三島由紀夫の首切られるときの心境について
現在自殺方法にもたくさんの方法があり、多くの人間は苦しまずに死にたいはずです。
硫化水素ガス、練炭による自殺が楽に死ねるようですね。
最近ではないですが、ほんの昔の1970年に起きた三島由紀夫の切腹した後に子分に日本刀で首を切り落とされるという事件について恥ずかしながら3日前に知ってからずっと考えてきました。
子分の森田にいたっては三島由紀夫の首を切りつけて、何度も失敗しているにも関わらず(三島が腹を深く切りすぎてもがいたために首を命中しづらかったようです)、すぐ自分もと、血だらけの三島の横に三島が腹を裂くのに使った短刀を三島の手から取って、もう1人に首を切らせて絶命しています。
ちょっと想像ができません。
現代社会の中で育ったためでしょうか。
自分の身を傷つけることもそうですが、自殺を決意したとしても楽なように死にたいと思うのです。
しかし三島は首を切断されて死ぬという考えられない自殺を選んでいます。
このときの三島の気持ちはどうだったでしょうか?
また回答者の皆さんは首を日本刀で切断されるということに恐怖を抱きますか?
私はとんでもない恐怖で力が入らなくなります。そして忘れたくてもこの数日考えてしまいます。そのとき切られる、あるいは切る人間は何を思うのか、ということを。
切腹という行為は日本古来の伝統的な自殺方法なのは知っていましたが、首を切られて死ぬということは恥ずかしながら知りませんでした。侍が腹を切って死ぬ、よくそんなことができるな、昔の人は違う世界の人だ、とそんなふうに思っていました。
調べてみると苦しいので後ろから日本刀で首を切ってもらう(なぜ首なのかが分かりませんが)ことを切腹というのですね。
結局は首を切り落とされて死ぬのだから斬首と言っていいのにと思ってしまいました。
話が逸れましたが、悪人で強いられたのではなく、自ら切腹行為を選び、介錯され死んだ人間の気持ちが理解できません。
右翼的な、あるいは武士道における道徳観や美を追求するとそういった行為もできるんでしょうか?
だとしたら三島由紀夫や武士たちは、経済的な豊かさに満たされ、伝統的な美意識や大義を失った現在の日本に生きる人々を見て理解できずにひどく失望するんでしょうか。
散文失礼しました。
お礼
ありがとうございます。 そうですね、首の皮一枚残すそうですが、なかなか難しいですよね。 何も、すっかり切り落とさなくとも…と思ったのです。ご家族だって居たのでしょうに。 罪人は河原で晒されたそうですが。 殉死した方がいらしたそうですが、その方が介錯なさっとか。 ご自身も介錯の後に切腹が控えていますので、上手く出来ず、切腹中の三島氏に『落ち着け』と声を掛けられたそうです。 どなたかが、介錯はしてはならないと仰ったとか?死なせてはならないと。 もう昭和になると、介錯をした者などいないですから、どうしたら良いかよくわからないですね。 尊敬する方に刀を振るうのも、なかなか思いきれないと思います。 最終的には体重を掛けて押し切りにしたとか。 ありがとうございました。