こんにちは。
>>長袴ですが、正装の一種と言うことはTPOに応じて履いていたと言うことですよね。見ていた時代劇では将軍様謁見の時、長袴を履いている大名と普通の袴の大名が混じってました。これっておかしくないですか。それとも同じ行事に参加するのでも、地位とか役職によって着るものも代わったものなのでしょうか。
基本的には、「礼服(=正装)」でしたので、普段は短い袴でもOKでした。
また、着用できるのも「国持大名で1万石以上」などに限られていました。
そして、「礼式日」などの日や「勅旨(ちょくし=朝廷からの使い)」などをお迎えした「特別な日」だけ着用しました。
礼式日とは、
「元旦」
元旦・・・これは、もちろん正月1日。
「五節句」
人日(じんじつ)・・・正月7日。(七草粥の日)。
上巳(じょうし)・・・3月3日。(ひな祭り)。
端午(たんご)・・・・5月5日。(端午の節句)。
七夕(たなばた)・・・7月7日。
重陽(ちょうよう)・・9月9日。
「八朔」
八朔(はっさく)・・・8月1日。(この日は、家康が初めて江戸へ入府した日で、元旦に並ぶ重要に日)。
これらの「礼式日」には、江戸在中の大名などが全て登城しました。
しかし、長袴を許されるのは、先にも書いた通り、一万石以上の国持大名、御三家、などに限定されていました。つまりは、「権威の象徴」だったのです。
さらに、老中や側用人、若年寄などの御用繁多の人たちは、長袴で「ゆったりと」歩いていては仕事になりませんので、特に、普通の袴での登城、公方さまとの面会などが許されました。
(なお、将軍のことを江戸時代は「将軍さま」とは呼ばず、「公方(くぼう)さま」または「大樹(たいじゅ)さま」、「御公儀(ごこうぎ)さま」と呼んでいました。良くTVなどで「将軍さまのお成り~」などと叫びますが、単なる「視聴率」を上げるてめの所業)。
また、赤穂浪士で有名な「松の廊下事件」では、
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)は、「勅旨饗応役」という役目を仰せつかっており、長裃の正装でした。
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしひさ)は、高家筆頭(こうけひっとう)という家柄で、公家と武士を兼ね備えたような立場で、朝廷の儀式の作法を指導する立場でした。
そして、浅野は国持大名で5万石。
吉良は、「領主」とよばれ、三河国幡豆や上野国緑野郡、碓氷郡等を領地としていましたが、四千五百石でした。と、なると、普通の「袴」・・・と、なるのですが、高家ということから、朝廷風(公家風)を真似て「狩衣」での登城が許されていました。
お礼
とても詳しい説明ありがとうございます。 鯨のひげですか。実物を見たこと触ったことはないですが、納得です。 長袴ですが、正装の一種と言うことはTPOに応じて履いていたと言うことですよね。見ていた時代劇では将軍様謁見の時、長袴を履いている大名と普通の袴の大名が混じってました。これっておかしくないですか。それとも同じ行事に参加するのでも、地位とか役職によって着るものも代わったものなのでしょうか。 狩衣も興味深い衣装です。何処をどう縫い合わせてあるのか不思議です。(洋裁、和裁とも少々するのでちょっと変わったデザインの服があるとついつい縫い方とか縫い目を解いてみたくなってしまいます。)