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四面楚歌
項羽は四面楚歌を聞いて、自軍の衰勢を感じたという故事があります。 1. 楚歌には楽器があったでしょうか? 2. 楚歌の歌詞とは大体どんな内容のものだったのでしょうか? 3. 項羽には味方だった楚国の歌ということだそうですが、当時の中原地域(というのでしょうか)の人にとっては周辺の人たちの歌だったでしょうか? 日本で言えば民謡みたいなものなのでしょうか?
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講談社『中国の歴史03 ファーストエンペラーの遺産』の私の読書メモです。 「史記には楚歌が何かを記載なし。後漢の応劭は、楚歌とは鶏鳴歌だという。鶏の鳴き声の意味ではなく夜明けを唄った歌」 これを頼りに検索して調べたのですが、よく分かりません。 確かに『後漢書』には、応劭曰く「楚歌は,今の鶏鳴歌也」とあります。 後漢書が書かれた頃(垓下の戦いから約六百年経過しています)には、「楚歌は今で言う鶏鳴歌だ」と言えば理解し得たということになりますね。 では、鶏鳴歌とはどのような曲なのか、調べてもさっぱり分かりません。 検索すればある程度の数はヒットするのですが、読んでも理解できません。 『源氏物語』には、催馬楽の曲として「鶏鳴」が出てくるそうですから、日本の雅楽に連なっているのでしょうか。 天理大学HP 「雅楽の楽しみ方-特に謡物の催馬楽について」 http://www.tenri-u.ac.jp/lifelng/dv457k0000007c2o.html 「鶏鳴歌」がいったい何なのか、が分からなくては回答になりませんね。 楽器については、『三国志』に「鼓吹」という言葉が出てきますから、太鼓と笙(笛)のような物があったのかも知れません。
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- publicpen
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お礼
ありがとうございました。 勉強になりました。
補足
垓下の戦いの悲劇と美しさは伝説的に私もこれを読んでまいりました。 改めてここに勉強できました。 ありがとう御座いました。 この時代の歌とか楽器など、どんな詩文章だったのか、知りたいと存じた次第です。 ありがとう御座いました。
お礼
ありがとう御座いました。 広い大陸ですし、どこかに当時の名残も残存しているかもしれませんね。 もしそういうものに出会えればとてもうれしいと存じます。 先般、義理の親族の慶弔のために、始めて渡航し、そこで所謂る巫祝を職とする方のお仕事に間近で同席しました。 夫君が覡かどうか知りませんが、マネジメントや進行、取次ぎをしておりました。 何か卑弥呼と男性介助者を連想しました。職としての社会的立場は高くはないようで、私の礼譲の対応に戸惑っていました。 死と葬送に関与する、(お母様らしいという)巫祝の職業集団のことは、白川静さんの孔子の出自でも出てきました。 現代も古代の民俗習俗の名残りではないかと思われるものがあちこちの国の中でも見ることができます。 今般、間近かで中国の風習とそのご職業を見たときは、まだまだいろんなものが残っているのだろうな、と存じました。 ありがとう御座いました。
補足
いやありがとう御座います。 孟嘗君の食客のなす鶏鳴狗盗にもありますが、これは鶏の鳴きまねですからね。 垓下の戦いから約六百年後あたりまでは、理解されたのですか。 「鼓吹」から太鼓と笙のご判断はとても参考になります。 雅楽をお出し頂き、映像が創造されてきます。 雅楽は遠くチベットの名残も伝わっているようですし、鶏鳴は多分連なっているのでしょうね。 古代のチベットでの修行の用具フームを聞く小さな弓をいじったことがあります。 口にくわえて弦鳴を聞くのです。 オーム、アーメン、オン、阿吽などに通じるとされています。 弦楽器もあったかもしれませんね。