浜口内閣の採った政策はくしくも小泉内閣のとった政策と一緒です。
国力に見合わない金本位制策を解禁し、財政再建によって経済危機を乗り越えようとした。
ちょうど小泉内閣が三位一体の政策で暫くは痛みに耐えてくれと言っているのと同じです。
1928年に入り、フランスが金解禁。これで主要国で金開放をしていないのは日本だけで、
かなり激しい批判があったと歴史は伝えています。
当時の金の交換率は2分(1/5匁・0.75g)を1円相当(1ドルは2円5厘)
この価格では、世界的に低調気味であった為替相場を異常に高騰させて
輸出を不振に追い込み、国内には安い輸入品が入ってデフレが発生する事は明らか。
金解禁を行う際には平価を見直す必要がありました。
実際に当時未解禁で会議後に金解禁を行った国々はほとんどが
実態に合わせた平価切下げを実施していました。
また、鉄鋼業などの重工業関係者では、デフレと外国製品の輸入価格の
下落を恐れて金解禁に反対する意見も上がっていた。
濱口や井上は金解禁によるデフレと財政緊縮によって一時的に経済が悪化しても
問題企業の整理と経営合理化による国際競争力の向上と
金本位制が持つ通貨価値と為替相場の安定機能や国際収支の均衡機能によって
景気は確実に回復するはずであると考えたのです。
ところが1929年にアメリカで大恐慌が発生。それを過小評価した浜口内閣は
1930年1月11日に当初の予定通り「金2分=1円=0.49875ドル」の旧平価による金解禁が実施。
結果的には、それが金解禁から半年で日本の国内卸売物価は7%下落、
対米為替相場は11.1%の円高、アメリカの国内卸売物価は2.3%下落となり、
その結果日本の国内市場は縮小し、輸出産業は円高によって国際競争力を失って
不振に陥り、日本経済は二重の打撃を受けることになります。
ですから、ご質問の通り金解禁が景気の足を引っ張ってしまったと言えると思います。
任期中に濱口自身が凶弾に倒れた後、あとを継いだ若槻内閣が高橋是清の
リフレーション政策により、長きに渡るデフレを終熄させることで
ようやく終わりを告げます。高橋の取った政策は金輸出の再禁止と
日銀の国債引き受けによる積極財政という濱口内閣とは正反対の政策で
犬養内閣において、成長率は昭和7年(1932年)に4.4%、同8年(1933年)に11.4%、
同9年(1934年)に8.7%と劇的な回復を見せ、日本は世界に先駆けて不況からの脱出に成功します。