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「人間の能力が平等なら、こんなに不平等なことはない」
一流のプロの音楽家演奏家で、努力して一流になれる人、才能に恵まれず、どんなに努力しても無理な人など、人の能力才能について語ったことなのですが、 「もし人間の能力才能がみな等しければ、こんなに不平等なことはない」 という言葉があります。この言葉は私はどう解釈していいのかよくわかりません。なにかピンと来るところがありましたら教えていただきたいです。
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思いつきなので浅い考えかもしれませんが・・・ 人間の結果が全て育った環境で決定してしまうということではないでしょうか? 能力才能が等しいのだから教育の機会に恵まれたものから条件の良い職に就き。 豊かな生活ができその子も良い教育をと。 この連鎖でどんどん格差が広がります。
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kaitara1ですが皆さんのご意見を読ませていただいているうちにこんなことを考えました。持っている才能は未知なものとすれば誰でも何かやろうとしている気持ちは同じあるいは平等と言えると思います。しかし現実に与えられている環境はそれこそ千差万別ですからこれはすなわち不平等ということになります。結局人に与えられる環境条件は千差万別であるということになるのかなと思いました。また才能というのはほかの人から認識されなければならないという前提があるかないかにもよるように思います。才能が埋もれてしまったというような言い方ですが案外本人は才能を発揮していたつもりになっている場合やあるいは結果的に何もできなかったというような場合もあるように思います。
お礼
よくわかります。 機械の不平等が顕在化することが1番の問題なのかと思いました。それから、能力があるつもり、発揮したつもりが、客観的評価を待たなければならないのはまったくもっとも至極だと思います。
- hosiboshi
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自分の捉え方ですが、 努力、苦難、練習等 様々なことがあったとします。 でも、何もしない人には何もない。 頑張った人には、賞賛もあるが、苦もある。 結局人生で味わう苦楽は皆平等であるという考え方があります。 でもそうすると、死ぬ思いで努力したのに、結局楽しいことはあったけど、別の生き方を選んだ人にも、普通の人には普通の幸せがあり、それが最も素晴らしいと捉えることもできる、 才能ある人生にも苦はおおいし、 比較的のっぺりとした人生にもそれなりに良いことはあるものです。 こんなに努力したのに、平等なら不公平だ。という声ではないでしょうか。 また普通の人には普通の生き方が選べる才能があり、能力のある人は、普遍性が乏しい場合があります。 賢すぎると、周りについていけない場合が当てはまると思います。 結局、人の才能が総じて等しいものなら、不平等だといいたい。 これは、自分が頑張ったなら頑張ったなりの、そうではないならそうではないなりの、他人とは違うなんらかを求める声だと思いますが、 結局人の才など皆等しいと言うコトを悟り、嘆く声だと思います。 矛盾が含まれていますので、それを解してください。 私は特別でありたいが、特別であることなど出来なかった ということだと思いますよ。
お礼
どうもありがとうございます。 いろいろ紛糾した問題ではありますね。ただ、SF的にでしょうが、まったく能力の差がないという状況で何が生まれるのだろうと無理やり考えてみたいものです。
- yayuh
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才能がみんな等しかったら、才能といえるのかが疑問です。 みんな等しくないから、才能と判断できるんじゃないかと。 つまり、そもそも平等ではないものを平等と観れば、そりゃ不平等としか言えないだろう、なんて思っています。 別の意味の言葉で、 「才能とは、やれるまでやれる人のことを指す。」 と言った人もいます。
お礼
才能と言うこと自体が消滅しますね。そうすると、非常に芸術分野などは顕在化する動機を失わせてしまうと言うこともあるかと思います。結局はエゴをどう美化するかと言う要素が大半ですので。 才能という言葉自体を吟味すると、例に挙げたような考えも出て来ますね。そうすろともっと裾野を広げて考えなければならず、とても人間の頭に負えるることじゃないのかもしれません。
- rurubonpp
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あまり気にするような言葉でもないと思いますが。 ものごとの一面しか捉えてない言葉です。才能が平等でも生まれる場所や国、性別、家族環境、親類、友人関係などなど様々な条件によって成功したりしなかったりするものです。 才能があっても失敗する人。才能が無くても成功する人。様々でしょう。所詮、人間ですから才能があってもなくてもドングリの背比べでしょう。 努力するかしないか。運があるのかないのか。人徳があるのかないのか。そういうことが大切なのでしょう。 努力するにしても、音楽家なら音楽だけのことを努力すれば成功するのかどうか。運を良くするための努力や人徳を得るための努力はやったのかどうか。人間関係の努力はどうか。そのようなことが大切なのでしょう。 あなたがピンとこないのは、この言葉が間違っているからではないでしょうか。
お礼
成功のためには、特定分野に向かった才能そのものと一緒に、他のもろもろの条件をクリアーするといった気遣いとか頭のよさとか人間性が要求され、そういう混在物が「成功」という形を取るということはほぼ間違いないと思います。なので、イコールの才能ばかりが集まれば、その条件をクリアーできる資質やら運やらを持った人間がのこってしまうという、かなり限定的な成功例しかなくなると言うのはわかります。 考えがまとまってまいりました。ありがとうございます。 また、もしかしたら間違っているのかもしれません。
もし人間の能力才能がみな等しければ、行使する機会や条件に恵まれた人が一流と見なされ、努力したくても出来なかった人は本人の能力才能を問わず主張する権利さえ無い人とされてしまう。これは不平等です。
お礼
そうですね。機会に恵まれるか否かという「運」がすべてになってしまいますからね。こんなにも不平等が顕在化する事態もないですね。簡潔にまとめてもらってありがとうございます。
- bananasand
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厳密にみれば、 人間の能力才能がみな等しければ、 一番になれる人は一人しかいません。 全員の傾向が同じ方向を向いているので最も努力した人間一人だけが一番。残り全員が敗者。 能力才能が違う(個性がある)からこそ全員が勝者に成る可能性があるって意味で平等とするんじゃありませんかね。
お礼
そういう広角の考え方でいくと、才能がないことも一種の個性であり、ひとつの可能性であるということも思い浮かんできます。まったく平等の才能ならば、それぞれ個性的とは言っても現状の普通の子性差とは著しく縮小された差異にしかならず、一人の特別的な成功者と敗者という構図ができてしまうかもしれないですね。
しばらく考えてみたのですが、私はかつての軍国主義時代の軍縮会議を思い出しました。軍縮会議の目的は当時のイギリス(とアメリカ)は既得権益を守るためだったと思いますが、日本は国力を無視して条約を破棄したため各国との間に、建艦競争が始まりました。競争が現実化すれば戦争ですが、戦争は平等の条件で行われます。結果は悲惨でした。つまり日本は国力相応にイギリスやアメリカより小規模な軍備で満足すべきだったのだと思います。おそらく御質問はすべての国の国力が平等であるとして戦争を実行したら実際には国力が劣る国は現実的には悲惨きわまる敗北を味わってこれほどの不平等なことはないだろうというような感じではないでしょうか。その音楽家はそういう敗北者を何人も見てきたのではないでしょうか。才能にしても環境にしても与えられた現実をしっかり認識してそれ相応のことを行うことの大切さを語ってくれているのではないでしょうか。
お礼
良い比較材料を与えてくださったと感じます。日本がたどった道は、手加減なしの平等に踊りこんだ歴史だったともいえます。だから粉砕されました。 で、質問のほうは、もし国力がすべて等しい国しかなかったらと言うif なので、そこのところを考えてみたいという気がします。才能のみまったく平等であったとしたら、どうだろうか。
- KitCut-100
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「もし人間の能力才能がみな等しければ、こんなに不平等なことはない」 ここでのポイントは、「能力才能が等しい」と「不平等」の考え方です。 この言葉は幾種類もの解釈が可能です。 一つの解釈をしめします。 解釈1 能力や才能は、本当はひとによって千差万別です。しかし社会情勢によっては それを認めないで、人間は生まれ持って同等の能力もっといるはずであり、その人が成功するか否かは、その人の努力にすべてかかっているとのたて前の社会があったとします。事実このような考え方はこれまでありましたし現在の日本の教育の一部それに近いものがあります。そうすると評価は、絶対的なうまさではなく 努力の量に依存します。本当の素質はないけれども努力している人。残念ながらこの人は本当の実力がないとします。 また生まれ持った才能にめぐまれ素力する事なしにすばらしい能力を持った人。 この社会では前者の人が評価されます。 しかしこれは意味不平等です。 それは本来のその人がもっといるそのときの能力で判断していないからです。 「もし人間の能力才能がみな等しければ、こんなに不平等なことはない」 を 「もし人間の生まれ持った能力才能が,みな等しいとみなすならば、こんなに不平等なことはない」 というふうに読んでいることです。 解釈 その他 上記以外にも色々な解釈が可能です。 ここからが私の意見です。 文脈が不明なのでそのひとが何を意味しているかはわかりませんが、その話者が本当に生まれ持った才能がある人であり、 現在の日本の評価システムの不満を持っている仮定すると、解釈1は あながち はずれているとは思えません。 解釈 その他については、それぞれ言葉を補ったり、平等の意味の定義を色々解釈してみると多種多様な解釈が成立します。 これは少しご自身で考えてみてください。 たとえば 平等とは、 1)すべての人間を同一に扱うこと。 2) 同じ価値判断で人を評価する事。 3) チャンスを平等に与えること。 等いくつかあります。 以上
お礼
大変わかりやすいご解説で、ありがとうございます。 納得しました。 努力なくても才能での人は、努力付で才能を補った人に評価のうえで水をあけられるというのは、心情的にわからなくはないとしても、もし、能力主義であるとか実績主義(結果)で評価すると言うことを貫くとしたら、不平等な扱いですね。つまり、「才能がある」という美点を抹殺されてしまう。それは不当ともいえます。 しかし一方、「努力」は美みたいな考え方も、やはり人間的文学的な素地として残ってもいいとは思います。 もしそうでないと、上に当てはめて考えると、努力付の才能なしのほうは「同じ実績を能力を経たのに、おれの苦労を評価しないなんて不当だ」という気持ちもあながち不合理ではないのではと。 平等の意味についてはいろいろ可能性を当たってみないとだめですね。私はあげていただいた中では、3)が最も重要なことであり、資本主義社会でなしえることの目標だと尾も思うのですが、事実はそれと反対の方向に向かっているようです。
お礼
なるほど!そういう考え方もできますね。 I能力があって環境もいい II能力がなくて環境はいい III能力があって環境は悪い IV能力がなくて環境も悪い という4種類に状況を無理やりカテゴライズするとすると、みな平等な能力であれば 環境がいい 環境が悪い の2種類で決まってしまいますからね。実際にはIIとIIIが癖ものだと思いますね。
補足
質問文に足せばよかったのですが、 どうも語られた文脈は「環境云々」にはあまり考慮してなかったようです。なので「一流になれる人となれない人がいるから世の中うまく行ってるんだ」「もしみんな一流になれちゃったとしたら、世の中うまく行かない(不平等)になるんだ」と言う感じです。もしかして、同じ能力がいっぱいいて、それにふさわしいポストにつける人間が一部になってしまうから、能力がない人間がいることが世の中うらみつらみをなくすことにもなるっていう意味かもしれないですね。