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実は現在の人類も一種類ではないのですよ。
先日、池田清彦著「昆虫のパンセ」を読んでいたところ、 ”私がまだ大学院の学生だった頃、さる有名な動物分類学者が集中講義にみて、人類の起源について語っていた時に、ふとしたはずみに、「実は現在の人類も一種類ではないのですよ」ともらされた。学生どものあっけにとられた顔に驚かれてか、すぐに、「これはここだけの話です.内緒です」とおっしゃって話を 元に戻された。” という一文があったのですが、文中の「実は現在の人類も一種類ではないのですよ」とはどういう意味(わざわざ内緒にするというほどの理由)なのでしょうか?
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No.5 の回答者が述べているのは、わたしが、No.2 の回答で述べたことです。オットー・ヴァイデンライヒとわたしは記憶していましたが、Google で調べてみると、Weidenreich, Franz のようで、フランツ・ヴァイデンライヒが正しいようです。どこかで記憶間違いしていたようです。 日本では、少なくとも、検索エンジンでは、「ワイデンライヒ」と書いているようですが、これは日本語の奇形的な読み方です。ドイツ語で読めば、ヴァイデンライヒです。また英語で読んでも、ワイデンライヒにはなりません。 なお、 > この考えによると、人類の祖先は地域により別々の進化をとげ、偶然にも世界中に高度な進化を遂げた人類が存在することになります。また進化の系統が別であることから一種類ではないとの考えが当然成り立ちます。 これでは、何故、「枝付き燭台説」とも異名をとる、アクロバット的な進化論をヴァイデンライヒの後継者(ウォルポフ等)が工夫したのか、理解されていません。現世人類の種は、基本的に一つなのです。人種間で、生殖が可能で、正常な混血の子孫が生まれることからも、それは確かなのです。 また、ホモ・エレクトゥスは、かなりに高次に進化したプレ人類種で、種は違いますが、属は、「ホモ」なのです。アフリカの原人と、北京の原人、ジャワの原人、そしてハイデルベルクの原人と、ヴァイデンライヒが研究を発表した時点で、ほとんど同じ生物だということが分かっており、だからこそ、相互交配で血が混じり合い、結果的に、現在の現世人類種が生まれることになるのです。 多地域並行進化説は、独立の祖先から進化したと主張しつつ、現世人類でまとまって行くのか、このディレンマの解決として、相互に作用し合いつつ、進化して行ったという説になり、この奇妙な進化の姿が、「枝付き燭台」の形に似ているので、そう呼ばれるのです。 この説は、無理があり、1970年、80年代当時でも、決して、標準の人類進化説としては考えられていなかったということがあります。1960年頃から1980年までは、「猿人→原人→旧人→新人→現世人類」という、単一進化が考えられていました。 しかし、サピエンス型人類の化石が、クロマニヨン人の時代より古い地層から見つかるとか、同じ時代に、ホモ・サピエンスとクロマニヨン人がいた形跡があるとか、過去十万年から十五万年ほどのあいだで、クロマニヨン人とホモ・サピエンスが並行して存在していたなどが明らかになると、破綻します。 多地域並行進化説も破綻します。ホモ・サピエンスとクロマニヨン人が、並行して存在していたという化石証拠は、かなり古くからあったはずで、1970年には、そのことは認められていたはずです。 1975年頃に、高名な分類学者が、ふと言葉をすべらせたのは、異端説としての多地域並行進化説への期待であり、多分、分類学者は年齢的には、ヴァイデンライヒの説を最初に知っていたはずで、結局、大きな期待がもたれつつ、その先がなかったヴァイデンライヒの説を再度復活させる試みを知って、ひそかな期待に興奮していたのかも知れません。 1975年頃に、高名な学者で、かつ大学院で集中講義を行う人だとすると、1920年頃に生まれた人ということになり、この人が少壮学徒だった1950年代は、ヴァイデンライヒの説の行方はどうなるのか、という期待感がまだあった時代です。 その後、単一進化説が登場し、ヴァイデンライヒの構想は否定されるのですが、1970年代に入って、ウォルポフ等が、もっと複雑な形でヴァイデンライヒの構想を復活させる試みを行ったので、ヴァイデンライヒの構想が、再び、期待感を持って、心にあったのだと考えてみることができるでしょう。 なお、No.4 回答の参考URLにある、DNAによる人類進化図は、ある部分ナンセンスなところがあり、また、こういう図や知識は、ここ数年か、十年程度の話で、いまから二十年以上前には、こんなものはなかったのだということを忘れています。 1975年だと、日本の高校の教科書に、まだ単一進化説の「猿人→原人→旧人→新人」という進化系統が、堂々と載っていたはずです。知識や認識は時代と共に変化して来たということを、まったく考えていない、アナクロニズムとも言えるでしょう。 (追記:「ネアンデルタール人と現代人」という新書本は、わたしも読んでいます。しかし、フランツ・ヴァイデンライヒは気づかなかったのです。固定観念は怖いです)。
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- poor_Quark
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>(わざわざ内緒にするというほどの理由)なのでしょうか? 「人種」という言葉の自然科学的定義とは別の問題として、この言葉の社会科学的使われ方はたいへんにデリケートなものを含んでいます。特に人種偏見や政治的差別からフリーでありたいと願う人々の運動の視点から見たとき、「人類が一種類ではない」と公言することは抵抗があるだろうことは容易に想像がつき、この点においてそう主張するのがはばかられるような心理がどこかにあってのことかと思います。 人類学は純粋な自然科学の分野でありながら、いままでもそういった「政治的」干渉を受けてきた経緯があったようです。極端な例が「ピルトダウン人」という捏造化石事件で、人類(特にヨーロッパ人)の先祖があれ(ネアンデルタール人など)ほど醜い生き物であったはずがないとの思いが、その存在を許したのではないかという考えが前述「ネアンデルタール人と…」にも紹介してあります。 ですから研究者の中にはこの問題にさわるときには慎重にならざるを得ない雰囲気があったのかもしれません。推測ですが。 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□ さて現存人類の分類学的位置は "動物界・脊椎動物門(有羊膜亜門)・哺乳綱・(真獣亜綱)・霊長目(真猿亜目)類人猿科(ヒト亜科)・Homo(ヒト属)Sapiens" だそうです。(#166554より)ヒト亜科より下には一種類の生き物しか地球上には存在していません。それどころか他の生き物と比べて、個体の地域集団による遺伝子のバリエーションがたいへん乏しいそうです。 これは「科」より下の分類に関してもおおくのバリエーションを伴って存在している他の生物集団と比べてもたいへん奇異に感じます。人類は一種類しかいないのならその原因はなにかというといくつかのことが考えられます。 まずヒトという生き物のエネルギー効率の悪さがあげられるかと思います。恒温動物は変温動物に比べて常に「アイドリング状態」で、活動していないときでも大量のエネルギーが必要になります。さらに人間に特有の脳という器官は大量にエネルギーを要求します。もちろん太陽光から直接エネルギーを得ることはできませんから、エネルギーは他の動物の体から摂取するしかなかったはずです。スカベンジャー(死肉あさり)であったとしても食物連鎖の上位に位置することは、自動的に個体数が絞られることになります。 さらに食性や生活環境が似通った同系異種の生物集団は共存できず一つが他を駆逐するというようなことが繰り返されたようです。例の「ネアンデルタール人と…」の中ではニッチ(生態的地位)という言葉で表現されているようですが、文化を持つほど高度に進化した人類のような生物は、他に似通った生物の存在を環境が許容しないということなのかもしれません。つまり多種の人類の存在を許すほど地球は「大きく」はなかったと個人的には解釈しています。現存人類ですら少なくとも一度は絶滅しかかったことがあると遺伝子が教えているようですし。 私はもうひとつ別の角度から考えたことがあります。それは原始的自我を手に入れた人間は、他の同じような集団に出会ったとき、半ば自動的に排他的意識が働き、殺し合いが始まったのではないかという考えです。まぁ関係ないとは思いますが、なかなか客観性を身につけられずお互いの些細な差異ですぐに殺し合いを始めたがる現代人類も大してかわらないところを見ると、あながちはずれてはいないのかもしれないと考えたりします。 特に後半は他愛もない私見ですので強烈に自信なしとします。
お礼
回答ありがとうございます。当初の設問の解答はさておき、逆に「人は何故極端に種類が少ないか」の問いかけのほうが興味深くなってしまいました。”半ば自動的に排他意識が働く、、、”というのは、構造主義になるのかな。
- poor_Quark
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構造主義生物学の騎手として有名な池田氏は調べてみると1977年に東京都立大学院を修了されています。つまり氏が件の、「実は現在の人類も一種類ではないのですよ」というお話をお聞きになったのはおそらく1975年から1977年の間のことと思います。 以下は私見です。 従来人類学の武器であったのは、化石の形状から分類学上の位置を特定する解剖学的手法や石器やハンドクラフトから文化的な環境を類推する手法が一般的でした。それらの手法の集大成の一つとも言われる説が先の大戦のさなかに発表されています。ドイツ生まれのユダヤ人解剖学者で61歳の時に迫害を逃れて渡米したフランツ・ワイデンライヒは、中国の北京原人の研究をもとに多地域連続説の基礎となるような説を発表しました。つまり、現代中国人は北京原人の子孫であり、オーストラリア・アボリジーニは直立猿人の子孫であるというような考えです。 その後1942年生まれのミルフォード・ウォルポフにより四地域での平行進化説を中心とした他地域進化説が発表され、80年代初頭まで力を持つことになったと言います。池田氏はこの多地域進化説が隆盛を極めた時期におそらく研究者の誰かと接触なさってこのような記述を残されたのではないかと想像します。他地域進化説は、基本的に世界の四代地域で同時に人類の進化が起こり、そこから何本もの枝が分かれた進化図を想定し、「枝付き燭台説」との異名をもつそうです。 この考えによると、人類の祖先は地域により別々の進化をとげ、偶然にも世界中に高度な進化を遂げた人類が存在することになります。また進化の系統が別であることから一種類ではないとの考えが当然成り立ちます。 その後DNAの解析を柱とする分子生物学や、遺物のより精密な年代測定を可能にしたテクノロジーの発展により、現在の人類学の分野は別の局面を迎えているようです。ただ池田氏は彼一流の構造主義生物学の立場からDNAの解析に基づく手法に関しても主張をお持ちのようで、このご質問にあげられた表現の中にも何らかの意味が込められている可能性はあると思います。「昆虫のパンセ」、私もさっそく読んでみることにします。 参考/河合信和「ネアンデルタール人と現代人」文春新書
お礼
回答ありがとうございます。「昆虫のパンセ」で、先の引用文は、”人類が一種類かどうかはともかくとして、極端に種類数が少ない事だけは確かである。それに比べ、虫の種類は極端に多い。全動物の種類数の約九割は節足動物で、、、、。”と続きまして、構造主義とはあまり関係ないと思います。あまり期待して読まないで下さい(普通に読む分には面白いとは思いますが)。
- miDumo
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#3の回答をしたものです。 蛇足ながら「現在の生物学的な人種分類」として参考になるページを 掲載しておきます。 いわゆる絶滅種である「旧人類」と「新人類」の比較は 当該本の記述から考えて当てはまらないので注意してください。 私たちは新人類であって、旧人類は絶滅したので 「実は現在の人類も一種類ではないのですよ」 という記述にはあてはまりませんから。
お礼
回答ありがとうございます(#3の分も含めまして)。旧人類は絶滅ということになれば、やはり文中の「人種」の定義が問題になりますね。
- miDumo
- ベストアンサー率36% (63/171)
人類の遺伝学的分化は、現在では遺伝子情報の解析で 詳しく分類できるようになりました。 日本人はモンゴロイドで、中国人と同じ遺伝系統樹に 位置していますので似ているのも納得です。 たぶん「実は現在の人類も一種類ではないのですよ」というのは モンゴロイドとかコーカソイドなどを指していったのでしょうが この分類自体は、そんなにみんなが驚くほどのことではないような 気がしますねぇ・・・。 当該の本が、人間という種を生物学的に分類するのがまだ一般的で なかった頃の話を記述しているのであれば、それもうなずけます。 20年30年前でしたら、まだ生物学的な分類は特殊な分類でしたから 文化的分類が一般には普及していたので、当該本のような記述が 見られるのだと思います。
- maris_stella
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これについては、もっとも標準的と思える回答をします。天地創造で神が作ったとかいう話は、考慮に入れません。 人類の起源については、参考URLの質問の回答 No.2 に標準的な考えが述べられています。この回答では言及していませんが、もう一つ説があるのです。 オットー・ヴァイデンライヒという初期の古人類学の大家が提唱したのですが、現世人類、つまりホモ・サピエンス・サピエンスは、遙か何十万年前、または何百万年前に種として分化していたのではなく、ホモ・エレクトゥスの子孫が進化して、現在の人類となったという説です。 ホモ・エレクトゥスは、ジャワの原人、北京の原人、ハイデルベルクの原人、アフリカの原人と、大きく四つに分かれます。ヴァイデンライヒ及びその後継者の説は、これらの原人が進化した結果、現在の人類ができたのだという説で、ホモ・エレクトゥスは、現世人類とは種類の違う、霊長目の生物であり、子孫を残さず絶滅したという現在の考えとは違っています。 アフリカの原人の子孫が、黒色人種、北京の原人の子孫が、黄色人種、ハイデルベルクの原人の子孫が、白色人種、ジャワの原人の子孫が、アウストロネグロまたは、オーストラリア原住民という説です。 これらの原人の子孫のあいだで、交差状に血族関係があり、それが、現在の人類が「一種」だと思える根拠であるが、実は、起源的には、違った人類が存在し、それらが混血し合っていても、なお、黒色・白色・黄色・アウストロネグロなどの「人種区別」がある以上、起源となった元の原人の系統を引いているという考えです。 人類は、人種に関係せず、相互生殖によって健全な子孫が生まれるので、「同種」であり、一つしか種はないというのが通説ですが、この原人起源説だと、まだ、人類の「単一種」化は完成していないということになります。 これが、想定できる、もっとも標準的な、現在の人類は「一種でない」という考えだと思います。 (なお、もう一つの可能性として、ネアンデルタール人は、人類と混血可能であったと考えられ、その遺伝子が人類のなかに残っているということで、人類のなかのネアンデルタール人という意味か、 または、ネアンデルタール人は滅亡したとされますが、その滅亡がごく最近のことである、または、いまだ存続しているので、最近の人類との混血があり、その人類は、よりネアンデルタール人に近く、人類は一種でない、ということかも知れません)。 >No.160915 質問:人種の違い。進化の過程 回答 No.2 >http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=160915
お礼
回答ありがとうございます。参考URLも見てまいりました。まず、「人種」の定義から確認しなければならないのですね(学術用語の「人種」と普段一般人が使っている「人種」は意味が異なるということ)。原人進化説は、先日NHKで観た覚えがあります(北京原人の紛失した化石が発見されれば論争に決着が着くだろうというような内容)。大変参考になりました。
- driverII
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人間を体格・言語などから分類するといくつかに分かれるということでしょう。 公式にそのような発言をすると、差別として受け取られかねないので そういう発言になったのでしょう。
お礼
回答ありがとうございます。動物分類学者の人類の起源についての話ということから考えて、差別以上のもっと重大な秘密のように感ずるのですが、、、、。
お礼
いつも回答ありがとうございます。科学は常に進歩し、学説は日々新たになるのですね。私の学んだ科学も、もう使えない(使ってはいけない)ものになっているのでしょうか。巷では「お母さん、子供に勉強を教えないで!」という本(算数などで、子供に式の意味を理解させず、単なる計算マシーンにしてしまうのを戒めている)が売れているそうですが、これでは「お父さん、子供に科学をおしえないで!」と言う本も出てきそうですね。