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「世界に1つだけの花」について
SMAPが歌って、文部科学省認定の歌にもなった「世界に1つだけの花」を高校の卒業式や会社の同僚が気持よく歌っているのを見かけて自分としては以前は違和感を感じていました。 以前は「同じものはないから、No.1にならなくてもいい、もともと特別な Only one」という部分に関してですが、 「仕事や人生で未熟な自分をいかに高めていかなければ」と考えていた私にとってはOnly oneはその道でなくてはならない人になることでありまだ私は代わりのきく、Only no oneであると考えていたことが根底としてあります。 しかし仏教に関する書籍などや講演会に出るについれて、比較できないものを比較することが不幸の根源になることをなることを知りました。 でも日々精進して自分自身を高めていかないことは説かれています。 歌詞にも「その花を咲かせることだけに、一生懸命になればいい」と精進を進める部分があります。 私自身は言わんとすること理解したつもりですが、もし受取り方を間違えてしまうと思わしくない結果を出しそうな気がします。 あまり具体的ではありませんが、自己愛を満たして悦にいってしまうとか・・・・。 これは単なる穿ったものの見方(倒見)になのでしょうか? 忌憚のないご意見が聴けましたら幸いです。
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質問者が選んだベストアンサー
仏教での教えは、方便という言葉もあるぐらい、二者択一的な悩みに対しては180度異なる回答が導き出すこともできてしまうように思っています。したがって、立場の違う事象に対する回答を一般的な回答として拡大解釈すると、誤った見解に至る危険性を孕んでいると思っています。 ご質問の内容は、2つの異なる立場を引き合いに出しておられます。 1.比較できないものを比較する --- only one が該当する。 2.比較できるものを比較する --- number one が該当する。 質問の文中にても、無意識(?)のうちに用いられているようですが、「比較できないもの」であれば、優劣といった概念は無意味でしょう。 「何を・何と」比較しようとするのか? 「極めたいもの」が、自らの内部基準ではなく、何らかの外部基準にて比較可能になっていて、その基準に照らし出して精進したいと思うのであれば、number oneを目指すということになるでしょう。 「極めたいもの」に適切な外部基準が無くて、あるいはあったとしても、最終的に自らの内部基準に照らし出さざるを得ない場合、暗中模索の末、number oneといった概念が適応不可能だと認識したならば、only oneを目指すといったことになるでしょう。また、only oneを目指している過程で、他者の目から見た場合に、いつの間にかnumber oneになっていたと言うこともあるでしょう。 もし仮に「自己愛を満たして悦に入」ったとしても、「受け取り方を間違えて」いると気づいているならば、何らかの外部基準を意識している訳ですから、他者と交わるときに自然とnumber oneという概念を受け入れざるを得なくなるでしょう。 only oneしか無い世界とnumber oneしか無い世界を分離して(二者択一的に)考えておられるかもしれませんが、通常は両者ともに並列しているはずです。どちらか一方を選択しようとするのではなく、多面的に受け取ることができて「そういう見方もあるよね」と思えば、気持ちよく歌えるのではないでしょうか?
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- snowplus
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この曲は槇原敬之が覚せい剤で出所後に書いた反省文です つまりメッセージ性ととるとそういう感じですが つまり腰を低く書いただけの詩であって深い意味はないと 思います この時期に書いた詩はみんなそういう感じです 例えば are you okとか http://lyric.kget.jp/lyric/tk/wo/ 槙原は元々天才的な詩を書く人でこのような詩を かくような人ではありませんでしたおそらく相当パニクって 書いたんだと思います
お礼
ご回答ありがとうございます。 やはり諸行無常で本人も常に変化していくものだと感じました。 ある時期によって心が移ろい人々の共感を得ることがあったり、なかったり。 ありがとうございます。
- heygibson
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私もこの曲が大嫌いです。 というかこの曲の歌詞を本気で鵜呑みにして言葉での小競り合いに使ってくるような奴がすごく嫌いです。 所詮(売り上げのためにプロデュースされた)歌ですけど、指摘するならば ・同じものはないから、No.1にならなくてもいい これなんかは完全に「愚民化」の兆候ですよね。 まるで今の日本みたい。活力がない。志がない のくせに「その花を咲かせることだけに、一生懸命になればいい」とか言うもんだから勘違いした子供が馬鹿みたいな道に行っちゃうんです。 ほとほと、あきれるばかりですよね
お礼
ご回答ありがとうございます。 >というかこの曲の歌詞を本気で鵜呑みにして言葉での小競り合いに使ってくるような奴がすごく嫌いです。 私の考えでは人に主張するようなことではなく、個人個人が内面で噛みしめていくものだと思うのですが....。 ちょっと先が心配です。
- kigurumi
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この歌を作った人。 高校を卒業する頃、親が望むものと、自分がなりたいものとが違っており、親と確執があったそうです。 恐らく自分は歌を作ることが好きだから、歌を創造することを本職としたいと希望したのだと思えます。 親にしてみれば、その道を望む人はたくさんいるが、ほんの一握りの人しか成功せず、やっと諦めがついた頃には、別の道に行っても他の人たちと遅れをとってしまい、なかなか別の道を歩むのも難しくなると思い、難易度が高い方はやめろと助言したのではないか と。 結局自分の意志を貫き家を出たそうです。 「どんなときも どんなときも 僕が僕らしくあるために、好きなことは好きと言える気持ち 抱きしめてたい」 これは自己愛を満たして悦に入っている心情ではなく、親に対して「自分の人生は親の期待するものじゃない。ごめんね でも僕は親の言う人生じゃなく 僕の人生を歩みたいんだ。僕は自分の気持ちに正直に生きたいんだ。たとえ正直に生きた結果飲まず食わずになろうと、自分に正直に生きるということに悔いは無い」 という気持ちではないかと。 親に対するメッセージであり、自分に対するラブソング。 自分の気持ちに正直であるって難しいですよね。 社会的な責任とかもありますし、周りの人との関係もあり、自分が望まぬことをしなければならないときもある。 自分がのぞまむことをした→不満足→不幸。 やりたくないが、やることで他人が楽になるのならやりましょう→他人が満足→自分も満足→幸せ。 ただし、後者はあきらかに自分の信念と違うものをやれと言われやらされたら、たとえ行為を行われた人が満足しても、自分は不満足なので不幸。 創造をする才能があった人が、創ることができなくなったとき、代わりがきかないだけに、辛いものがあると思います。 もう産めない苦しさから覚せい剤に手を出し、覚せい剤の力を使ってまた曲を創造したのでしょうか。 同性愛であることも発覚した。 落ち込み自分を疑ったと思います。 そんな彼は、謹慎期間中に美輪明宏さんの紫の履歴書を読み感銘を受けたそうです。 彼の生き方を理解し、「自分もこれでいいんだ」となり、復活したと思います。 今までは自分の中にあったものを歌にしてきたそうですが、世界に、、、は外から来た歌だそうです。 自分の中のものを使って創造をするステージから、外部の情報を取り込み自分で消化し自分のものにして生み出す。 というわけで、これまでは自分ひとりで生み出して孤立したようになっていましたが、外部と融合して、新しい自分を創造していっているわけですね。 この場合、他人に影響され自分を変えたのではなく、いいものは取り入れて自分の肉とし、新しいエネルギーを生み出しているわけで、あくまで創造主はこの人。 食べ物を食べて自分の活力にするのが人間ですが、思想もそう。 で、彼の場合はマイナスとなる経験も受容して「これも自分の人生の一部」と消化しているのではないかと思います。 自己中? いえ、強いエゴ(自我)。 エスと自我と超自我ってあるんですね。 エスは無意識の本能。 超自我はエスのむき出しの本能を抑制する機能。 自我はエスと超自我の両方の意見を聞いて決断する 私。 エスが強すぎると、回りのことなど気にしないので、自己中心的、エゴイスト と言われる。 超自我は模範教師。 あまりに超自我が強すぎると、こうあらねばならない となり、エスの欲求が満たされず、自我(私)の満足は低められ辛い。 英語でハッピー、満足って意味。 超自我の押さえつけによって、自分の信念通りに行動できたら、自我は満足を得られるわけです。 エスの欲望に忠実になったことで、自分の望みがかなうなら、自我は満足なわけです。 普通、人間はこの両者のバランスをとって生きている。 取れない人は刑務所とかに入っている。 で、この作者の場合、自分らしく生きたいという信念があるわけです。この力をエスとしましょう。 超自我は「親のことも考え、親の意見を聞いて親を幸福にさせるべき」と言う。 自我は、自分らしく生きないと、自分の人生じゃなくなる、自分が存在しているとは言えない、他人のために存在しているでは、自分が主役なのに主役ではない人生になってしまう と考える。 で、超自我を変えるわけです。 「親を言葉で納得させることはできない、が、生き方を見てくれることで、これでよかったのだと思ってくれるのではないか。」 と、古い超自我をコントロールし、支配下に置き、新しい超自我を形成する。 親に対し、他人と競争したり、優秀だって言われるために人は生まれてきているのではない。 他人を満足させるために、生まれてきたのではない。 自分の人生に満足しなくて、生きていると言えようか。 たとえ苦難があっても、満足した人生だと<本人>が思っていれば、それは真実なのではないか。 それこそ産んでくれてありがとう と言える。 これは、自己中心的な考えじゃないと思うんですね。 エジソン、発明王です。エジソン症候群と言う名称がある。 エジソンは気になることがあると、とことんそれを追及せずにはおられない人。 誰も止められなかった。 止めたけど本人 聞きゃしない。 それで小学校の頃、協調性が無さ過ぎて邪魔だと思ったのか退学になってしまった。 彼にとっては退学は幸運。 気になることをやることに対して、誰も邪魔してこない。 とことん 気になる というエスの欲望を満たせた。 というわけで、家で次々欲望のまま実験を繰り返すことができたわけです。 1%の才能と99%の努力と言った人。 じゃあ 何事も努力すればいいのかというと、彼の場合 この気になるととことんやらずにはおれない という才能のせいで、とことん実験をやることになったまで。 誰もが失敗するとわかっていることも、やって失敗したと確認しないと満足しない人だった。 努力と言うより、、、、 というわけで、エスが強すぎたために、名を残す業績をたまたま出せたわけですね。 でも、世の中に名を残しているって人、このエスがとても強い人が多いと思える。 山下清にしてもそう。 犯罪の方向にエスが向かわなかったので、犯罪者として名を残していませんが、エジソン、ライバルを殺す機械を作ろうとしていた。 例のごとく失敗したので、殺人鬼にならずに、発明王の名前を残したわけです。 で、凡人の我々は、適度にエスと超自我をコントロールしつつも、自分らしさの道を無意識のうちに歩いている。 で、ふと意識して「自分が満足していていいのか」とか思ってしまう。 「それじゃ 自己愛にふける人じゃないか」と疑いを持つ。 模範的な生き方といわれる社会の超自我がささやくから。 <社会の一員として自分じゃなくて社会に尽くせ> という模範教師と自我が対立し、自我が負けている状況。 銀河鉄道999は、社会を構成する一部になり、社会という一つの化け物になるため、自我を捨てさせるための旅だと思えるんですね。 とびとびに動画見たので、最後どうなったのか知らないのですが、化け物に同化するために自我を捨てる寸前に「イヤだ」と主人公は叫んだと思います。 ということで、よっぽどのことが無い限り、人間は自我を故意に捨て、自分を抹殺できない。 自己中心的と自己愛は違う。 自己愛が強すぎて他人に害を与えるって人もいますが、、、バランスを欠いた人。 共同生活をしている以上、世間に迷惑を全くかけないってことはできませんが、あまり気にしすぎるのも息苦しいと思う。 あまりにも気にしすぎて、社会の欲求を満たすために生きてばかりいたら、自分というものが消えてしまう。 強い理念を持っている人は、別の思想がまわりにあってもあまり気にならない。 理念を持っているかどうかが鍵じゃないかと。 しっかりした理念を持っていさえすれば、自己中心的と言われないし、自己愛にふけっていえるとも言われないです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 作曲者が自分の進みたい道に進んだものの自分だけで作りだすことに限界を感じていたところに、外縁から新たに自分の血肉にして出来た作品 であることを改めて知りました。 >エスは無意識の本能。 >超自我はエスのむき出しの本能を抑制する機能。 >自我はエスと超自我の両方の意見を聞いて決断する 私。 すると、超自我というものが人間が集団で生活することで獲得してきた規範であると思えます。 しかし時代の変化に合わせて、時には自分自身の危機から救うためにリフレーミング(再定義)は可能であるということですね。 話をかみ砕きますが、超自我は「こうあるべき」という社会の要請。戦前であれば軍国主義、現在であれば高学歴⇒よい企業に勤めるということかと思います。 でも私は思うのですが、 >自分の人生に満足しなくて、生きていると言えようか。 私は自分自身の人生の満足するかどうかはあまりこだわることはないかと思うのですが...。 諸行無常なのでつねに移り変わる自分で人生に満足することは一瞬でないでしょうか?満足と不満足が常に湧き上がってきては消えてゆく。留まることは片時もない。 死ぬ瞬間でなけれなわからいかもしれません。 ただ、「自分の人生に満足」に固執しすぎて様々な悩みを生み出さないことを願うばかりです。 >古い超自我をコントロールし、支配下に置き、新しい超自我を形成する。 これも自分自身も自然の一部で何一つ自分の思い通りにならないという考えなので、少し違和感を感じました。 自分の体、自分の心、何一つ自分の思いどおりにならないと思いますが、ちょっと西洋的な考えかたなのでどちらが正しいとか間違っているとかとうことでなくて考え方の違いなのですが....。 生意気なことをいってすみません。
- magga
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どんなすばらしいものでも、見方を変えれば汚い物になりますし、その逆もしかりですよね。 「我々は正見をもてるように戒めましょう。」 で良いのではないでしょうか。 では幸福であれノシ
お礼
ご回答ありがとうございます。 私も正見をもって、正精進したいと思っております。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
「しかし仏教に関する書籍などや講演会に出るについれて、比較できないものを比較することが不幸の根源になることをなることを知りました。」 これはあたってはいるのですが一面的見方ですね。 本来は「幸福の根源」になりうるということで多数のなかの個人がいるわけですから、決して「不幸の根源」というわけではありませんね。個人を高めるには比較があることはいいことなんですね。立派な人を目標にして「あのひとのようになりたいと思って研鑽すること」は良い方向ですね。ところが、けなしたり嫉妬したりするから不幸の根源になるといってるのですね。仏教では嫉妬は心の毒の一つですね。 自由と差別の問題なんですね。自由は個人にとって「only one」ですが多数の中では,「number oneからtwo・・・・last」までの差別が存在するわけです。 これをどう個人で消化するかの問題ですね。分野を限定して他人が客観的にみれば割とその人の順位はわかるものです。1位の人は仏に向かって、下位の人は1位に向かって研鑽するのが一番の早道ですが、キンタロー飴ではないのですよね。個人個人はそれぞれの個性にあった花を咲かせながら同時に全体に対してより大きな花を咲かせるよう努力しましょうということなんですね。一見、矛盾するような方向ですが、例えば風船は膨らませるときは長細くなるでしょ。でもやめると丸くなる。これの繰り返しで大きな丸い風船ができますね。長細くなるときが自由と差別ということでしょうかね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 比較できないものを比較することが不幸の根源になることをなるということに囚われすぎたところがありました。 おっしゃる通り、日々精進が必要であり、それにはこうなりたいという人を目指して高めていくという面も大事であることがわかりました。 まだまだ私も考えの囚われていることを身をもって実感しました。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
哲学欄に興味を持つ方でしたら何方にもお分りのように、一般大衆は目の前の事象についてトコトン考えずに暮らしております。SMAPはもともと営利目的の大衆芸能です。したがって、普段物を深く考えず表層的なレベルの若者を対象にして、何万枚ものCDやレコードを売り上げることを第一目的でテレビに出ているのです。営利目的の作家の作詞を理解するには、そのことを忘れるわけには行きません。どんなに大衆受けしたからと言っても、ほとんどのヒット曲の歌詞は、人間の最も単純な思考や、動物的な脳味噌の部分に訴えただけで、決して深い真理が語られているわけではありません。また、だからこそ、ヒット曲になるのです。そして、だからこそそのうちに飽きられてくるのです。 「同じものはないから、No.1にならなくてもいい、もともと特別な Only one」 を哲学的に分析してみましょう。先ず、この世の中には決して同じ事象が存在しておりません。同じ様に見えても、それは例えば昨日起こったことだったり、別な場所で起こったりしています。ですから、いくつかの事象を観察して、それが同じでないと言うことは、どんなに思索の浅い人にでも出来ることです。ところが、我々にはそれが別のとき別な場所に起こったのに、同じであると認識することができる事象がいくつもあります。それは何故でしょうか。実はそれを「同じ」とみなすためには「抽象化」の作業がいるのです。抽象化とは、ある価値観や基準に基づいて、本質的でないとみなせる部分を落とし、その残った部分から共通した概念を見いだす行為です。この抽象化は決して自明ではなく、その抽象化の適不適でその方の思考と能力が試されているのです。 例えば、ここに3冊の本と3本のバナナが在ったとします。私たちにはその間に3と言う共通なもの、すたわち「同じ」ものを認識できます。ところがそれをチンパンジーに聞いてみて下さい。チンパンジーは、バナナは食べられるが本は食べられないので共通した物は存在しない、と主張することでしょう。他の例では、質問者さんの家族や友人の中に、何度も同じ失敗を繰り返す方が一人や二人はいるでしょう。その方に「お前はまた同じ失敗を繰り返したじゃないか」と言ってご覧なさい。その方は必ず、これとあれとは同じじゃない。今回の失敗は朝やったが、前回のは夕方だった、とか何とか言って、必ず何処か違った部分を指摘しますから。その方は、出来事を抽象化して共通な部分を見いだし、経験から学ぶと言う能力が欠如しているのです。 こと程左様に、この歌の「同じものはないから」という言葉は、普段物を抽象化して深く考えない者に取って、分かり易い論理なのです。この単純さ故に、金儲けを目的とした作詞家やマスコミの狙いが的中して、大ヒットしたのがこの歌ではないのか、という意地悪な見方をして遊んでいるのが哲学者ではないのか、と言う問いを、哲学者に問うて遊んでいるのが哲学者ではないのでしょうか。 多分、動植物やウイルスなどの他の生命体でも、「異なった」物のなかにある「同じ」物を認識すると言う、自己矛盾をはらんだ抽象化をやっているのでしょう。しかし、人間は進化の過程で、その行為を極端に押す進める能力を手に入れて来たようです。そしてその能力が人間を他の動物達から分つ人間の個性ではないかと思っております。 SMAPの歌の文句は、若者達に「人間の個性を放棄せよ、退化せよ」と洗脳している文句と見ることも、出来ない訳ではない訳ではない訳のようです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >「同じものはないから」という言葉は、普段物を抽象化して深く考えない者に取って、分かり易い論理なのです。 物を抽象化して深く考えない。いわばある人間たちをひとくくりにして差別するという考えと根が同じであると感じました。 何かナチスが台頭してくる前のワイマール共和国を見ているようで不穏な感じがします。
ON1さんがおしゃってますが、一般的に普通の人々は「相対的」な精神世界或は活動で生活しています。 宗教は「絶対」です。 相対は(苦悶)を生みます。 簡単に言いますと、自分と他人を比べます、例えは、野球で例えますとイチロー選手や王選手に憧れ、成ろうと目指します。努力して成れると思いますか。。生まれ持った「素質」、もっと深くは、仏教的に「「業」」ですね、が、違うのですから努力しても成れません。苦悶するだけです。 性格でもそうですが。 例えば寿命にしても普通の人は、何となく平均寿命を基準にして生きてます、それが或る日、突然、30歳代で大病をし余命3ヶ月と言われると、うろたえます。何故なら相対的に生きているからです。 私達は苦と楽 自分と他人 生と死の相対の精神世界で生きています、二つを区別して生きています、相対的人生です。 宗教は絶対です区別をつけない。 例えば私が黄色ならprajunyaさんは仮に青ですね、赤は赤 白は白 緑は緑です 絶対がOnly oneです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 私自身もNumber1ではなくOnly Oneである自分自身もより高めていくべくより精進(努力だけではありません) していこうと思います。青色として輝くために。
私はサン・テグジュペリの名作「星の王子さま」の中で面倒を見ていたバラとのことをヒントに作られた歌だと思ってました。 星の王子様は原語がフランス語で翻訳のされかたは色々あるのですが、私がしっくりしているのは、 キツネが語る「おいらにしてみりゃ、君は他の男の子10万人と、何も変わらない。君でなけりゃダメだってこともない。君だっておいらが居なきゃダメだってこともたぶんない。でも、君がおいらをなつけたら、おいらたちはお互い、相手に居て欲しいって思うようになる。君はおいらにとって世界に一人だけになる。おいらも、きみにとって、世界で一匹だけになる……」 「人は、暇が全然ないから、何にも知らない。商人のところで出来上がったものを買うんだ。でも、商人は友だちじゃないし、友だちを売らないから、友だちってものがちっとも居ない。友だちが欲しいなら、おいらをなつけてくれ!」 「バラの庭に行ってみなよ。きみの花が、世界に一つだけってことがわかるはず」と。 王子くんは、またバラの庭に行った。 「君たち(沢山のバラに向って)は、ぼくのバラとはちっとも似ていない。きみたちは、まだ何でもない。」 「君たちは綺麗だけど、空っぽだ。」「君たちのために死ぬことなんてできない。もちろん、ぼくの花だって、普通に通りすがった人から見れば、君たちと同じなんだと思う。ぼくが初めて出くわしたキツネとおんなじさ。でも今じゃもうぼくの友だちになっている。あの子はいるだけで、君たち全部よりも、大事なんだ。だって、ぼくが水をやったのは、あの子。だって、ぼくがガラスでおおってやったり、ぼくがついたてでまもったのは、あの子。だって、ぼくが毛虫をつぶしてやったのも(2、3びき、チョウチョにするためにのこしたけど)、あの子。だって、ぼくが、文句とか、自慢とか、たまにだんまりだって聞いてやったのは、あの子なんだ。だって、あの子はぼくのバラなんだ。」 No1は相対的な比較できる事実であって、only one は絶対。無かったことにしたり取り返せないドラマだったり、その人にとってで、他の人の目には見えないもののことでそう感じるということだと思います。 >Only oneはその道でなくてはならない人になること その道とも限らない。なつける時間をかけたこと。それは約束なしの約束、秘密としない二人でつくった隠した時間の尊さもあるように思う。
お礼
ご回答ありがとうございます。 only oneの考え方を聞かせていただき、自分としてはまだ複眼的なものの見方が出来ていない ことを実感しました。競争だけという狭い世界ではなくもっと複雑で自分の思考だけで見える 世界でないことを教えて頂きました。 自分の思考がすべての世界という狭いものの見方から離れ、もうすこし思考以外のもの、 ときにはわけのわかないものをすべて結論を出すのではなく、楽しむような風流を感じていき たいと思います。
- QES
- ベストアンサー率29% (758/2561)
「仏教に関する書籍などや講演会に出るにつれて、」とありますが 確かに、この歌詞は、槇原敬之が覚せい剤使用で逮捕され謹慎期間中にある住職との会話の中で「阿弥陀経」の「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」という一節を教えられ、 極楽ではいろんな色の蓮の花が、どの色が一番でなくそれぞれ個性を発揮していると言われたことをヒントに作った歌といわれており、 槇原自身がそれをどう理解して作詞し、さらにその詩を聞く人がどう解釈するかによって違ってきます。 しかし元となる「阿弥陀経」の一節は競争や努力を否定するものでなく、またスマップの人間性も日教組の方針も反戦歌としての目的も関係なく、非難する人は、自分で勝手に取り違えて解釈しているだけともいえます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 阿弥陀経が基になっているとは知りませんでした。仏教では精進を勧めているので納得いきます。 私自身もNumber1ではなくOnly Oneである自分自身もより高めていくべくより精進(努力だけではありません) していこうと思います。
- qsxdrfvgyh
- ベストアンサー率22% (17/76)
歌は、気分程度の内容で、真理とかではなく、真理もどきを感じる程度なのでしょう。 尺度のあることもないことも、いろいろあるし、また、この歌が無比較至上主義を礼賛しているわけでもないのでしょうから、それぞれ(個々)が大事だよねくらいに感じておけばいいのでしょう。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かにそういう歌があるという程度でいいかと思っています。 ただ、変な方向に行かなければいいのに。とは考えています。 まだ傾見があるようです.....。
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お礼
ご回答ありがとうございます。 自分がまだ2者択一的な到見を持っていたことを実感しました。 同じ仕事をしていて、能力の差が歴然とすることがありますが、能力が低い人が無能であると レッテルを張ることはできないはずです。だれでも得意なものがありますから。 しかし、その仕事をする場合はすくなくても能力向上の機会を与えられているので、能力の低い ことに安住せずに努力が必要であると思います。 Only oneについてですが、お釈迦様も「自分以上に尊いものを見出すことはできない。」とおっ しゃっています。 これから私自身も正見を持てるよう日々精進(努力だけではありません)していきたいと思います。