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なぜ平安京に遷都したのでしょうか?

鳴くよ鶯平安京、とばかり覚えて、肝心の「なぜ平安京に遷都したのか」をまったく覚えていません。なぜなのでしょうか、原因を教えてください。

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noname#82952
noname#82952
回答No.3

学校で習ったのは、奈良の仏教勢力から逃れるため、ということでした。 しかし最近では奈良の都が怨霊であふれてしまったために 平安京に遷都したという説が有力なようです。 奈良時代、729年には長屋王の変が起こりました。 長屋王は謀反を企てていると讒言されて服毒自殺しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B%E7%8E%8B%E3%81%AE%E5%A4%89#.E9.95.B7.E5.B1.8B.E7.8E.8B.E3.81.AE.E5.A4.89 また770年には女帝の称徳天皇が急病で死亡していますが 暗殺されたとの説があります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E8%AC%99%E5%A4%A9%E7%9A%87 772年には光仁天皇の皇后だった井上皇后が光仁天皇を呪詛したとして皇后を廃され、 彼女の子であった他戸親王も廃太子となって幽閉されました。 ふたりは775年に幽閉先で逝去しました。 ふたりの死も陰謀によるもので、無実だったと考えられています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E5%86%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B そのほか、私は志貴皇子も暗殺された可能性が高いと思います。 当時、このように政治的陰謀によって不幸な死を迎えた人は 死後怨霊となって祟り、疫病の流行や風災害をもたらすと考えられていました。 そのため桓武天皇は784年に長岡京へ遷都したのですが 785年に藤原種継暗殺事件がおき、 桓武天皇の弟である早良親王がこれに関与したとされて 廃太子となり、淡路へ流罪となりました。 しかし早良親王は無実を訴えてハンガーストライキを決行し 淡路へ流罪となる船の上で憤死しました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E9%81%93%E5%A4%A9%E7%9A%87 また大伴家持も関与していたとされて、 このとき既に家持は死亡していたのですが 死体が掘り出されて流罪となっています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%BC%B4%E5%AE%B6%E6%8C%81 その後、桓武天皇の息子である安殿親王が皇太子となりましたが 病弱で、陰陽寮に占わせたところ、「病気の原因は早良親王の祟り」とされました。 せっかく造った長岡京も怨霊であふれてしまったために 794年、桓武天皇は平安京に遷都しました。 平安京は四神相応の地に造られました。 北-丘陵(船岡山)-玄武が棲む 南-湖沼(巨椋池:埋め立てられて現存しません)-朱雀が棲む 東-清流(鴨川)-青龍が棲む 西ー大道(山陰道)-白虎が棲む http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E7%A5%9E%E7%9B%B8%E5%BF%9C また京の四隅には大将軍社をつくるなど 呪術的バリアがほどこされました。 http://www.genbu.net/zatu/zatu002.htm

その他の回答 (3)

  • IXTYS
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回答No.4

こんにちは。  私は関西で学生時代を過ごしたので、奈良へは良く行きました。 いつ行っても町に活気がないと言うか、沈滞した雰囲気が感じられたのを良く覚えています。  ひとつだけ思い当たることがあります。 これは中国の主に西域の都市で仏教が一時大変に栄え、その後急に滅亡してしまった町がいくつかあります。   東大寺の大仏(盧舎那仏坐像)は、鍍金の溶剤として用いられた水銀の中毒により多くの人命が失われたとも言われています。 今も《澱んだ雰囲気》が感じられ、怨霊として言い伝えられた出来事の本質は水銀公害による滅亡だったと思っています。  http://www.lbv.jp/mercury_story.htm

  • yata1746
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回答No.2

簡単に言えば、仏教勢力が強く政治と結びつくようになっていた平城京から逃れるためです。 平城京→長岡京→平安京という順になりますが、長岡京からは10年で遷都されています。 当初、桓武天皇は仏教勢力から距離を置くため長岡に都を造営し心機一転を図ろうとするわけですが、その最中、都の造営責任者である藤原種継が暗殺されるという事件が起こります。これは遷都に反対する奈良の仏教勢力が首謀して行った事ですが、なんと、その反逆に桓武天皇の弟で皇太子でもある早良親王も加わっていたという事が明るみに出たのです。実は早良親王はまったくの無実だったのですが、島流しにされ、怨みを抱いたまま憤死。その後都では、飢饉、疫病、水害が相次ぎ、造営どころではなくなります。それが早良親王の怨霊の仕業だということがわかると、桓武天皇は親王の御霊を鎮める祭を行いますが、まったく効果はなく、さらに大雨が続き大きな被害を出します。そして天皇は、親王の怨霊から逃れるために、再び遷都を行い平安京へ都を移すことになるのです。

  • UMA001
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回答No.1

いろいろ説はあるが魔除け怨霊対策と言われているな 俺の勝手な創造だが平安京に遷都したのは桓武天皇だよね 桓武天皇とそれ以前の家計図を見てくれば解ると思うが 平城京を造り支配していた系統と平安京を新たに造った系統は別物だという事(実際には桓武の父親から) 要は政権交代が有り有力者などを一掃する必要があったわけだ 桓武からしてみれば平城京の系統天武の家計は別物なんだよね その証拠に平城京の系統と平安京の系統では菩提寺も違います ちょっとわかりづらいかも知れんが理解してね☆ お大事に♪

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