しすぎでしょうか。 「姦淫は悪いったら悪いんだよ!」と格好良かったお方のコメントが待たれるところです。 岩波でプラトンですか。そんな信仰への序奏の形もあるのですね。う~ん、なるほど~ 信仰に繋がるかはわかりませんが、こののちゆるゆる読んでいきたいと思います。 ああでも、独り善がりな思いこみ解釈が容易に想像されます(笑) ご紹介いただいたテクストは、いずれもストレートながら何とも美しい文でして、思わず癒されるような心地が致しました。 ラテン語は超早期挫折者なので原文をまるごと諳んじてしまおうかと思います。 フィチーノさんは「フィレンツェにかつて恋人がいたにもかかわらず」存じ上げておりませんでした。 遥か昔のことですがちょっと焦ったかも(非日本人) コミュニケーションの過程では、時に誤認識の恐れも生じ得るわけで、これの訂正と正しい認識のためには、まずは何よりもわたくし読み手側の自助努力なのだと気づかされました。 ピーターハリーのように一見ミニマル・アート風味で、でもわかる人とっては「ああ!フーコだ!」という「逆向きの発想」はとてもスノッブでユニークですよね。 通常の価値観ではフーコ等の思想によって絵画にメスが入りますから。 現代社会すべてを記号化・擬態化させ、そのシミュレーション世界においては真の現実より記号・擬態こそが至上であるというボードリヤールの擬態理論に、多くの作家たちはインスパイアされたようです。 >ボードリヤールの『物の体系』を読んだとき、真っ先に思ったのは様式の喪失です。これが現実感を損なわせる。 >《ジュピター》を聴くときに感じる無常感は、きっとこれなのではないかと思いました。 >規範化された制度を訴えたフーコと、その制度の喪失を訴えたボードリヤールは意見がまるで反対なんですが、《ジュピター》を聴きながら読みますと、どちらも「ああ、無常」と思えるんです。 面白い「気づき」ですね。 是非音楽カテでもお聞きになられてみては。 第四楽章は特にドラマチックな無常の勢いを感じます。 ですがこれも「最後に作った交響曲」というバイアスに起因するものだったりして(笑) 無常の中で、時に立ち止まり、或いは捨て、そしてまた枯渇する魂によって歩きだし何かを得たり得なかったり。 その一方で、自分の分身のような存在とは容易に分かち難いものなのかもしれません。 ps:御多忙とのこと、全くこちらは急ぎませんし、〆て下さっても結構です。どうかお気づかいなさらないで。 主人はとりあえず年2回の経過観察の身です。どうか御大事になさって下さい。
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ri_rong様、お礼を拝見致しました。 どうもありがとうございます! 先の回答にて肝心なことをお伺いするのを忘れておりました。 すみません。 >フィチーノを好きだったバタイユが、キリスト教を攻撃するとき、それは「動かない太陽」に対するものだろうと思いますし、『太陽について』という小品から、なぜそう思うのか、一節を抜き出しておきます。 週末に『バタイユ入門』を読みました。 絶望のどん底や淵、紆余曲折を経験しながら常に休まず模索しつづけたバタイユの究めようとしたもの、そしてその情熱って、いったい何だったんだろうかと。 フィチーノ氏というのはフィレンツェにいた方だったのですね。 そういえば、どこかの質問で「恋人はフィレンツェにいます」とおっしゃっていらっしゃいましたよね。 wikiはあまり好きじゃないの。だって記した人の氏名が公に公表されないから。 何て疑り深いんでしょう(笑) 我が子の聖書を見ても載っているわけがないのですよね。 でも猜疑心で斜め読みするwikiに記載のフィチーノ氏は、ちょっとユニークで教会内ではむしろ異質な方のように思えるのです。 もしも彼を理解するのであれば、先に我が子の聖書を全体的に読了すべきでしょうか。 そして彼の著書なり関連書物は先のようなラテン語原文しかないのでしょうか。 仮に和訳で手頃な物がありましたら、お手すきのときにご教授下さいませ。よろしくお願い申し上げます。 ps: >>「失ってから得る何か」というものがあるのかもしれません >僕の感じる無常感は、ひょっとしたらお書きの内容そのままかもしれないですが、どうでしょうか。僕には、どうもマシュマロさんがそこを仰っている気がします。 はい。そうです。 で、バタイユにも無常の極みであっても「捨てない何か」「無常だからこそ見いだせる何か」があったような気がしてならない、だから心惹きつけられるのだとわたくしは思っております。 彼の大好きだったフィチーノ氏は何か関連する言葉はあるのでしょうか? 実を言うと、週末はついはしゃぎ過ぎて禁断のハイヒールを履きまくり、ちょっと今日はお疲れ&たそがれモードなのです(笑)
お礼
聖書であれば、哲学のカテゴリーで、b氏の話に耳を傾けたほうが建設的です。フィチーノであれば、やはりまずプラトンを読むべきだと思います。ソクラテスは面白い人物だし。和訳では左近寺祥子さんの『恋の形而上学――饗宴注解』などがありますね。 >何か関連する言葉はあるのでしょうか? そうだなぁ。枯渇する魂(anima sitibonda)――という言葉があるんですが、それゆえ僕らは、何ものにも増して対話を求める――という事だと思います。
補足
ご回答ありがとうございます。 >絶望のどん底や淵、紆余曲折を経験しながら常に休まず模索しつづけたバタイユの究めようとしたもの、そしてその情熱って、いったい何だったんだろうかと。 僕が思うには、やっぱり自分探しじゃないのかな。彼がまだ本の虫だった頃、プラトン関係の書物をずいぶん読み漁っていたようです。聖書ではなく、これは想像ですが、もっと「ゆるやかな」人間関係を望んだのだと思います。けれど、その一方で(これは文字通りですが)プラトニック、行いにはつまり一途だったんでしょうね。 フィチーノはどちらかというと、プラトンに留まらなかった。エジプトの神々を見据えていましたね。時代背景も手伝ったのだと思います。地中海貿易を通じて、アラビアから異郷の書物が入ってくる。メディチ家はその時代に覇を唱えた領主で、フィチーノの父親はコジモ・デ・メディチの侍医をしていました。 コジモは若いフィチーノに言ったそうです。「お前は、魂の医者になるのだ」とね。それから彼は、プラトンの復興を目的にしたアカデミーを設立しました。 和訳は無いですから、全集に引かれる一節をご紹介しましょう。 ――魂は霊的な光、すなわち永遠の真実が神から知性に注がれるとき、またその光があらためて神へと還るとき、自らの不滅を感受する。このように、始めと終わりは神であり、その中間である知性――驚くばかりに明るい環――は閉じられる。知性は最初と最後の両端に参与しているゆえ、永遠である。つまり、父の似像として創造された「心」とは、神の鏡であり、それは自らの起源へと神の光を、その不滅の像を還す。一方、身体は神の陰である。魂は陰と暗の上なる永遠性の像であり、場所や時に限定されることなく、思惟によって境界を超え時空を駆け巡ることができる。 宇宙普遍の明瞭な範型の像である魂が、それを生んだ神を愛さないはずがない。神から流出し「心」を満たす光に歓ぶ。(ジェンティーレ、「プラトンの復活」) どうでしょう。感じとして、なんだかこれまで交わしてきた対話の全体を見るような感じが致しませんか? >我が子の聖書を見ても載っているわけがないのですよね どちらかといえば、僕は神に「ゆるい関係」を望んでいます。聖書はあまりに頑固であり、むしろ岩波文庫でプラトンを読むほうが性分に合っている。その息吹を感じたなら、無理をせず、気の向くままに思索にふけるのが良いのではないでしょうか。 >もしも彼を理解するのであれば、先に我が子の聖書を全体的に読了すべきでしょうか。
ri_rong様、こんにちは。 映画『天使と悪魔』で「聖テレーザの法悦」がアップしたとき、 「ああ!バタイユ!(文庫版『エロティシズム』の表紙)」と興奮してしまいました。 もう「ベルニーニの傑作」とは浮かんできません(笑) http://www.wga.hu/frames-e.html?/bio/b/bernini/gianlore/biograph.html >そしてあの双子たちは、無邪気にレダと白鳥を見上げています。それは母性を感じているからでしょうか。そうではなく、僕はそこに「誘惑」を感じるのです。 はい、おっしゃるとおりです。 わたくしも赤ちゃんたちがレダと白鳥に母性を感じ仰ぎ見ているとは思えません。 ri_rong様のおっしゃる「誘惑」。 それはレダと白鳥の関係を暗示させ心惹き寄せるもの、という意味でしょうか。 そしてそれはクロソウスキーのあの絵画における赤いニヤついたひとと同じ役割を担っているようにすらわたくしには思えるのです。 >姦淫は悪です。悪であることを知っているからこそ、人間は姦淫をするのではないでしょうか。←oui. >姦淫をするとき、人は(これは想像ですが)姦淫が「なぜ」悪いのか? と、問うているような気がします。←bien sur. >であれば、なぜ問うのか? それは、姦淫が悪であることをすでに「知っている」からではないでしょうか。←exactement. >知っているのに、なぜ姦淫するか。ひとえにそれは、問い掛けた「なぜ」に対して、答えが見つからないからだろうと思います。言い換えれば「なぜ」を知るために、姦淫をする。姦淫を悪だと僕が呼ぶのは、問い掛けている者は、それが悪である事をすでに「知っている」からです。←oui…mais non, 姦淫が悪であり禁忌を帯びる性質のものである以上、逆にそれを侵犯するが故に、一種特別な魅力や情熱を感じたり、或いは歓びと悦楽などを見出すのではないでしょうか。 だからこそ人間はときに禁断の姦淫にふけったり、或いは日々それを夢想するのだと思うのです。 >ゼウスはなぜ白鳥に姿を変えたのでしょうか。 >神話によれば、レダは姿を変えたゼウスが白鳥の正体であることを知らないことになっています。これって、本当でしょうか――けれどもそれは、知ることが叶いません。 >白鳥がゼウスであることを知っているのは、あるいは観客だけではないでしょうか。 >絵を見つめる観客、その観客にとってのみ「姦淫」は成立するのではないでしょうか。 ああ、なるほど! さすがの洞察力で、大変参考になります。 「白鳥がゼウスである」ことの認識が「姦淫」へとたしかに繋がりますね。 個人的には「白鳥がゼウスかどうか」レダには関心がなく、むしろ「ゼウスの化身と見抜いていたし、もしくはあえて知りつつも知らないふりをして”脆くも口説かれた”」という確信犯のほうが、より一層エロティックな感覚が増すように思われませんか。 つまり、白鳥であるのに強く求められ、抵抗を装いながら乳房をついばまれる「不思議な非日常性」を「けしかけている当の白鳥以上に」レダは楽しんでいるように映ります。 >そして彼らの目は、決して互いを向き合いません。この向き合わない視線だけが、この絵のなかでは唯一の真実のように僕には思えます。 >彼らは、互いの存在を知らない。にも係らず、観客はそこに男女の交わりを予感してしまう。 本当にri_rong様のおっしゃることはとても興味深い考察ですね。 向き合わない視線、ですか。 唯一の真実。 交錯しない視線とは裏腹に各々は相手の身体部分に触れており、お互いに愛撫しあっているようにも見えます。 ちょっと白鳥の脚のあたりが不鮮明で、これは単にけしかけているだけにすぎないかもしれませんが。 >僕にはやはり、あれは影だと思えます。そしてあの顔は、女性ではなく太陽を見ている。ですから、天の笑いを映した影だと思うんです。くるくる回る、想いのようです。 >けれどこれが、『事物の本性』ではないのでしょうか。 ああ、赤いヒトが「影」であり、見えざる太陽を見ている、そして「天の笑い」を映し出している。 たしかにこの箇所を手で覆うと、意外な事に、絵画全体が何らsensualではなくなってしまいますものね。 『事物の本性』でもあり、絵画における一つの要でもあり。 傍らに位置する家の内開きの窓に薄く見える白い人影のようなものは一体なにに見えますでしょうか。 わたくしの環境では判明しづらく、白鳥の羽が映っているのか人が覗き込んでいるのか不鮮明で残念でなりません。おわかりになりますか。 >>哲学的な考察が適当でなく、解決しようのない「心の闇」 >自分の影が見えるとき、背後には明るい陽光が射しています。ですから振り返れば、そこには太陽が見つかるでしょう。 >信仰とはその向きを変えて太陽を見ることに近い気がします。 これに関しては記して下さった引用も含めまして、いったい何と感謝を申し上げたらよろしいのかわかりません。 本当にありがとうございます。 そうですね、自分の影の背後には必ず太陽の存在がありますものね。 太陽のあたたかい恵みの光を背中全体に感じ、ふりかえって仰ぎみる。 わたくしの筆舌し難い「心の闇」など、他の方々にすれば恐ろしくくだらないレベルなのです。 表層的な容貌と要領の良い運動神経しか取り柄がなかったことに対する驕りと悔しさ。 美しく華奢なハイヒールを泣きながら全処分したあと、空っぽの空間に「杖」を一本置いたときに思わず泣き伏して、「もう女ではなくなったのだ」という屈辱感とレントゲン写真を除けば何ら以前と外見上変わらない不条理さ。 でも世の中にはもっとシビアな状況下で悶々と悩む女性も多くいらっしゃるわけでして、わたくしは本当に恵まれていることを忘れてただ甘えていただけにすぎなかったのです。 それに、忌まわしいはずの「心の闇」により、逆に「いままで測り知れなかったの得難い恩恵」を最大限に享受しております。 夫との関係改善と復活を積極的に促した原動力でもあり、それからの逃避願望の強い希求は、かつてないほどの自我の放出とカタルシスの効果をもたらしてくれているのです。 影は陽光あっての影にすぎませんが、影のおかげで、また、より一層陽の光があたたかくも眩しくも思えるのだとしたら、あながち一掃する必要もないように思われます。 ふとしたときにのみ顔をのぞかせる「心の闇」は漠然とした不安でもあり陽の光と異なる刹那的な灯でもあり。 そして本当のあたたかな陽の光。 これからは、ゆるゆると、真の陽の光を見るために自らふりかえる姿勢をも一から学んでいきたいと思っております。 「信仰が不要である、必要性を全く感じない」という状況というのは、実は「周りにうまく流されて生きている部分が大きくて、その場合自らはあまり能動的に生きていない、むしろ生かされている状態なだけ」のようにも思えてきているので。どうなのでしょう。 ああ、やっぱり、普段は3分ともたない思考力を長引かせようと無理すると、トンチンカンな発想に陥ってしまうわけでして(笑) >視界に姿が現れる場合を考えてみます。容易に思いつくのは、鏡に映し出したときでしょう。それと、影です。明るい陽光の下に立つとき、影が並んでいるのが見える。凝態とは、これなのではないかと思うんですが、どうでしょうか。 はい、これにつき、もう一日ゆっくり考えさせてください←つまりまだ理解不十分 例の双子の赤ちゃんの数ですが、レダが二つの卵を産んだという設定に比べると解釈にばらつきがあるようですね。 カストルとポルックスのペア説、レオナルドの双子x2、あるいは5つ子が描かれた絵画もあるようです。 また、ミケランジェロやセザンヌ、クロソウスキーは意図的に赤ちゃんと卵の殻を描いていません。 やはりri_rong様のおっしゃる「誘惑」と絵画全体の表現性との相関関係に尽きるのでしょうか。 ちなみに今まで触れておりませんでしたが、ピーター・ハリー などは「シミュレーショニズム」という現代美術の範疇の作品を製作していますよね。 現在『知の欺瞞』をゆるゆる読んでいる最中ですが、ボードリヤールの唱えた「シミュラクル」とクロソウスキーのそれとは何か根本的な差異がありうるのでしょうか。 以下のCellシリーズは、フーコにインスピレーションを得ての刑務所の独房、監房であり、縦横に巡らされたパイプで隔離された空間、社会同士があたかも繋がっているかのようで大変面白いと思いました。 http://www.museomadre.it/opere.cfm?id=134&evento=51&pt=1 http://www.peterhalley.com/ARTISTS/PETER.HALLEY/1980-85.Index.htm ps:「失ってから得る何か」というものがあるのかもしれません。 その一方で「一時の感情に流されずに失わなかったことにより後日得られる何か」もありえるのではないでしょうか。
お礼
>映画『天使と悪魔』 ほう。見てみたいなぁと思っていた映画です。 >逆にそれを侵犯するが故に これが、まだ知らないことを追い求めるときに、どきどき感を産むのでしょう。ただし、超えようとするのが悪だということを知っている。それゆえ、その先に待っているだろうものは、快とか善だと思ったりはしませんか? だとすると、超えたものを求めるときのどきどき感は、そりゃ一入だろうと思います。 >確信犯のほうが、より一層エロティック 確かにエロティックですが、これは確かめようがないという、知を超えるどきどき感じゃないのかな。僕はここで「確かめようがない」というのは本当なんだろうか、とすぐに思ってしまうから、夢がなくなったりします。 >傍らに位置する家の内開きの窓に薄く見える白い人影のようなもの よくわかりません。こういうところに窓が付くのは、彼らの背中を映しているのだろうと思うのですが、むしろご奉仕を終えたガリバーとロベルトかもしれません。専門家の解説が待たれます。 >ピーター・ハリー 知らない芸術家でした。監獄をモチーフにされていますが、これはアドヴァイスが無いと僕には無理です。先導していただけますと、付いて参ります。 >ボードリヤールの唱えた「シミュラクル」 これは、新しい視点ですね。実は、音楽のカテゴリーでモーツァルトの《ジュピター》について質問をしようかと思っていたんですが、ここで絡みました。ここは質問者に与えられた特権でもって、この話題を少し広げてみます。 ボードリヤールの『物の体系』を読んだとき、真っ先に思ったのは様式の喪失です。これが現実感を損なわせる。《ジュピター》を聴くときに感じる無常感は、きっとこれなのではないかと思いました。規範化された制度を訴えたフーコと、その制度の喪失を訴えたボードリヤールは意見がまるで反対なんですが、《ジュピター》を聴きながら読みますと、どちらも「ああ、無常」と思えるんです。 >「失ってから得る何か」というものがあるのかもしれません 僕の感じる無常感は、ひょっとしたらお書きの内容そのままかもしれないですが、どうでしょうか。僕には、どうもマシュマロさんがそこを仰っている気がします。
ri_rong様、こんばんは! いつもあたたかい励ましのお言葉を本当にありがとうございます。 >これがおそらく、あの絵の持つテーマで最大の難事だと僕は思います。それが、レダに求愛するゼウスがやっていることは、果たして姦淫なのか? という問いでしょうね。 >クロソウスキーもまた、同じことを問い掛けている気がします。 はい、そうですね。 通常、観る者の側が絵画の価値評価の判断を下すと想起されがちですが、あの絵画に関しては逆に、観る者をシビアに峻別しているかのように思われるのです。 それとも、ひとりの人間の内に両義的な見解が生じさせ得るものといいますか。 「えええ」とこちらがシラジラしくほくそ笑んでしまいそうな卑猥さ、羞恥心といった感覚を抱く一方で、一旦瞳を閉じてまた開けると虚心坦懐の境地といいますか、「この情交ってはたして姦淫なのか?」と思いたくなる感覚。 simulacre=模像、凝態(シミュラクル)の道理とは、これらを意図するただの像に過ぎない、ということを指すのでしょうか。 >この質問のNo.7が、僕の哲学に対するスタンスです。どうでしょうか。 >このように、哲学は日常の些細な疑問、そして身に降りかかる「ちょっと嫌だな」と感じるくらいになった抑圧に対して、「どうするか」というところから始まると思います。 はい、あなたのスタンスはまさにわたくしの理想とするところのものです。 大変参考になります! また、pokoperopo様の質問センスの素晴らしさもさることながら、実際に哲学の命題として相応しい対象の取捨選択も大切なのだと感じ入りました。 例えば個人的には、前回記した「わたくしのバタイユ=レダの股間」。 あいにく、哲学的な考察が適当でなく、解決しようのない「心の闇」となり下がってしまっております(笑) 度重なる流産、早産の危機、二度めの出産時の昏睡状態といったアクシデント、セックスレスと夫の浮気と解消、わが腹より出でし子供達と子離れの難しさ、将来必ず迫られる人工股関節置換手術への不安、日常の開脚の不自由さと大好きだった激しいスポーツの制限。 全てわたくしの「股関」に帰結し、レダの淫らに開いた脚や股関に思わず目が向かっていたのも事実です。 どうしても最後の項目だけは「現在の医学をもってしても、もしくはいかに考えようにもどうしようもないこと」であり、ふとした折りにsensualで不安定な衝動に陥ってしまったりして。 何故かしら、でもまあ、他で充分すぎるほど恵まれてるから良しかしら(笑) 上述の不思議なエロティックな心の闇を探って将来の不安に駆られるよりも、むしろ自分にとっての「信仰」とは一体何なのか、何故今までそれに気づかなかったのか、と自問自答しているほうがはるかにマシな気がするのです。 レオナルドの描いた双子の赤ちゃんの件ですが。 双子願望は彼の左手と鏡文字に映った手を真っ先に思い浮かべました。 対の状態が非日常性を表現しながらも、まるでその裏表というか2つの側面をもってして完全体を成すような、そんな風に映りました。 ri_rong様はどのようにお考えになられたのでしょうか。 さらに、本題の絵画に話を戻します。 ri_rong様は、あの地面に横たわってニヤケている赤い洋服のヒトから何をご想像なさるのでしょう。 画像が小さいので凝視できないながらも、何やら白鳥をけしかけているようにも思え、もしくは故意に三すくみで戯れているようにも思えるのです。 以前の古典的モチーフとしてはあくまでレダと白鳥のみだったはず。 う~ん。この絵画は怪しすぎマス。 やっぱり、わたくしは虚心坦懐には果てしなく程遠い女なのかもしれません(笑)
お礼
――人間が精気によって歓喜し、その表情が笑う毎に内的に輝き、精気によって膨らみ、表情、特に非常に星辰的であり、笑う時に天空のような回転運動をする眼によって、輝いていることが見られることから、光は星辰的な諸精気の喜びによって起こされた天空の笑いであるということが理解される。(神意の喜びによって起こされた天の笑い、つまり光は、全てを暖め、喜ばせる)――Quod lumen sit risus coeli ex spirituum coelestium gaudio proficiscens, indicant homines, qui quotiens laetantur spiritu, ridentque vultu, splendent certe intus, dilatanturque spiritu, vultu quoque splendere videntur, oculis maxime, qui maxime sunt coelestes, quique in risu motum coeli instar efficiunt circularem. (Risus coeli ex numinum gaudio proficiscens, id est, lumen omnia fovet atque delectat. Cap. VIII.) >あの地面に横たわってニヤケている赤い洋服のヒト 僕にはやはり、あれは影だと思えます。そしてあの顔は、女性ではなく太陽を見ている。ですから、天の笑いを映した影だと思うんです。くるくる回る、想いのようです。 けれどこれが、『事物の本性』ではないのでしょうか。
補足
マシュマロさん、ご回答をありがとうございます。 >通常、観る者の側が絵画の価値評価の判断を下すと想起されがちですが、あの絵画に関しては逆に、観る者をシビアに峻別しているかのように思われるのです。 まさに、同じことを考えていました。あの絵は、鑑賞者を峻別している。その峻別は、神話やレオナルドの絵に描かれる双子のようなものだと感じます。描かれた双子が画面から消えた代わりに、クロソウスキーの絵は画面がその双子を演じている。以前に、僕が投稿したテクストの持つ「誘惑」について、その内容を覚えておられるでしょうか。 そしてあの双子たちは、無邪気にレダと白鳥を見上げています。それは母性を感じているからでしょうか。そうではなく、僕はそこに「誘惑」を感じるのです。 ところで、姦淫は悪です。悪であることを知っているからこそ、人間は姦淫をするのではないでしょうか。姦淫をするとき、人は(これは想像ですが)姦淫が「なぜ」悪いのか? と、問うているような気がします。であれば、なぜ問うのか? それは、姦淫が悪であることをすでに「知っている」からではないでしょうか。 知っているのに、なぜ姦淫するか。ひとえにそれは、問い掛けた「なぜ」に対して、答えが見つからないからだろうと思います。言い換えれば「なぜ」を知るために、姦淫をする。姦淫を悪だと僕が呼ぶのは、問い掛けている者は、それが悪である事をすでに「知っている」からです。 単にその事実を、指摘しただけです。 さて、ゼウスはなぜ白鳥に姿を変えたのでしょうか。神話によれば、レダは姿を変えたゼウスが白鳥の正体であることを知らないことになっています。これって、本当でしょうか――けれどもそれは、知ることが叶いません。 例えばあなたは、「絶滅危惧種の鳥」から名前を変えたのが、僕だということを知っています。けれども、観客たちはそれを知りません。白鳥がゼウスであることを知っているのは、あるいは観客だけではないでしょうか。 絵を見つめる観客、その観客にとってのみ「姦淫」は成立するのではないでしょうか。 クロソウスキーの絵に戻ります。絵の中で男は、女の左足を右手で支え、左手の白鳥を女の乳房へけしかけます。そして彼らの目は、決して互いを向き合いません。この向き合わない視線だけが、この絵のなかでは唯一の真実のように僕には思えます。 彼らは、互いの存在を知らない。 にも係らず、観客はそこに男女の交わりを予感してしまう。あなたは、ご主人の姿を見るとき、クロソウスキーの絵の如く、そこに「自分の姿」が見えるでしょうか。これは断言しても良いが、姿は見えないはずです。 視界に姿が現れる場合を考えてみます。容易に思いつくのは、鏡に映し出したときでしょう。それと、影です。明るい陽光の下に立つとき、影が並んでいるのが見える。凝態とは、これなのではないかと思うんですが、どうでしょうか。 >哲学的な考察が適当でなく、解決しようのない「心の闇」と 自分の影が見えるとき、背後には明るい陽光が射しています。ですから振り返れば、そこには太陽が見つかるでしょう。 とても重い悩みを、お持ちのようです。僕に言えるのは、信仰とはその向きを変えて太陽を見ることに近い気がします。太陽は決して、影というエロティックな闇のために輝いているのではないはずです。フィチーノを好きだったバタイユが、キリスト教を攻撃するとき、それは「動かない太陽」に対するものだろうと思いますし、『太陽について』という小品から、なぜそう思うのか、一節を抜き出しておきます。
ri_rong様、こんにちは~。 回答が二つに分かれてしまってごめんなさい。 昨夜のわたくしのフーコ話が余計だったですね、すみません。 >何かの折に気になる――という存在として、僕にはどうも「リカちゃんのヘソ」があるのですが、それがきっと僕にとっての拘束具なのだろうとは思っていまして、あるいはそれが靴なのかと思いました。まあ、考えてみれば可笑しなものでしょう。 >だって、「ヘソ」ですよ? >でも、僕にとっては、これがバタイユです。 リカちゃんのおへそ。拘束具。レダの靴。バタイユ。 リカちゃんもさることながら、幼少の頃に「おへそを隠さないと大変でしょ」と何度か家族から言われたことがあります。 「へそもち」という福音館の絵本を思い出しました。ご存知でしょうか。 雷様がカミナリを落として大好物の人間・動物のおへそを盗みまくっていたので、とあるお坊様が知恵を絞って五重塔のてっぺんにおびき寄せて困らせて、おへそをモチーフにした「へそ餅」を雷様に持たせて退散させた、という童話です。 「おへそ」を取られた人間や動物たちは力が出なくてヘナヘナに描かれてました。 今、我が子たちに「大事なおへそを取られたら困るからちゃんと隠しなさいね」などと諭す時代ではないようで。 おへそって結局、閉じられた「穴」だし、実際の人形の生産性、効率性にも響くから、大人の判断で消失しちゃったんでしょうかね。 そのうちに、手脚がさほど自由に動かなくてもいい、何パターンかの黄金ポーズがとれればそれでいい、なんていう更なる身体的改造論が出てきたりして。 だとしても、それも文化として一つの形態なのかもしれませんし。 ある意味、半生をずっと共にしてきた?リカちゃん人形だからこそ、むしろri_rong様の方が感謝してもよろしいのかもしれなかったりして。 ri_rong様にとってのリカちゃんのおへそは、わたくしにとってはレダの股間。 そうそう、レダに求愛するゼウスがやっていることといえば「姦淫」ですよね。 何故レオナルドがあの主題を描く気になったのか、双子の赤ちゃんと同じく、今ちょっと考え中です。 これに絡み、ri_rong様の「姦淫の悪さに「なぜ」は無い。それほど、悪いのだ。だから知らないのも無理はないと思うが、遅くはないから知ってくれ。ところで、「知る」ということは、知っているか?」を見て、「いかにもri_rong様らしいなあ」と、わたくしは微笑みつつ2つのことについて考えました。 クロソウスキーのあの絵に描かれたタブーの一つがこの「姦淫」であり、「エロティシズム」という言葉が氾濫する遥か昔より禁忌と侵犯行為を具現化する行為だということと、【「知る」ということを「知る」】について、です。 昨日『外の思考 ブランショ・バタイユ・クロソウスキー』という古書が届きました。 開封して、フーコの指摘する『アルキビアデス』の箇所と以下のテクストを想起しました。 「われわれの主要な能力がいかなる状態にあるかを悟ることである。自分の弱点を認識してしまったあとでは、それを、いっそう重要な用途に役立てたいとは思わないだろう。 ところが今日、ごく少量のものをも飲み下す能力のない人々が何かの論文を買い求めて、それをむさぼり読もうと企てる。 だから彼らは吐き出すか、あるいは消化不良を起こす。 その次に、下痢や風邪や発熱がおこるのであり、まず彼らは自分の能力について考えておくべきだったのである…。」『自己への配慮』p77-78 >バタイユが恥部に拘ったのは、このように歴史の浅い概念に、なぜ人間はそれほどまでに捕らわれるのかという――知識人ならではの、疑問があったんじゃないでしょうか。 >さて、クロソウスキーの描く女性の股間もまた、開いたままで閉じている。 >初めて彼の絵を見たとき、僕は、あのバタイユの目じゃないかと、そのものじゃないかと思いました。絵を見る者にとっては開き、また別な者にとっては閉じる瞳のようなものです。僕たちはきっと、一度、目蓋を閉じなければならないのかもしれない。 >そしてもう一度開いたとき、世界はきっと変わっているのだろうと思う。 なるほど…。 これを拝見して、以前頂いた「プラトンの洞窟の囚人たち」と「ダ・ヴィンチのおかれていた境遇全てと何に縛られていたか」のご回答を思い起こしました。 凄く、不思議。 あとでみんな繋がってくるように思える感覚。 でまた、切って繋げて、の繰り返しのようでもあり。 ああ、何故今日は思いだすことばかりでちっとも先に進まないのでしょう。 いえ、元々ちっとも進んではいないのですけどね(笑)
お礼
二通目ですね。ありがとうございます。 >レダに求愛するゼウスがやっていることといえば「姦淫」ですよね。 これがおそらく、あの絵の持つテーマで最大の難事だと僕は思います。それが、レダに求愛するゼウスがやっていることは、果たして姦淫なのか? という問いでしょうね。 クロソウスキーもまた、同じことを問い掛けている気がします。 ご指摘のように僕はあの質問で、答えを書いた。そして、あなたが引用なさるところは、本当に僕があの答えを書くときに考えた部分と近しい。 まだ質問は開けておきます。是非、いっしょに考えてみましょう。
ヤッター! ri_rong様、あった、あった! こんばんはー! で、「Le souci de soi」のパラグラフ8行目末からちゃんと出だしがありました@wiki! しかも、肝心の「normes」と「valeurs」が青文字だったし~←泣き笑い そのあと、ご紹介下さったサイトを拝見した上で『自己への配慮』の第二章 自己の陶冶 を一読し、更にサイトを拝見し、「ぶっきらぼう」にも回顧してまいりました。 実はね、あなたのお書きになっていることが何をおっしゃっていらっしゃるのか、正確には殆ど良くわからなかったのです。 あーだいぶ半分くらいスッキリしました。 あとは雨合羽様の箇所が残っておりますが…うう。人生わからないことだらけってことで。 >ウィキに書かれるあの文言は、フーコが「配慮」というものを説明する機会のために、取っておいたものであり、――そしてこの自己の配慮は「汝みずからを知れ」という掟と同じものではなく、この命令が成り立つための土台であり、基礎であることが、いずれ『アルキビアデス』の分析から明らかになるはずだと、フーコーは予言している。 >と、サイトに書かれたもの以上でも以下でもない、ということです。 ガーン!!! あのセンテンスの意味するところのものがこれだったとは!! 『自己への配慮』を読んでもさっぱりチンプンカンプンだったのですが、ご紹介のサイトによって一気に「開眼」した錯覚に陥りました。 しかも、なかなか良いことが書いてあるような@第二章 明日の朝、是非とも再読してみます。 哲学って愚鈍なわたくしには骨折れて疲れるけど、逃げずにトライしてみようかなあ、って思ってみたりもして←短絡的 あとですね、「ぶっきらぼう」に回顧して発掘してきたあなたの >フーコの国家とか権利とか規範性なんて言葉は、もう前世紀にとうに片付いていて、僕にとってはどうだって良いのです。 >それよりも、新しい分野を語る時期に来ていると思うんですね。 というご見識もわたくしにとっては得難いものであるのは言わずもがなですし、「20年前と変わらぬ我がスタンス」にもあらためて気づくことが出来ました。 すごく嬉しいです! 自ら進んでフーコのステレオタイプ的ワナ(代表的著作『監獄の誕生』の主要語彙)の囚人と化してしまった観がありましたから。 それにフーコ自身が、コレージュ・ド・フランスの講義で、あの『自己への配慮』を殊更に重要視していたという事実。 なまじ「便利だから」とフーコを語るのもヤバイのは言わずもがなですし、このフーコの「関心の変遷」というのは、あながちバタイユ等などにも通ずるものがあるのかなあって思ってみたりもするのです。 「一目をひくようなエロ・グロ」にばかり着目して自家中毒をおこしてばかりいるのではなく、清濁併せ持った視点でゆるゆると考察していけたらいいなあ、って考えつつあるのです。 これも全てあなたのおかげです。本当にありがとうございます!!! ああ! gooやってて「良かったー!!!」と思える至福の瞬間。 …ちなみに、あの質問者様は…いったい… まるで「洞窟の中を永久に迷走しまくっている戸愚呂の兄貴@幽々白書」状態ってことでしょうか…? (↑こんなのご存じないですよね、笑)
お礼
マシュマロさん、ご回答をありがとうございます。 >哲学って、逃げずにトライしてみようかなあ、って思ってみたりもして ・http://okwave.jp/qa4783455.html この質問のNo.7が、僕の哲学に対するスタンスです。どうでしょうか。 >自家中毒をおこしてばかりいるのではなく、清濁併せ持った視点でゆるゆると考察していけたら その通りだと僕も思います。あなたとの対話を通じ、僕はほんとうに多くのことを学び、そして受け取りました。おそらく、一生忘れない。それは、ただ晴れているだけの日より、どういうわけか雨あがりの日のほうが、世の中をすっきりと見通せる気がするのと同じで――先人たちはきっと、その点でどうやら、意見が一致しているようです。 あなたがその美しい瞳を閉じるとき、そして真珠のような涙が流されたとしても、太陽がまた顔を見せるかのように、その瞳は開かれるだろうことを、僕は信じて疑わない。再び開かれた瞳はおそらく、以前とはまるで違った、ずっと透明感のある光を帯びていると思います。さあ、がんばってこれからも生きて参りましょうか。
ri_rong様、こんにちは。 >実はあの訳と同じ意の文章を『自己への配慮』で偶然にも見つけた時、僕は思わずのけぞったんですよ。よもや、文意をここから拾い出しているわけはなかろう――と思ってです(すいません)。同じ文字の羅列が、別な意味を当て嵌めて別々のテクストに織り込まれている。その事実を見つけたとき、僕は「神よ」と思いました。 わたくしもその後一読したのですが、その箇所がいまだわからずじまいなのです。 『Le souci de soi(自己への配慮)』であって、『La volonte de savoir(知への意志)』ではないのですよね。 よろしければ御手数ですがご教授下さると助かります(お手上げ状態) 我がアルキビアデスのご回答は、本当に的を射てわたくしにとって得難い教訓と心得となりました。 本当に感謝の気持ちでいっぱいなのです。 元々の質問はこちらでしたが、当の質問者様の意図と該当著書『監獄の誕生』との間に不協和音を感じ、「[市場経済]に留め置いた一見良心的とも言える≪悪戯≫」を諫めて下さったのですから、「偽善」とは真逆の「ぶっきらぼうさを取り繕った人の善さと誠意」でなくて何でありましょうか。 本来であれば、指摘するだけでも大層難儀だというのに、です。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4846778.html >あるいは「滑稽なまでの笑いを携えて」読む――ということが、もしもかの絵に意図された事だとしたら、もしもそれが事物の本性なのだとしたら、クロソウスキーはずいぶん痛いところを突くものだと思います。 >けれど滑稽ではなく、もっと別な種類の笑いに変わる――というのが、ベルグソンとバタイユの違いだったと思います。あなたのお気持ちを察すれば、白さを超えて、むしろ白々しさに代わったものが滓のように身体のうちに貯まり、忍び笑いをしながらスパーンと大きな音を立てて僕は張り倒される――というような感じでしょうか。 ああ、なるほど! おっしゃるところの表現力の鋭さに思わず脱帽です! ユーモアでなく、どこか白々しさを含んだ性質。 もっとわたくしはより一層言葉のもつニュアンスに正確さを期すべきなのかもしれない、と思いました。ありがとうございます。 その感覚とは、「実は人に境界を失わせること」と相通じる「男女の間の分離による不安」を克服する上でエロティシズムからもたらされるところのものなのでしょうか。 無知の知をもってしても、バタイユとクロソウスキーの両者共に(或いはバルテュスも含めるべきでしょうか?)、あらゆる意味において「かなり難しい」気がするのです。
お礼
マシュマロさん、こんばんは。 ご回答をありがとうございます、すっかり回答が遅くなってしまいました。 >元々の質問はこちらでしたが、 どうやら、お礼欄を見ると、僕の予言はまんざらでもなかったでしょう? >わたくしもその後一読したのですが、その箇所がいまだわからずじまいなのです。 なるほど。あのときの僕の回答は、大きくふたつの意味があります。 まず、ひとつめはかの質問者が、あの文句をどこで見つけたか? という事への回答です。そしてそれは、どの著作にカテゴライズされるのか。参考すべきウェブサイトを掲載しておきます。いったい、どこで見つかるでしょうか。 ・http://fr.wikipedia.org/wiki/Michel_Foucault そして、ふたつ目は、あの文句をいったいどのように解釈すれば良いかという事への回答です。フーコは、コレージュ・ド・フランスの講義で、あの『自己への配慮』を殊更に重要視して講演しています。冊子としては、『主体の解釈学』が良いでしょう。 よくまとまっているサイトがあったので、掲載します。 http://polylogos.org/hs002.html 文中に出てきますが、「配慮」とはいったい何なのか。 「Epimeleia heatou(己自身を知れ)」と双子の箴言として、古典古代の時代から続く箴言ですが、配慮というものを考えるとき、フーコは『ソクラテスの弁明』を通じて、それが国家とか制度とかといったものだけではなく、企業や財産、社会いっぱんに広く敷衍するものへと展開してゆくのです。 ウィキに書かれるあの文言は、フーコが「配慮」というものを説明する機会のために、取っておいたものであり、――そしてこの自己の配慮は「汝みずからを知れ」という掟と同じものではなく、この命令が成り立つための土台であり、基礎であることが、いずれ『アルキビアデス』の分析から明らかになるはずだと、フーコーは予言している。 と、サイトに書かれたもの以上でも以下でもない、ということです。
ri_rong様、こんにちは! 御多忙な中ごていねいなお礼を下さることに、心より感謝申し上げます。 >そしてその人形は、僕が生まれる前から家にいました。「この子は女の子に違いない」と、恐らくは早とちりした両親のせいでしょうけれど、そういう意味では僕よりも(両親に)愛された人形だったと思います。 ああ、この手の「親の身勝手な想い」はよくあることです。 でも、生まれてからは、性別の別なく生まれ出でた我が子を性別も含めて愛すると思いますけどね。 もしかすると、息子だけ、もしくは娘だけの家庭なら、無い物ねだりの心境も時にはあるかもしれません。 それでも「娘なんて面倒なだけ」「息子なんて大きくなって大変そう」と、自分本位に達観していきますから大した問題ではありません。 だからそのお人形は、ri_rong様がご誕生になった瞬間から、むしろそれまでの「身勝手な想い出の存在」以上でも以下でもなかったと拝察致しておりますが…。 >たぶん僕は、人形を捨てたいのだと思うんです。それが、うまく質問できない。 はい、時として、うまく自問自答できないもどかしさって結構ありうるかも。 しかも人生の半ばをすぎているっていうのに、うう。←我が身のコト わたくしの場合、小学校高学年の頃、スノッブでワガママ育ちな祖母による嫁イビリが原因で、父と母が離婚してしまいました。 見合いの末の結婚でしたが、一人っ子だった父が最後まで母をかばいきれなかったのです。 当時、たかが10歳やそこらで、「ママはこの家を出た方が幸せになれる」の現実的な想いと「パパママ共に揃ってそばにいてほしい」という素直な本心の間に揺れました。 でも結局は双方の実家のいがみ合いにまで発展していきました。 不思議でしたよ。だってね、ある日帰宅すると、母がいないの。 わたくしはそのまま父方のまま、かつ、幼稚園~高校まで私立の女子校でしたから、学校環境も経済的にも以前のままで、この点については極めてラッキーだったのかもしれません。 両親とともにしばしば外出しましたし、ある意味何も変わらず、でも実際は何かが変わっている、そんな不思議な感覚。 これって、どうやら生来の「物事の両義性を見極めたがる癖」や「ニヒリズムに近い虚無感」の由来は、もしかすると、あの頃抱いた「自分にはどうすることも出来ない事がある」という絶望感からくるのかなあ、と、今さらながらこの歳になって、ふと思ったりなんかもして。 それとも、今まで積もりに積もった怠慢のツケの弁明でしょうか(笑) でもね、特に不安にもナーバスにもならないのですよ。 むしろこういった「落ち着いて顧みる余裕」がようやく生まれてきたのかもしれません。 ri_rong様のご両親のお話をおうかがいしたので、拙い我が身も晒してみたくなりました。 >どうしてあんな質問をしたのかというと、僕の人生のなかで、ある頃までは、それこそ無警戒にヘソは付いているものだという思い込みがあった。どんな些細な物でも、当たり前のようにヘソは付いている――そういう自分、そういう社会だったような気がするんです。ところが、気付いてみると、どうも様子が違っているような気がした。 >そんな気がしたんです。 う~ん。 わかるようでわからないような。もどかしい感覚。 ちょっとこれ、わたくしにも宿題として課させて下さいませ。 何か自分にもありそうな。 >ヘソなんて、考えたことも無かった。だから「大人の都合」というのは、僕が大人になったからだろうと思うのですが、だとすれば、ヘソは消えたのだろうかとも思います。 はい、おっしゃる通りでして、当時のほうが余程目についたであろうのに、おへそなんて考えたこともなく、逆に、大人になってから、おへその存在の有無に気づき、それに囚われるというのは、何とも不思議な感覚に襲われますよね。 一体全体、何がなんだか。う~ん。 >>そうそう、くだんの絵画におけるレダは、靴を脱いでいます >それは、貞操帯のようなものでしょうか。 う~ん、人によっては「貞操帯」と映ることもあれば、シンデレラ物語における靴の性的象徴に結びつけたがる人もいるでしょうし、或いは靴そのものが人の足の木型を理想的に様式美と化したものだ、と見出すかもしれません。 谷崎潤一郎は足フェチを確か作品として描いていましたよね。 >僕にはヘソの必要性が、本当にわからなくなっているんですよ。 >僕は邪まなのだろうか。 よく考えてみたら、わたくしも自らのおへそをじっくり眺めたことも最近ありませんでした。 ウエストまわりを気にしたり子供のお風呂上がり(小3)にタオルでふく際に見かけることはあっても、です。 自らのおへその存在そのものを忘れておりました(汗) 「邪ま」と申し上げたのは、ダ・ヴィンチの描いた「影」をわたくしたち「現代人ならではの小賢しい知恵、理性、倫理道徳感、エロティシズム」でもって、中世に生きた彼等とは「断絶していかに邪に感じるのだろう、そしてその理由は何故だろう」という自問の切り口としてにすぎません。 それにバタイユの件ですが、わたくしはキリスト教批判を目的として考察しているのではなく、過去の情けない夫婦のセックスレスの解消と営みの円滑な継続、という極めて切実で現実的な問題に端を発している、というレベルにすぎません。 またその一方で、バタイユの取り扱う「材料」があまりに不必要なまでに「恥部」に関わる次元なだけに、ともするとバタイユ本来の意図以上にかなり悪そのものになり下がっているような気もするのです。 理解しきれない心の闇やエロ・グロの世界を通じて究めようとした方向とはいったいなんだったのか。 決してキリスト教や信者を排斥を意図していたわけではないし、それこそは、ri_rong様のご指摘、「エロティシズムの根底にある”閉じる必要性”」と「実は人に境界を失わせること」などではないのかなあ、と推察している次第です。 フーコの件はこちらこそ、アルキビアデスへの感謝の気持ちでいっぱいなのです。これは何としても次回にお礼をせねば♪
お礼
>バタイユの取り扱う「材料」があまりに不必要なまでに「恥部」に関わる次元なだけに、ともするとバタイユ本来の意図以上にかなり悪そのものになり下がっている 嗚呼、まったくその通りだと思います。 恥部について――この後のご回答にフーコの話題がありますが、ここでも彼の言葉を借りることにします。俗にいうセクシュアリティなどという用語は、彼によれば19世紀に入って初めて出現した用語だそうで、それが人間に適用される50年ほど前は、生物学や動物学の専門用語として、一部の学者が用いるだけのものだった。 それが19世紀も末になれば、現代人の我々が使うのとほぼ変わらない意味――性的であること、あるいは性を有することの特質――で、『オックスフォード英語辞典』に掲載されることになる。 バタイユが恥部に拘ったのは、このように歴史の浅い概念に、なぜ人間はそれほどまでに捕らわれるのかという――知識人ならではの、疑問があったんじゃないでしょうか。あるいは彼にとってもまた、年下の奥さんであるシルヴィアとの離婚が原因だったのかもしれない(彼だって人間ですからね、心の痛みは相当だったと思います)。こともあろうに、別れた奥さんはジャック・ラカンと結婚したのだから。 いずれにせよ、あの『眼球譚』に描かれる目は、まったく何ものをも見ていない。開いているだけで、その目蓋を閉じた彼は、あの作品で以前とは別人になったようです。 さて、クロソウスキーの描く女性の股間もまた、開いたままで閉じている。 初めて彼の絵を見たとき、僕は、あのバタイユの目じゃないかと、そのものじゃないかと思いました。絵を見る者にとっては開き、また別な者にとっては閉じる瞳のようなものです。僕たちはきっと、一度、目蓋を閉じなければならないのかもしれない。 そしてもう一度開いたとき、世界はきっと変わっているのだろうと思う。 ご亭主とのお話、僕はそんなふうに感じました。
補足
ご返事ありがとうございます。 後にもうひとつ、回答を頂いていますね、ありがとう。まずは、こちらから。 レオナルドの《レダと白鳥》を見たときにも感じたのですが、卵からは必ず双子が生まれるのだとしたら――いや、双子であって欲しいという彼の思いもまた、彼の生い立ちに理由があったのではないだろうかと、改めて思いました。 >どうやら生来の「物事の両義性を見極めたがる癖」や「ニヒリズムに近い虚無感」の由来は、もしかすると、あの頃抱いた「自分にはどうすることも出来ない事がある」という絶望感からくるのかなあ、と、 同じような思いを、僕も抱きます。夜も眠れない――というわけではないのですが、何かの折に気になる――という存在として、僕にはどうも「リカちゃんのヘソ」があるのですが、それがきっと僕にとっての拘束具なのだろうとは思っていまして、あるいはそれが靴なのかと思いました。まあ、考えてみれば可笑しなものでしょう。 だって、「ヘソ」ですよ? でも、僕にとっては、これがバタイユです。
ri_rong様、こんばんは! まず、「リカちゃん」の件につきまして、思うところがありまして。 >事実はこれだけですが、設計に携わった方に当時の話を訊く内に、僕にはひとつの疑問が生まれた。というのも、人形は着衣の状態で売られる。その人形に、なぜヘソが必要だったのかという点です。決して見せない部分に対して、なぜ拘るのか――この販売会社の言い分のほうが、時代的な合理性はあるのだろうと思います。 これは単に「着せ替え人形」として裸にせざるを得ない状況を織り込み済み、かつ、その身体的なリアリティを当初は追求した結果ではないかなあ、と元祖リカちゃん世代なわたくしは思うのです。 でもですねわたくしの場合は、着せ替えどころか、買ってくるとスッポンポンにしまくっておりました。 で、母がかなり心配したらしいです(苦笑)。 何ゆえに裸の状態にしたかったのかはまるで覚えておりませんし、今ならば当然の如く「裸だとリカちゃんが風邪をひいたり恥ずかしがるでしょう?」と我が子に着衣を促しますけども。 ただただ、無着衣から着衣へと嗜好が変質したのか、いわゆる道徳規範により時を経てマインド・コントロールをされてしまったのかはわかりませんが。 で、話はそれますが、元祖と言われるキューピーのサイトを調べてみました。 ちゃんと彼らにはおへそがあるようです。 ちなみに左端に「キューピーハニー」なる項目があって、「ん?もしや永井豪とのコラボかも?」と過大な期待を一瞬したものの、残念ながら全く違いました。 http://www.kewpie-jp.com/shop/menu.html 一体全体、リカちゃんのおへその消滅をどのように再考察しうるのでしょうか。 こども心としては、あくまで主観ではありますが、リカちゃんのおへそについてこだわりは全くありませんでした。むしろ髪の毛の色とか、おめめパチクリのあたりが一番重視だったと思います。 ですから、ひとえに「大人の都合」によって、あえなくリカちゃんのおへそは消失せざるを得なかったものと思われます。 強いて「おへそは不要」と主張するならば。 例えば歯列矯正をもってして「ひとの歯並びは綺麗であるべきだ」に呼応する「人形のおへそは不要でツンツルテンであるべきだ」という社会的ニーズや理想理念にもとづくものではないでしょうか。 もしくは、やはり「おへそ」にはひとの中心部に位置し、リアルに生まれた証、母子同一と母子分離の名残ゆえに、その存在意義は呪術的要素を孕むものなのかもしれません。 さてと、どうやってレダとリカちゃんを結びつけましょうか(笑) そうそう、くだんの絵画におけるレダは、靴を脱いでいます。 リカちゃんにも豆粒サイズのカラフルな着せ替え靴(当時はプラスチックで硬かった記憶アリ)が数足セットで売られていました。 日本では靴を脱ぐ土足厳禁な文化風習がさも当然ですが、ヨーロッパなどでは地続きの国境ならびに度重なる戦乱を経て、「靴を脱ぐことはベッドに入るとき」とだいたい相場が決まっています。 つまり、いつなんどき敵が攻めてきてもすぐに逃げられるよう自衛の意識が少なからずあったものと推察されるのです。 いわゆるヌード写真でも、女性は悩ましいポーズながらハイヒールだけは着けていることが多々あるわけでして(靴そのものもしくは身に着けた女性の脚を好むスジ用なのかもしれませんが)、その意味においてもレダが靴を脱いでいる様子は意味ありげなエロティシズムを感じさせると思われます。 >それに、この鳥は女性の陰を演じている。やはり、彼は黒くなろうと考えているのでしょうか。 >おまえは邪まなのか? と訊いてみたくもなります。 はい、これはですね。 実はダ・ヴィンチには特有の画法があったことと相関関係があるようです。 以前にも申し上げましたが、ダ・ヴィンチは遠近法、明暗法、解剖学、その他様々な科学的研究に研鑽を積んだひとですから、極めて科学的に絵画製作に取り組んだことが想像されます。 彼の絵画には「輪郭線」がありません。 そもそも、この世には輪郭線などは不要であり、線ではなく「影」を用いた「スフマート」技法により表現しているのです。 光と影の見極め、そして人体解剖による緻密なまでのデッサンなど、彼にとって絵画とは極限の許された科学であったのです。 だとすれば、ナンセンスな卵の殻はいたしかたないとしても、子供達のおへそは「ひと」である以上は必要不可欠であったのかもしれません。 であるならば、むしろ、「白鳥が黒くなろうとしている」「おまえは邪なのか?」という感覚は、現代に生きるri_rong様へそのまま問い直される性質のものなのかもしれませんよね。 御返事の続きは次回にさせていただきます。 (ダ・ヴィンチの箇所の参考図書:『君はピカソを知っているか』ちくまプリマー新書)←実は上の子の私物を勝手に引用、笑
お礼
>むしろ髪の毛の色とか、おめめパチクリのあたりが一番重視 だと思います。僕もそうでした。ヘソなんて、考えたことも無かった。だから「大人の都合」というのは、僕が大人になったからだろうと思うのですが、だとすれば、ヘソは消えたのだろうかとも思います。 >そうそう、くだんの絵画におけるレダは、靴を脱いでいます それは、貞操帯のようなものでしょうか。 >彼の絵画には「輪郭線」がありません なるほど。さすが、専門家だ。聞いたことはあったし、知ってはいたのに、それか!と思った次第です。絵を見て、お話を聞くとよくわかる。 >子供達のおへそは「ひと」である以上は必要不可欠であったのかもしれません。 それは、母として思うのですか? 両親を亡くして二十年以上が経ちますが、ヘソは、あるいは自分の人生の半分以上を占めようとしている親のない僕が、原因なのかもしれない。僕にはヘソの必要性が、本当にわからなくなっているんですよ。 僕は邪まなのだろうか。 宿題となっているバタイユの日本人への適用について考えているのですが、どうも、無理なんじゃないかと少々弱気です。 もうヘソを見せても良い社会になったとしたら、僕たちにとって、いったい何が貞操帯になり得るでしょうか。
補足
マシュマロさん、ご回答をありがとうございます。 >これは単に「着せ替え人形」として裸にせざるを得ない状況を織り込み済み、かつ、その身体的なリアリティを当初は追求した結果ではないかなあ、と元祖リカちゃん世代なわたくしは思うのです。 なるほど。 質問に答えていただき、ありがとうございます。 僕はあの人形が発売された年に生まれました。そしてその人形は、僕が生まれる前から家にいました。「この子は女の子に違いない」と、恐らくは早とちりした両親のせいでしょうけれど、そういう意味では僕よりも(両親に)愛された人形だったと思います。たぶん僕は、人形を捨てたいのだと思うんです。それが、うまく質問できない。 着せ替えの夢は、訊いた事があります。ただ、「ヘソがそれに関係するのかい?」と反対に聞かれました。言われてみれば、そうかと僕は納得したんですが、どうでしょうか。 サイトを調べてくださってありがとう。 どうしてあんな質問をしたのかというと、僕の人生のなかで、ある頃までは、それこそ無警戒にヘソは付いているものだという思い込みがあった。どんな些細な物でも、当たり前のようにヘソは付いている――そういう自分、そういう社会だったような気がするんです。ところが、気付いてみると、どうも様子が違っているような気がした。 そんな気がしたんです。
ri_rong様、こんにちは! わたくしの方こそ、ごていねいなお礼と補足を頂戴出来て、本当に嬉しく思います。 思いつくまま綴っていきますので、そこはri_rong様にリードをお任せしたいと切に願っております。 よろしくお願い申し上げます。 >バタイユの質問を早くに閉じられたからです。 はい、おっしゃる通り、早く閉じるように自身にそう仕向けました。 わたくし自身が質問者という立場で「哲学カテにてバタイユを論じる」ことへの難しさを察したことも理由の一つです。 いずれにしましても、バタイユに関する自らの理解度が低いことに不満がありましたので、これにつきri_rong様が「白馬の騎士」となって一筋の光明を指し示して下さるに違いないと、バンザイ状態、大喜びでウカレまくって一人踊りしている状態です♪ 但し、哲学カテで脳内バッテリーが干上がった状態につき、本当にお手柔らかにお願い申し上げます。 あれ、「白い馬」って。 何故「白」なのでしょうね。 「中立」という意味合いよりも、「聖なる」「汚れのない」「清らかな」という「白」という色彩がもたらす「侵犯への神聖さ」を「あえて意図的に」イメージづけたかったから、なのでしょうか。 「白い百合」は主にキリスト教において、いつしか聖母マリアの純潔の象徴として、受胎告知などの絵画に描かれてきたモチーフです。 また、先のwikiにおける現存していない、チェザーレ・ダ・セストによるダ・ヴィンチ模写絵画上の「二本脚立ちの白鳥」は、ri_rong様のまさしくご指摘通り、グレイッシュに陰を帯びて意味深な雰囲気を醸し出しております。 他の絵画と異なる点につき、非常に興味深いところです。 そして…地面に横たわる赤ん坊たちの傍らには「たまごのカラ」まで「ごていねいに」描かれているのには、さすがダ・ヴィンチ、気が効くなあ、と微笑んでしまいますよね。 いや、ゲイ嗜好のKYなだけでしょうか? http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Leda_and_the_Swan_1505-1510.jpg では、何故クロソウスキーは白鳥を「陽の光の下」で堂々とまるで「白雪」を想起させる美しさでもって描いたのでしょうか。 しかも「滑稽なまでの笑いを携えて」です。 これが今までの古典的なモチーフとは異なり、クロソウスキーが意図したところであって、≪事物の本性≫そのものズバリ、バタイユの説く「笑い」と「エロティシズム」の関係性を指す絵画であるかのようです。 >僕にとっては陽光を浴びた乳房や尻の下に隅どられる陰に、いちばん性を感じるからです。 >そしてその顔は、男である僕にとって、最も遠いところにある存在です。 はい、おっしゃる通り、人間の性的欲求とは本質的に禁忌と侵犯からなる所業であり、時代を通していかに形態が変化すれども、本質的なところにおいては大差がないとするならば。 「隅どられる陰」は禁忌の領域であり、レダに限らず女性の顔、ことに「女性の視線」は、男性にとって侵犯するには最も要らざるべき遠い存在なのでしょう。 そして、ある意味では、わたくしたち絵画の鑑賞者たちは、「レダと白鳥と下に横たわる人間とのやりとり」をまるで「盗み見」している錯覚に陥ってしまうのかもしれません。 バタイユの『エロティシズム』(ちくま学芸文庫)のテクストを適当に借りて申し上げるならば、「エロティシズム」とは、存在が意識的に自分を揺るがす[問いに対する]不安定さのことなのであり、それ自体の生起がもともと宗教的領域の外にはないわけであって、まさにキリスト教こそはエロティシズムに対立し、大半の宗教を断罪してきたゆえに、ある意味でもっとも宗教的ではない宗教である、ということでしょうか。 また、wikiによる「この絵画はフランス王ルイ15世の摂政で、絵画収集家としても知られるオルレアン公フィリップ2世が所有していたときに大きな損傷を受けた。彼の息子のルイも熱烈なまでの芸術愛好家だったが、自身の行動に対する周期的な道徳心の高下に悩まされており、あるときこの作品に描かれたレダをナイフで切り裂いたのである。修復はされたものの、完全にもとの状態に戻すことは不可能だった。」という「内なる道徳心との葛藤」と「暴力によるレダへの侵犯」のエピソードも非常に興味深いところのように察せられます。 冗長になってお見苦しい限りですが、いかがお考えでしょうか。 逆にわたくしからは、バタイユの主張はわれわれ日本人にも真に援用し得る性質のものなのか、ri_rong様にうかがいたいところです。 >かの質問で「わたし」について存在論的破局 >「全ての≪交流≫は自己滅却と犯罪に加担するものである」について、哲学的対話とは如何なるものであるか――これについての所見をもしも述べたとすると、その批判は人格に及ぶ場所から抜け出して、 >まったく、そのものずばりをお書きになる方です。 はい、これにつきましてもこちらでご指南をお願い申し上げます。 以前別の質問を立てたさいに、「わたくし」は「mashumaro2という固有のID」に対して何度か糾弾を受けた経験があります。 当時「わたくし」はシャット・ダウン後も非常に後味が悪かったのですが、今現在においては、「わたくし」と「mashumaro2」とは全く別物ではないにせよ、異質でニアリー・イコールに過ぎない、と達観しております。 ちょっと関係ない話だったでしょうか?相変わらずトンチンカンでKYですみませぬ。 ただし、「んま~。なあんでみっともなく恥ずかしいフーコの和訳をワザワザ晒してくれちゃうわけ?まったくもう!!」と、年甲斐もなく暴れることもありますけどね♪
お礼
>はい、おっしゃる通り、早く閉じるように自身にそう仕向けました。 とお書きのように、エロティシズムの根底には、箱を閉じてしまうような――そういう必要性がまずあるのではないか? と思っていたからで、閉じるように仕向けるという意思の告白、閉じたという行為が、まず根底になければならない――そんな気がしたんです。その「閉じた」ということが、 >「わたくし」と「mashumaro2」とは全く別物ではないにせよ、異質でニアリー・イコールに過ぎない、と達観しております。 と仰るように、実は人に境界を失わせることなのではないか――バタイユはそう言っているのではないか、と僕には思えます。 嗚呼、少なくとも懺悔室で告白はできました。今、胸をなで下ろしています。
補足
こんばんは、マシュマロさん。ご回答をありがとうございます。 まず、興味深い絵を教えてくださってありがとうございます。 なるほど、グレーですね。卵の殻もある。でも、この赤ちゃんにはヘソがあります。 それが悩ましいと思いました。殻があるのにヘソがあるということは、ヘソはそれほど神聖ではないのでしょうか。確かに色々な意味で考えさせられる絵です。それに、この鳥は女性の陰を演じている。やはり、彼は黒くなろうと考えているのでしょうか。 おまえは邪まなのか? と訊いてみたくもなります。ところで、 >なあんでみっともなく恥ずかしいフーコの和訳を と仰る点について、少し弁明をお許しください。 実はあの訳と同じ意の文章を『自己への配慮』で偶然にも見つけた時、僕は思わずのけぞったんですよ。よもや、文意をここから拾い出しているわけはなかろう――と思ってです(すいません)。同じ文字の羅列が、別な意味を当て嵌めて別々のテクストに織り込まれている。その事実を見つけたとき、僕は「神よ」と思いました。となれば、 意を決して、それを訴えねばなりません。僕はいったい、どうなるだろう――という不安に慄きながらです。 >何故クロソウスキーは白鳥を「陽の光の下」で堂々と あるいは「滑稽なまでの笑いを携えて」読む――ということが、もしもかの絵に意図された事だとしたら、もしもそれが事物の本性なのだとしたら、クロソウスキーはずいぶん痛いところを突くものだと思います。 けれど滑稽ではなく、もっと別な種類の笑いに変わる――というのが、ベルグソンとバタイユの違いだったと思います。あなたのお気持ちを察すれば、白さを超えて、むしろ白々しさに代わったものが滓のように身体のうちに貯まり、忍び笑いをしながらスパーンと大きな音を立てて僕は張り倒される――というような感じでしょうか。 告白すれば、僕は望んだんです。火照った頬に感じる「何か」を。それは、
ri_rong様、こんばんは。 こちらの絵画でしょうか。@Musee des Beaux-Arts, Lausanne, Switzerland http://www.frigatezine.com/review/art/rar02jun.html この絵画のsimulacre=模像、凝態は、いわゆるギリシア神話における「レダと白鳥」がモチーフかと思われます。 以下のwikiによると【「レダと白鳥」という題材は、男女間の性愛よりも女性と白鳥の性愛を描いた絵画のほうがまだしも好ましいとする、現在の考えからすると奇妙にも思える16世紀の風潮によって広まった。この題材で最初期に描かれた絵画の性愛描写は、当時の優れた画家たちが男女間の性愛を描いたどの絵画よりも露骨な性愛描写を伴うことがあった。】と記されています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%80%E3%81%A8%E7%99%BD%E9%B3%A5 これに関し、クロソウスキーの理解者であるバタイユの著書『エロスの涙』(ちくま学芸文庫)を参照してみました。 何かヒントが得られるかもしれませんので、勝手ながら少々以下に記しておきます。 p114[1 キリスト教的断罪から病的興奮へ(あるいはキリスト教から悪魔主義へ)p114-116] 「エロティシズムの歴史の中で、キリスト教が持った役割は、エロティシズムを断罪するということであった。 キリスト教は、世界を支配するにつれて、世界をエロティシズムから解放しようと試みた。 けれども、終局的な結果を取り出そうとすると、われわれは明らかに困惑する。… …ついには、エロティシズムの欺瞞は、その本質と見えるようになった。 ディオニュソス的エロティシズムは、ひとつの肯定━あらゆるエロティシズムと同様に、部分的にはサド的な━だったのだが、この相対的な欺瞞の中では、肯定は便法を用いながら進んだのである。」 p139[2 絵画におけるエロティシズムの再出現] 「この遠い昔のエロティシズムの世界は、しばしば荒々しいものであるが、その世界の登場の最初から、われわれは、エロティシズムとサディスムとの恐るべき合致に直面する。」 女性とその下に横たわる男性と白鳥。 絵画右コメントに記されている「多数のタブー」の中には、恐らく≪エロティシズムとサディスムの本性≫を表現しているのかもしれません。 また、『バタイユの世界』(青土社)も手に入れて、クロソウスキーの「ジョルジュ・バタイユの交感におけるシミュラクルについて」も一読してみましたが、とにかくチンプンカンプンでした。 「すなわち彼において思考の存在論的破局は、彼が至高の諸瞬間と呼ぶところのもの、すなわち、陶酔、笑い、エロス的および供犠的流露といった体験、埋め合わせなき消費、常軌を逸脱する蕩尽、意味と有益性と目的とを描いた消耗などによって特徴づけられる体験において到達される頂点の裏面にすぎない。p85」 「≪交流≫に於いて、愛に於いて、欲望のめざすものは虚無である。なべての≪供犠≫に於いても同様である。p516」 「全ての≪交流≫は自己滅却と犯罪に加担するものである…。かくして悪は生の源泉として現れる!p517(基本命題要旨 クロソウスキー)」 以上、何ら解説になっておらず、逆にズレまくった回答で恐縮ですが、その点はすでに十分ご承知と思われますので、なにとぞご容赦下さいませ(ぺこり)。
お礼
久しぶりですね、マシュマロさん。ご回答をありがとうございます。 実は、あなたの回答を心待ちにしておりました。 理由はいくつもありますが、ここへ書いても良さそうなものとしては、バタイユの質問を早くに閉じられたからです。さて、 絵はもちろん、リンク先のものです。 そして「レダと白鳥」からお話になるのは、さすがですね。くだんの絵にも白鳥が描かれます。エロティシズムについて――文字ではなく、このある種の傾向について、僕はかねてよりご意見を伺ってみたいと思っていました。 ――すなわち彼において思考の存在論的破局 嗚呼、そうなんです。この言葉どおりです。僕は、かの質問で「わたし」について存在論的破局を書いてみたつもりですが、「全ての≪交流≫は自己滅却と犯罪に加担するものである」について、哲学的対話とは如何なるものであるか――これについての所見をもしも述べたとすると、その批判は人格に及ぶ場所から抜け出して、音楽でも良かったのですが、美術の場所を選んで質問を掲げました。 まったく、そのものずばりをお書きになる方です。
補足
ところで、いくつか教えていただきたいことがあります。まず、絵の中で男性はなぜ、下から女性を見上げるか、ということと、白鳥はなぜ白いのかということです。 僕の考えとしては、前者は概ね僕の個人的な嗜好として理解できます。とりわけ女性について考えるとき、僕にとっては陽光を浴びた乳房や尻の下に隅どられる陰に、いちばん性を感じるからです。 そしてその顔は、男である僕にとって、最も遠いところにある存在です。 いわば、僕は陰です。暗さと黒さを持つ、あの迷宮に幽閉されたダイダロスのかき集めた黒い羽根のようなものです。あの鳥が黒かったなら、なるほどなと思うのですが、かの絵に描かれる鳥は、とても白い。どうしてでしょうか。
お礼
>ピーターハリーのように 第一印象として国会議事堂の壁に飾ったら、さぞかし見栄えのする絵だなと思いました。思うこともあり、やはりつぎの質問を考えてみることに致しましょう。また、よろしくお願いします。ありがとう。
補足
ご回答ありがとうございます。 >レダに比べて白鳥が小さいという点はいかがでしょうか。 これも特徴的だと思いました。さらに、構図ですね。太陽について、あるいは光の向きについて注目すると、絵の構図が古典とは「さかしま」になっていますよね。レオナルドの絵は画面手前に光があって、まずレダが、そして右背後の白鳥はその影に見えます。 ところがクロソウスキーの絵は、画面奥に光があって、まず女の背中が、そして左手前に小さな白鳥と男がいます。男の右手の位置や白鳥の重なりから、どちらが手前かわかるようになっていますよね。 クロソウスキーの絵では、白鳥はゼウスではなく、すでに本来の生き物の姿に戻っているかのようです。仰るようにこの白鳥は、交合できないでしょう。からかいとか、ちょっかいを出すくらいしかできない。クロソウスキーの考える姦淫とは、あるいはそういうものなのかもしれません。 フーコの言うように、セクシャルとかラブとかというものが、近代の発明品なのだとしたら、その発明品の部分だけをこの小さな白鳥は表現しているのでしょう。 >「姦淫という行為ですらも善悪の同一性からは免れない」というのは クロソウスキーの女の場合、影としてあるべきところに横たわっているのは白鳥ではなく男です。男はきっと女の影で、望みは、白鳥のくちばしか? という感じです。 やはり姦淫は悪です。悪であることがとても重要なのです。この悪を取り除くのことが、まさしく自然の摂理に反する――現代人にこのように思われるのも、これはこれでひとつの貴重な事実であり、発明の恩恵であるだろうと思います。悪は「除かれない」からこそ、程よく世の中を説明するモデルとして利用できると思うんですね。もしも悪を無くしてしまったら、もうそのモデルは使い道がなくなります。 >フィチーノさんは「フィレンツェにかつて恋人がいたにもかかわらず」 これは何かの暗喩でしょうか。彼は生涯、独身でした。 僕の嫁さんは、空飛んでます(パイロット)。嫁さん――誰でもそうだと思いますが、男にとって、嫁さんは常に嫁さんです。結婚してもうすぐ二十年ですけど、僕は彼女が真っ白な服を着て僕のところに来た日のことをまるで昨日のように、よく覚えています。 そういうもんだと、思いますよ。 >独り善がりな思いこみ解釈 それがいいのです。