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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:三島由紀夫 『殉教』の中の理解不能の欲情描写)

三島由紀夫『殉教』の中の理解不能な欲情描写

このQ&Aのポイント
  • 三島由紀夫の『殉教』のなかで、ガキ大将的少年がひ弱な少年を、こてんぱんに打ちのめしてから、欲情する場面が描かれています。
  • それによると、畠山少年が見つけた本を盗んだ亘理少年との間で暴力の応酬が繰り広げられます。
  • 畠山が亘理に暴力を振るった後、突然畠山に欲情が目覚めますが、この欲情についての描写は理解できません。

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  • easy_all
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回答No.2

回答NO.1です。 >殺されることに優越感を感じるのでしょうか。死に対して美を持っているので、今、生きていることに負い目、屈辱を感じたのでしょうか。 →どちらも、YESだと思います。 >それなら反撃しないで、殺されるのを良しとして、亘理に首を締め付けながらエクスタシーを感じていればよかったようなものを、、、と私は考えてしまいます。 そうですね。論理として、その通りですが、 論理のままには、行動しなかった。という事か?と思います。 >物語の最後では畠山は、子分どもの最近生意気な奴に制裁を加えたいという願望に応えるかたちで、本意には反してだと思いますが、亘理を木に吊るし上げてしまいます。 > 結局、自分が死ぬのは嫌な普通の感覚の持ち主という感じもするのですが。 「本意に反して」でなく、まさに本意をとげて、だと思います。 「死ぬのは嫌な普通の感覚」ではなくて、 同性愛の対象である『豆理』に、愛する相手にふさわしい、美しい死を とげさせようとした。と思います。 また『豆理』とは、『豆つぶほどの理性』、『畠山』は、山のように畑になる位ありふれた男、という半ば逆説的な命名だと思います。 また、三島は逆説が大好きだから、あまり細部にとらわれなくて良い、とも思います。 しかし、死vs性のエクスタシー、この両者が一体、という信念は、三島の親友の、横尾忠則にも共通しています。 バタイユ「エロティシズム」は、これを生殖細胞から、説明します。 二つの生殖細胞が、合体して新たな生命を生むとき、 二つの生殖細胞は、消滅して、つまり死んで、新たな生命となる。 性=美=聖=死 この一体は、昭和6年から20年までの日本で、 つまり三島の幼年から青年までの時代で、最も緊密だったと思います。 三島の作品を、真摯に読まれる姿勢に、深く賛同します。 これからも、よろしくお願いします

jasu
質問者

お礼

どうも、詳しい説明をありがとうございます。 >三島の作品を、真摯に読まれる姿勢に、深く賛同します。 >これからも、よろしくお願いします 質問に答えてくれた回答者さまから、このようなお礼を逆に貰うことになるとは思っておりませんでした。しかし、、、ちょっと三島の世界観は、自分にはあっていないかなぁと思ってしまいました。 死=美は日本文学の基本的な考えようだとは思いますが、ちょっと三島の性癖には、ついていけそうがありません。ネットでゲイの方が書いた、三島の「殉教」の書評があったのですが、彼が原文を挿入しつつ、三島のエロティズムの表現法に興奮しながら賛美しているのですが、自分は考えても、考えても理解できないので、ちょっと嫌になってしまいました。  回答者さまには、お礼申しあげます。

その他の回答 (1)

  • easy_all
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回答No.1

まったく三島由紀夫らしい文章ですね。 この感覚は、バタイユ「エロティシズム」が鍵になる、と思います。 ご存知のとおり、三島とつながりの深い、澁澤龍彦が訳し、 三島はバタイユを、『エロティシズムのニーチェ』と呼んで、(手元にないのですが)新潮社「三島由紀夫 評論全集」には、バタイユの評論がいくつも書かれています。 「エロティシズム」の骨子は、キリスト教以前の原始宗教にあり、 禁vs違犯 の峻烈な対立です。 禁、とは、日常の労働で禁止される、性・殺人=死 であり、 この禁に違犯する、性の放縦である狂宴・戦争 が、聖 なのです。 禁じられると、それに違犯したい、という欲望を人間は抱きます。 禁が、人間の本性にかかわる時、その違犯の魅力はいっそう強烈になる。と言います。 昭和6年の満州事変から太平洋戦争まで、思春期・青年期をずっと戦争の時代に生きた三島は、 戦死した英霊を、英雄だとする社会の中で、性にめざめた時 死=英雄=美 が一体になって、さらに 美=性 とされた。 死・英雄・美・性 は、三島にとって一体で、 さらに「同性愛」というより強い禁止に違犯するとき、禁を犯すエクスタシーが、いっそう強烈になった。と考えます。 そのため、「当然の移行」とは、死への暴力・性の欲望の一体。 >自分が殺されかけたことが、なぜ「異様な優越感と異様な負目とが同時に感じられ」ることに繋がるのか >「今、自分が殺されていないという屈辱」 これは、死=美 による優越感。暴力に負ける、という負い目。 この両極端の感情に、同時におそわれた。と考えます。

jasu
質問者

補足

詳しい説明ありがとうございます。説明をもとに、もう一度読み返してみたらなんとなしに分かるような感じもしてきました。  しかし、今もってわからないことが。。。    魔王畠山は亘理を簡単に打ちのめすことができるほどの力の持ち主だというのに、殺されることに優越感を感じるのでしょうか。死に対して美を持っているので、今、生きていることに負い目、屈辱を感じたのでしょうか。それなら反撃しないで、殺されるのを良しとして、亘理に首を締め付けながらエクスタシーを感じていればよかったようなものを、、、と私は考えてしまいます。 物語の最後では畠山は、子分どもの最近生意気な奴に制裁を加えたいという願望に応えるかたちで、本意には反してだと思いますが、亘理を木に吊るし上げてしまいます。  結局、自分が死ぬのは嫌な普通の感覚の持ち主という感じもするのですが。

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