子曰 君子不器
彼は大器だと誉めそやしたり、評価しているとき、孔子はこう(上記)いったそうです。
君子は器ではない。起用さや小賢しさではない。
ということなのでしょう。
大器にもならず君子でもない凡夫凡人は一生、子曰、君子不器とか、大器晩成とかいって中らずですが、遠からずかも知れないし、遠いかも知れない。
政策や実際のことにもあまり能も才もなく、剣術も不得意の我がせごどん(南洲・西郷隆盛)は大器晩成の見本みたいにいわれております。
そしていい伴友が廻りにいない状況では、後世の凡人たちが納得できない言動をしています。
正に器ではなく君子という賢人でもないようです。
しかし、勝の手紙を携えて、幕臣山岡鉄太郎である、大参謀西郷殿にまかり通ると、大音声の鉄兄ぃに、しっかり返答し、「金も地位も、力も名誉も、命もいらん奴は始末に終えぬ」と嬉しそうに述懐したとのことである。
薩摩の自邸で江戸からの刺客に、「それは遠いところをごくろうさまであります。今は家人、誰もおりません。おいどんの命どうぞ。」
郷人が決起、「おいどんの命が差し上げましょう」
僧・月照との入水。
閲兵している最中、芸者に泣かれ、「おいどんも、いきとうはなか。」
などなど、常人には理解を超えた言動です。
大小はともかく、君子でも器でもないようであり、無論、いろいろ判断や方針を立てる才覚なども処理能力もあるとは思えない。
大器というのをこういう人であるとすれば、最初からそうなのでしょう。
それが判られなかった。或いは機会がなかった。ということなのでしょう。それが大器晩成でしょう。
最初はなにか、大空よりも、茫洋として目立たないが、小才も聞かないが機会に出会ってきた、とか、目立ってきたときが晩成でしょう。
一生成ることのない、大器は日本には少なく為りました。
これは性格、人となりだと存じます。
役立たずですからね、効率主義では機会はないですね。
効率主義時代は、器の器用人かせいぜい君子ですね。
動物たちは早めに成長します。
人間や大きい動物は成長が遅い。こういう成長のことではないと存じますよ。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに大器というのは訓練や経験だけで出来上がるものとも思えませんね。 元々持っている度量が開花する時期が遅めに来るのでしょうか。 人はおおむね晩成にできているのかもしれませんね。