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他人に親切を心掛けている方、ご回答お願いします。
現在保育士の資格取得のために社会福祉を学んでおります。 他者を助けようとする意図についてふと疑問が浮かびましたので教えてください。 世界の歴史を振り返ると、弱者への救済には政治的な意図(自分の権力を定着させるため)や、宗教的な意図(キリスト教的には、自分の罪滅ぼしや、死後救われるための善行目的も含む)があったとのことです。 また、国内においては江戸時代に、儒教の朱子学に基づく救済論が説かれたそうです。(ウィキぺディアで調べましたら、儒教は宗教ではないという捉え方が一般的だそうです。) 私は長らく宗教的な動機で他人に親切にしてきたのですが(周りが皆そうだったこともあり、動機が定着すればあとは惰性でできるというか、それが当たり前というか自然に行動指針となっている感じでした)、現在は無宗教のため、特に理由はないけれど人当たりは悪くないほうだと思います。 親しみを感じる人には仲間意識と言うか一体感がありますので、相手が喜ぶと自分も嬉しくなるので優しくしたいと思って優しくできます。 でも、(無宗教になってから、)初対面の人・義理での付き合いの人や、赤の他人(冷たい表現かもしれませんが)で困っている人に親切にしたいという気持ちはあまりなくなってしまいました。 駅等での共同募金の呼びかけ等にも、素通りできるくらいになってしまいました。ニュースを見ても、困っている人が世の中にいるという現実にも心が痛まなくなってしまいました。 社会問題に対する自分の無力さを知ったことも一因だとは思いますが、主な原因としては他人に無関心になったように思います。 そこで皆様に質問です。 <他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか?無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか?その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。> ※ただ、人に親切にすると気持ちがいいから、という理由では不足な気がします。皆がそうであるわけではありませんから。身内への情誼でさえ「面倒臭い」という人もいます。 この質問の意図は、<結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?>ということを知りたいからです。 儒教的思想だとそうでもないような気がしますが…(感情よりも理性に基づいた社会学のようなイメージです。) また、他人(身内や友人以外)に親切にするのは人間だけなのだろうか?ともふと思いました。動物は、家族や群れでは助け合いますがあくまでも身内同士での共生だと思うからです。 もちろん、身内に十分に親切にするだけでも、大変というか大切なことです。家族を疎かにしてしまうことだって珍しくないと思います。 だとすると、<身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?> 「見境無しに手を広げ差し伸べつづけていくと、手一杯になり、いずれ、本当に身近で助けるべき人や、自分が困っているときに気付けなかったり、気付いていても助けられなくなる」 これが、最初私がクールになり始めたきっかけです。 でも、年月が流れ、自分に余力があっても、自分から人を意識的に助けに行くことはなくなりました。ボランティアをしたいとか思わなくなりました。ずいぶんと器が小さくなってしまったのでしょうか。 それとも、見知らぬ土地へ嫁ぎ、(遠距離だった相手と1年半前に結婚しました)家族を第一に守らないと、と意識するようになったからかもしれません。 <宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。> 自己弁護というか自問自答な部分もありますがご容赦ください。 <>内の疑問に関する皆様のご意見や経験を教えてください。すみませんがよろしくお願いします。
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- magga
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<<以下、この場をお借りしまして他の回答者の方々も私の背景を聞いていただけますでしょうか…>> はい。 <<「宗教がないと親切に出来ないかどうかは、冒頭で述べた通りで、環境や意識によってカムフラージュされていた本当の自分の程度が露出したというだけの事です」そうかもしれません。優しい子と周りから言われてきましたが親は私は態度が大きいと思っていたようです。(親に対して理想を求めていた傾向がありましたから、子どもの分際で生意気なことを言っていたような気もします)>> 信仰系の宗教の利点は、手っ取り早く道徳的に迷惑をかけにくい人間にすぐに持っていけるところがあげられると思います。 うまく穏やかに優しく問題なくいく人もいますが。 抑圧や自責の念にとらわれやすい人はいずれ感情的に苦しくなりますし、根拠のないことを信じることはかなり難易度の高い事と思います。逆に反証する根拠のほうが多く見つかったり…。現実との矛盾で苦しんだりもしますね。 <<おとなしく繊細だと言われる反面、頑固で強情なところもあります。自己愛性の問題かもしれません。なにせ自分や他者への認識のバランスを保つことが出来ません。愛情と憎悪を同一の対象に同時に抱いてしまうなど…>> 人間などそのようなものですよ。 多くの人が 「私は正しい。他は間違っている。」 「私の責任ではない。他者の責任だ。」 という感情を少なからず持っています。 それに気付いた人が、その道を発見し、その性質を徐々に直していくのだと思います。 そのような人を智慧の人というのだと。 「自業自得」は結構明るい考えなんですよw 自分の行為に結果が無かったらそんなに暗いことは無いでしょうw 訓練しても身につかないなんて…。 <<私は同時期に親に対しても失望のようなものを感じていました。今は親のことだけは信じられるといった心境にまで変化しました。(宗教の理屈抜きでの純粋な愛を感じるからです)>> すばらしいことです。心は結構自分勝手なものですから、徐々に焦らずやっていけばいいと思います。 <<私は結婚して大分情緒的に落ち着きましたが、現在、自分の主人への愛情の有無に確信が持てません。性格や思考が対照的なため、はっきり言って親しみはなく、他人のように遠くに感じます。>> 試しに、一度、理性で周りの人の「認める所・尊敬できる所・恩恵を受けている受けたところ・感謝できる所」をノートか何かに書き出してみてください。つまらない小さなことでも思いつく限り。 みんなここにこだわりますが、執着による感情なんてこだわらなくても善いと思います。そのこだわりは自分も他人も苦しめるものですから、無ければ無いほど善いと思います。 その相手を認める・尊敬・感謝出来ただけ周りを本当に愛していると言うことだと私は思いますよ。その気持ちが徐々に育てば自然と手を伸ばしたくなるはずですから。 どうしても嫌いな人はその理由を書き出し、その項目をどんどんシンプルにただの悪口や感情的になってる部分を削りながらまとめていくと、「なんだ、このポイントが自分と合わないだけだ」と自分の中で折り合いがついたりしますよ。 みんな合わないポイントなんてありますからね。 その結果でお互いに嫌にならないような距離感を探していけば、自分のためにも他人に為にもなりますからオススメです。 上記したことや慈悲の念(布団で寝るまで心の中でと、目覚めてからがオススメ)を熱心に実践すれば慈悲喜捨の心や正しい見方が育ち、徐々にどうしても合わないポイントも感情的なところは淘汰されていくと思います。 興味があって納得がいったら納得がいった範囲からやってみてください。結構早く結果が出てくると思いますよ。 <<私は自分がこれまでも、今もこれからも愛情深い人間だと感じていたかったです。でも現実は恐らくそうではないのです。>> 気付けたのですから改善できます。気付かない人はどうしようもないでしょ。すばらしいことですよ。 ただ後悔や自責は出来れば捨てたほうが善いですよ。それ自体が怒りの感情で闇に引きずり込みますから、自分の心に騙されないようにしましょう。心は刺激的な感情が好きですからね。 以前のことは開き直りましょう。 開き直ったほうが成長できますから。 問題は以前ではなくこれからですからw <<まず、身内である主人や子どもを愛することから学ばなければならないようです。>> 自分を愛することも忘れないでくださいね。生命の基本ですから。そして自分が幸福であるためには身近にいる人の幸福が多大な影響を与えますから自然とそちらのほうに赴く。 <<自分でも異常だと思いますが、そんな風に幸せを邪魔する妄想癖があるのです。>> 実践と共になくなっていくと思いますよ。 ヴィパッサナーは妄想をカットする能力を育みます。こちらもオススメです。 <<一度に大きなストレスとショックを味わった経験がトラウマとなっているため、人生とは裏切られるものだという被害妄想が潜在意識に根付いてしまっているのかもしれません。こちらでのやり取りを通じてそのことに気付きました。今後こうした根本の問題に向き合っていこうと思います。>> 悪い原因を無くし、善い原因を育めば嫌でも幸福になります。 お互い精進いたしますようw
- Ryo_ss
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私は,人に親切にしたいと思って行動したことはありません。 たとえそれが他人からは親切な行為に映ったことがあったとしても,自分自身でそう思ったことはありません。 私は,私がしてもらいたいと思うことしか相手にはしません。 私は“されたいことはしてあげるべきであり,されたくないことはしないべきだ”という考えで生きているので“モットー”等といわれると大変違和感があります。 ですから,私が誰かに何かしてそれに対する礼を相手から述べられることがなくても全く何とも思いません。 私が勝手にそうしたい(私が相手ならそうされたい)と思っただけのことですから…。 ちなみに私は宗教家ではありません。 “私は明日死ぬかも知れない”と常に思っているので宗教自体にそこまで興味がないです。 私がこう思うようになった経緯ですが…。 “自分がされたくないことはするな”といわれたことがあるからでしょうか。 あと“君のために…”といわれることや言っている人を見ると大変嫌悪感を持ってしまうからかも知れません。 他は,特別思いつかないです。 動物の話ですが,異種族でも私は相手を思う気持ちが芽生えておかしくないと思いますよ。 犬が人間を助ける話などよくある話です。飼われてなくてもあるようですよ。 あと,育ての親は異種族だとか…色々私は聞きますがそれとは違うのでしょうか? 私たちが知っている世界などごくごくわずかなのですから,“絶対”と言い切ることは何事においても出来ないと思います。 子供に対してですが…。 親切心を諭したいのなら,相手の立場に立つように促す方が理にかなってると思いますよ?
環境による惰性というのは確かにあると思います。その中で出来ていたことが他の環境でもできるかどうかが、本当の利他的精神をはかるうえで一つの尺度になりうるのではないかと思います。 ですので、その環境を離れて一般的環境に入った時に利他的な思いが減退したら、それは利他的精神がまだまだ甘かったという事なんだろうと思います。 でも、だからと言って無理して気が進まないことをやる必要はないと思います。善の動機で生活する事は大事と思いますが、無理な事をするとそれはただの我慢大会であり、心には良くはないと思います。自分に出来る範囲で頑張って行くのがちょうど良いのではないかと。 私は親切とは人に対して積極的に働きかける施しであるだけでなく、人に配慮して害となる事をしないという事も含んでいると思います。総じて、人にとって害となる事を避け、人にとって善となる事を施すよう努めるという事です。ただし、その善悪の判断基準は自己の尺度によってしまう訳ですが、なるべく相手の事を正確に把握し客観的に考えるという、才能も必要であると思います。その才能とはもちろん経験によって鍛えられる類の事ですが、その鍛錬も利他的な真心を込めた生活をしていないとなかなか鍛えられないという気がします。 それで、人に対して親切にしようと思う想念は何か心の奥底から湧き上がってくるエネルギーのような気がします。それは生まれつき備わったもので、そういった動機の部分は別段鍛える必要性を感じません。その気持に自然に従って生活すれば丁度いいのではないかと思います。 とはいったものの、所詮は質問者様と大して変わらないような利他的精神のレベルであります。 信仰思想はない訳ではありませんが、それを抜きにしても言えることと思います。 利己心や自己満足は利己心や自己満足に過ぎず、利他的精神(親切心)とは違うと思います。人の中には利他的精神の湧き上がるエネルギーが微弱で、世の中偽善しか無いんだと言い張る人も居たような気がしますが、私は自己洞察でそうは思いません。 宗教がないと親切に出来ないかどうかは、冒頭で述べた通りで、環境や意識によってカムフラージュされていた本当の自分の程度が露出したというだけの事ですが、だからと言って背伸びして無理な事をするのは良くないと思います。あなたのおっしゃる通り、凡人で出来る事は必ずいつか限界が来ます。あくまで自然体で生活するのがよろしいかと。 お子さんには、自分の心の中の自然な善の動機によって生活する事を教えたらいいと思います。お子さんの心を信じてあげれば自信にもつながります。最初から「こうしなきゃだめ」という否定的な教え方では自信のない子になってしまいかねません。 ただし、それと同時に相手にとって何が親切になりうるのか、それを最善を尽くして考えることこそ、本当の思いやりなんだという事も盛り込んでおきたいところですね。そういったことも自然な善の動機で出来るんじゃないかと思います。・・というか信じてあげることです。 何が善で何が悪かといったことは厳密には分かりません、あくまで意識の問題なのであしからず。
補足
ご回答ありがとうございます。 以下、この場をお借りしまして他の回答者の方々も私の背景を聞いていただけますでしょうか… >宗教がないと親切に出来ないかどうかは、冒頭で述べた通りで、環境や意識によってカムフラージュされていた本当の自分の程度が露出したというだけの事です そうかもしれません。優しい子と周りから言われてきましたが親は私は態度が大きいと思っていたようです。(親に対して理想を求めていた傾向がありましたから、子どもの分際で生意気なことを言っていたような気もします) おとなしく繊細だと言われる反面、頑固で強情なところもあります。自己愛性の問題かもしれません。なにせ自分や他者への認識のバランスを保つことが出来ません。愛情と憎悪を同一の対象に同時に抱いてしまうなど… 宗教心があった頃は何をされても人を憎むということはなかったのに、属していた組織宗教に幻滅して鬱を患い、以来性格が酷くなりました。(元々持っていたマイナス要素が肥大して前面に表れました。)親は反動かなと思って見ていたそうです。私は同時期に親に対しても失望のようなものを感じていました。今は親のことだけは信じられるといった心境にまで変化しました。(宗教の理屈抜きでの純粋な愛を感じるからです) 私は結婚して大分情緒的に落ち着きましたが、現在、自分の主人への愛情の有無に確信が持てません。性格や思考が対照的なため、はっきり言って親しみはなく、他人のように遠くに感じます。 なぜ結婚したかというと彼の家族が私の親と同じ宗教だったからです。 今後の実家同士の付き合いに配慮して、この条件に合う彼を選びました。主人は純粋に私という人間を好いて結婚してくれました。計算高い下心があったのは私だけです。結婚を急いだのは、当時卒業を控えていた私の鬱が酷く、まともに就職ができないと感じたからです。(これは親には言っていません) 私は自分がこれまでも、今もこれからも愛情深い人間だと感じていたかったです。でも現実は恐らくそうではないのです。 宗教をやめ、仲間や信仰や人生への意味づけを失っても、愛だけは財産として受け継いでいたかったのに… まず、身内である主人や子どもを愛することから学ばなければならないようです。(子ども※新生児です、 は主人似です。誰が見てもそう言われます。)私は主人とは共感箇所が少なく解り合えないという寂しさを常に抱えています。同じ宗派にいたのだからそれなりに合うはずだと思っていたため、余計に淋しいです。 この子を見ると主人と重なり、寂しさを感じてしまいます。この子とも、心は通わないのかな、って…。自分でも異常だと思いますが、そんな風に幸せを邪魔する妄想癖があるのです。 一度に大きなストレスとショックを味わった経験がトラウマとなっているため、人生とは裏切られるものだという被害妄想が潜在意識に根付いてしまっているのかもしれません。こちらでのやり取りを通じてそのことに気付きました。今後こうした根本の問題に向き合っていこうと思います。 今はちょっとここで立ち止まってしまっているので、落ち着いているときにまたゆっくりと皆様のご意見を拝見させていただきます。皆様のご回答に感謝いたします。
こんにちは。 20代後半の三児の母です。 先日は、ありがとうございました。^^ ><他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか? いえ、私は寧ろ「宗教/道徳/倫理。。。」やらの方が「後付け」だと思っております。 >無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか? はい。^^ >その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。> 経緯。。。初めはやっぱり「親の躾」だと思います。 「自分の嫌な事を他人にしちゃいけない」「人の身になって考えなさい」って、信仰の有無を問わず、「普通の/不可欠の躾」だと思いますが。。。? で、「親に言われた通り」しているうちに「自分なりの価値」を見出して、「あ!楽しいじゃん」となり、今に至る。。。かな。 ><結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?> 「繰り返し」によって見つけるものかな。。。と。 それと、自分自身の嬉しさ/楽しさ等の経験を積み重ねて、そこから後は「想像力」の仕事かも知れません。^^ ><身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?> 自分に余裕が無ければ出来ない事だと思います。 あまり、動物レベル、とは思いません。 ><宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。> お子様はまだお小さいのでしょうか? ちょっとものが判って来て、「お母様/お父様の真似」をし始めると楽しいです。自分がいつもしてもらっている事を、今度はお母様にしてくれたり。。。。お箸を取って「あい!」ってしてくれたり。手を洗う傍でタオルを持って来てくれたり、洗濯物を畳む横でお手伝いしてくれたり(勿論「ぐちゃぐちゃに丸める」のですが。汗)。。。 そんな好奇心や真似っこ、いたずらを「良いように解釈」して、 「わあーーー嬉しいな♪助かるな♪ありがとう!!」と遊びの相手をしてあげる。(小さな子どもに取っては「お手伝い」も遊びのひとつ、ですから。^^) これが始まりじゃないかしら?と思います。^^ やっぱり、不機嫌な顔より「笑顔」の方が見ていて気持ちよいですし。 「最初の動機」には、これで「充分」だと思っています。 後はその「良い思いの繰り返し」が「親切心」やら「良心」やらを形成して行くのだと考えています。 まずは「楽しさ」からでは無いかな?。。。。と。 「遊び」って大切です。^^ お役に立てると嬉しいです。
お礼
>私は寧ろ「宗教/道徳/倫理。。。」やらの方が「後付け」だと思っております。 >>無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか? はい。^^ そうですよね、自分のケースしか見えていませんでした。 あと、主人が「親切」というキャラではないので端的に結び付けてしまっていました。でももしかしたら「彼は親切じゃなかった!」という失望経験が固定イメージを膨らませていたため、彼の持っている優しさにふれても素直に認められずにいたのかもしれません。 >お子様はまだお小さいのでしょうか? 早産でしたが、修正月齢で一ヶ月です。 >ちょっとものが判って来て、「お母様/お父様の真似」をし始めると楽しいです。自分がいつもしてもらっている事を、今度はお母様にしてくれたり。。。。お箸を取って「あい!」ってしてくれたり。手を洗う傍でタオルを持って来てくれたり、洗濯物を畳む横でお手伝いしてくれたり 楽しみですね。先輩ママ友さんの子はすごく笑います。お母さんがよく笑いかけたり話しかけたりしているそうで。私は母親として、心から笑いかける自信がなかったので不安になっていたんです。でももしかしたら杞憂だったかなと思えるようになってきました。ちょっと昔の引き出しから一人で余計な荷物を引っ張り出して「どこにしまおうか」と困っていただけだったかな、と。強がって、悩み隠して、頼っていい人(主人)の存在を、信じられなかったし意識の中で疎かにしていました。 苦しい本心を惨めだなんて思ってちゃいつまでも言えないですし、プライド捨てなきゃ、だめですね。 自分が病気で弱いと見下げらそうでイヤだっていうのはかなりありました。 相手から気付いて聞いてほしいっていう思いがずっとありました。でも言わなきゃ全然伝わらないみたいです。だからプライド克服しないときっとずっと繰り返しなのです…(話がずいぶんそれてしまいました) >「良いように解釈」 そうですね。本心を追求したり裏読みするよりも大事なことかもしれませんね。 >不機嫌な顔より「笑顔」の方が見ていて気持ちよいですし。 「最初の動機」には、これで「充分」だと思っています わかりました!ビデオとかで自分や家族が笑ってるのを見るとほっとしますし。ちゃんと笑えてるじゃない、って。いい循環になる<笑顔>を増やしていきたいと思います!
- magga
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僕なりに思ったところを書いてみますね。 <<(無宗教になってから、)初対面の人・義理での付き合いの人や、赤の他人(冷たい表現かもしれませんが)で困っている人に親切にしたいという気持ちはあまりなくなってしまいました。>> 慈悲の冥想はオススメです。人間は多く抱いた感情や思念に心が傾きやすい性質があると思いますから、慈悲の念を多く抱くと徐々に心が広くなっていくと思いますよ。 僕自身今まであれだけ苦手だった、ゴキブリや虫などとはもう友達の如くですからw 蚊も「殺す」と言う選択肢が出てこないようになって来ました。 <<他人に親切を心掛けていらっしゃる方は、宗教的な心を持つ方が多いのでしょうか?無宗教で、他人にも親切をモットーにされている方はいらっしゃいますか?その方は、そのようにするようになった経緯を教えてください。>>> 有る意味無宗教ですw仏教(パーリ語三蔵のゴータマさんの教えたこと)を学んでいますが、その中身は反宗教的な面が強いように感じます。 この中で人に親切にしたり怒らなかったりすることが、いかに自分を守ることになり他人を守る事になるのか、論理的に道徳的に納得したからでしょうかね。厳密にみっちり語られてますから。 物事を理性に落とし込んで、自分なり検証実験を繰り返すうちにどんどん納得がいくと思います。 <<この質問の意図は、<結局、親切心は利己心や自己満足と密接にかかわっているのだろうか?純粋な親切心というのはあるのか、あるならどうやって生み出せるのか?>ということを知りたいからです。(感情よりも理性に基づいた社会学のようなイメージです。)>> 自己の満足充実感や納得は最初は大きいものでしょうね。しかし繰り返すうちに心に変容を生無と思います。 自己の理性による納得や慈悲の冥想や思念を多く抱くように修習すれば徐々に純粋な慈悲喜捨になっていくように感じます。 <<また、他人(身内や友人以外)に親切にするのは人間だけなのだろうか?ともふと思いました。動物は、家族や群れでは助け合いますがあくまでも身内同士での共生だと思うからです。>> 虫なども慈心を抱く人には迷惑にならないように考えてくれるように思いますよ。いろいろ実験してみてください。 <<身内や親しい仲間以外には手を差し伸べないのは、動物レベルなのでしょうか?>> 自分にとって必要な人、自分が執着を持っている人、自分に慈心を持ってせっする人などに対して、手を差し伸べるのは動物として最低限のマナーでしょうね。 人間はさらにもっと広げられると思います。私の嫌いな人も私を嫌っている人にも皆に慈しみの念を持つことが可能と考えます。 <<「見境無しに手を広げ差し伸べつづけていくと、手一杯になり、いずれ、本当に身近で助けるべき人や、自分が困っているときに気付けなかったり、気付いていても助けられなくなる」これが、最初私がクールになり始めたきっかけです。>> しかし忘れてはいけないのが、生命にとって一番大事なのは自分自身という事実です。その事実を忘れないがしろにしてしまえば、いずれ歪が出てきます。 私の幸せを願う心は根底にあるべきだと思います。 「私」という実感があるうちは。 <<年月が流れ、自分に余力があっても、自分から人を意識的に助けに行くことはなくなりました。ボランティアをしたいとか思わなくなりました。ずいぶんと器が小さくなってしまったのでしょうか。それとも、見知らぬ土地へ嫁ぎ家族を第一に守らないと、と意識するようになったからかもしれません。>> 両方あるかもしれませんね。 慈悲の冥想や理性での納得。布施行為(能力財力の布施)の習慣性。(小銭の募金でも何でも)徐々にその行為に満足し喜んで捨てられるように、簡単に捨てられたり実行できることから意識的に行なっていく事で出来るようになると思いますよ。 家族に対する行為も意識的にいつもやらないこと一つやってみるとかゲーム感覚でやってみてください。ちょっと優しい言葉をかけてみるとか怒らないように工夫してみるとかねw <<宗教がないと親切にできないのかな?と思うとちょっと悲しいです。子どもには、「親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。>> 自分で得たもの「育てた能力や財産」の中から、仕事(能力や財産を元手に皆に役に立つように何らかの物やサービスを与えること)をして得たお金を、「生きていくお金、自分や家族が楽しむためのお金、皆で分け合う分、貯めておく分」と振り分けて堅実にミツバチの如く少しずつ花の役に立ちながら(受粉など自分の能力を与える)花粉(対価)を頂きその対価なかから少しずつ、蟻塚の如くためていく。このようにすれば、まぁ、幸福になると思います。 お金の管理法から使い方、得方、貯め方。皆、お釈迦様の推奨する方法です。 だから子供達は能力を高めて(勉強をして)社会や自然から得た恩恵を返すように、皆に役に立つようにならなければ幸福になれません。 行儀やマナーなども回りに嫌な思いをさせない能力ですし、楽しく会話することも能力です。 役に立つ能力が有ると皆が集まってきますし、協力してくれますもんね。 その中にも稀に善友がいるでしょうからそのような人は特に大事にしなければなりませんね。 善友悪友も見抜いて付き合い方を変えなければ自分の幸福も危ないですから注意が必要です。そこらについては「ブッダの青年への教え」というパーリ語経典の翻訳解説の書籍に詳しく載ってますよ。 お役に立てば幸いです
お礼
>蚊も「殺す」と言う選択肢が出てこないようになって来ました。 そこまでの慈悲に達せたら素晴らしいですね! 私は今朝早速虫を潰そうとしてました>< >この中で人に親切にしたり怒らなかったりすることが、いかに自分を守ることになり他人を守る事になるのか、論理的に道徳的に納得したからでしょうかね。 感情が落ち着いてきているので、冷静にイメージしていこうと思います。 >自己の満足充実感や納得は最初は大きいものでしょうね。しかし繰り返すうちに心に変容を生むと思います。 最初はそこからですね。前向きにスタートしていきたいと思います! >私の嫌いな人も私を嫌っている人にも皆に慈しみの念を持つことが可能と考えます。 平等なんですね! >私の幸せを願う心は根底にあるべきだと思います。 簡単に捨てられたり実行できることから意識的に行なっていく事で出来るようになると思いますよ。 はい。まずは赤ちゃんを「人間」として尊重するところから心掛けたいと思います。昨夜主人と話していて反省しました。「私が家に一人でいる時間…」と話していて、赤ちゃんをカウントしていないことに気付いたからです。心が通い合う人間として見れば私自身も楽しくなりますから、必要最低限の世話だけでなく数分、十数分でもスキンシップの時間をもつようにしていこうと思っています。 >だから子供達は能力を高めて(勉強をして)社会や自然から得た恩恵を返すように、皆に役に立つようにならなければ幸福になれません。 >行儀やマナーなども回りに嫌な思いをさせない能力ですし、楽しく会話することも能力です。 そうですね。積極的にすべきことと、してはいけないこととを教えていきたいと思います。親自身手本になれるよう、話し合いながら心掛けていきたいです。 >善友悪友も見抜いて付き合い方を変えなければ自分の幸福も危ないですから注意が必要です。 今私の周りにいる人たちはよい友が中心だと思いますが、付き合い方というのはまだ模索中です。ご紹介いただきありがとうございます。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
[[親切にするのはよいことだ」と納得したうえで人に親切にできる人間に育ってほしいと思うのですが、宗教ぬきでどのように教えたらよいでしょうか。] 親切にもいろんな段階があるのですね。いろんな段階の根本は福を分け与えるということですね。その心は自分が幸せで自分と同じように相手によくなって欲しい、多くの人に幸せになって欲しいという思いを持つかどうかなのです。ここに智慧がいるのですね。智慧の無い親切は相手を不幸にすることがあるんですね。だから宗教的慈悲心だけでは親切にならないんですね。 むかし、讃岐の国では旱魃で稲作ができず農家は娘を売らなければいけないような状況があったんですね。一時的な親切で食べ物を恵んでも状況は一向にかわらずですね。空海というお坊さんは、村人を集めて来年の稲作はあきらめなさい、みんなでダムを作れば未来永劫助かると説いたのですね。目先のことを考えた人は離反し、未来にかけた人は賛同して満濃の池というダムを完成させたんですね。それから1200年、今もダムは使われています。この例を挙げるのは、智慧がないと多くの人は助けられないということなんですね。(このときの空海さんは宗教家ではなく土木屋さんですね) 会社を創造して社員を幸福にするのも立派な親切なんです。そのために小さな親切を切り捨てるということもあるわけです。本人がどれほどの親切を目指すかによって親切の段階もかわるということでしょう。迷いも生じるんですが。そのときいつも誰かがみていると思えるかが「信仰」でしょうね。
お礼
>親切にもいろんな段階があるのですね。いろんな段階の根本は福を分け与えるということですね。その心は自分が幸せで自分と同じように相手によくなって欲しい、多くの人に幸せになって欲しいという思いを持つかどうかなのです。 自分が持っているものから分け与えるので、まず自分が持ってないとできないですよね。幸せになるよう、コミュニケーションや思考回路など改善努力していきますね。(昨夜主人に悩み話せました。話さないとわからないから話してほしいといわれました。) >会社を創造して社員を幸福にするのも立派な親切なんです。そのために小さな親切を切り捨てるということもあるわけです。 自分なりの、身の丈にあった優しさの形を持って生きていきたいと思います。欲張りでも出し惜しみでもなく自分も楽しめる形で。
- MURAI YASUSHI(@yasudeyasu)
- ベストアンサー率43% (2489/5722)
無宗教ですけど、人には親切にするようにしてます。 スタートは女の子によく見られたいというところから始まって 特定の人にだけ親切にするとスケベ心を見抜かれますから みんなに平等に親切にするようになります。 そうするうちに周りからも評価され、あの人はいい人だね、という評判が出てきました。 自然とそれが自分の中で気持ちよくなってきた、ということがあります。 もちろん「親切にすること=いいこと」という価値観を持っている人たちと巡り合えた、という幸運があったので自分だけの力とは思っていません。 「利害関係のない人に親切にすること=偽善者」という人たちも今の世の中には多いです。(特に東京) 利益団体がバックについていることがわかっていますので募金はしません。 電車でお年寄が経っていたら、置いた祖母や母のことを思い出して席を譲ります。 道に迷っている人がいたら「何かお困りですか?」と声をかけます。 自分もよく道に迷い不安な思いをすることがあるからです。 この辺は想像力の問題ですね。 想像力を養う為の、お子様の情操教育には本をオススメします。 周りの人の影響というのは大きいです。親がタバコを吸っていれば子供も真似しますし 親がお年寄りに席を譲っていれば、子供も譲るようになります。 今の若い親は電車で空席があると子供を率先して座らせる。 これは良くないと思います。 抱っこが必要な乳児ならまだしも、自分の足で立てる小学生をですからね。 >「見境無しに手を広げ差し伸べつづけていくと、手一杯になり、いずれ、本当に身近で助けるべき人や、自分が困っているときに気付けなかったり、気付いていても助けられなくなる」 >これが、最初私がクールになり始めたきっかけです。 もともと私には手一杯になるほどの友人はおりませんので、私にとっては上の内容は杞憂にすぎません。 手一杯になったらなったでその時考えます。 最悪の事態を恐れて何も行動に移さないのは愚だと感じます。 親と、何人かの友人とずっと一緒に歩いていければそれで満足です。 いささか自分に酔った文章になりましたが、なにかの参考になれば幸いです。
お礼
>スタートは~ みんなに平等に親切にするようになります 私も、子どもにはモテる女性(男性)になってほしいな、と思います。やはり内面大切ですからね…きっかけは何でも良いのかもしれませんね。 >「親切にすること=いいこと」という価値観を持っている人たちと巡り合えた、という幸運があったので自分だけの力とは思っていません。 「利害関係のない人に親切にすること=偽善者」という人たちも今の世の中には多いです。(特に東京) 環境は本当に大事だと思います。体で覚えるというか…。 損得勘定が思考に染み付いてしまうと、同じ基準で他人を見てしまって相手の動機を疑ってしまうことが私もあります。 >祖母や母のことを思い出して席を譲ります。 ~この辺は想像力の問題ですね。 共感能力と親切は比例するのかもしれませんね きっと私はまず旦那や子どもとの共感が不足していたのだと思います 性格は違うけれどもやはり重なり合うポイントはあるはずですよね(反省) >想像力を養う為の、お子様の情操教育には本をオススメします。 はい。思いやりを育むお話を自分のためにも一緒に読んでいきたいです。 >手一杯になったらなったでその時考えます。 実際にそうなってしまって…疲れて、地元に人間関係を置き去りにしてきました。 今でも連絡は取り合いますがちょうどいい距離といった感じです。 使い捨ての人間関係になっては悲しいかな、と思います。 ご回答、感謝します!
- suswm
- ベストアンサー率10% (14/130)
少し難しく考え過ぎなのではないですか? 自分が無理な時は無理だし、 余裕があって、助けられる時は助ける。 それは他人だろうが親族だろうが 程度の大きさはあれど、 同じだと思います。 私は未だかつて利己的や宗教的に人助けした事はありません。
お礼
そうですね。 時と場合により対応を選ぶというのは、矛盾と唱えるほどではないですよね… 少し極端な考え方をしていたようです。 (助けるなら助ける、助けないなら助けない と一律にしてしまうような。なので部分的に助けることは偽善だ、のような。) 無意識に動けることが純粋なのかもしれませんね。 こうと頭で決めずに、自然でありたいと思います。 ご回答感謝します。
- indoken
- ベストアンサー率37% (173/457)
恥ずかしながら、親切を心がけています。 自称 仏教徒ですが、世間的にな意味ではむしろ無宗教でしょう。 (仏像や経を唱えることなどは宗教的に無価値だと思っている) さて、なぜ親切を心がけるか ですが、それは「社会は実は親切で成り立っている」と考えているからです。 「この世は金だ」とか、「競争社会」とか、様々に言いますが、その根本に人助けというか親切というか、そういうものがあって初めて「金と競争だらけの世の中」が成り立っている ということを良く見る必要があると思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 >根本に人助けというか親切というか、そういうものがあって初めて「金と競争だらけの世の中」が成り立っている ということを良く見る必要があると思います。 たしかに子どもも生まれたときから救急士さんや病院の先生、看護婦さん‥たくさんの方々にお世話になっています。そこでできたお友達も親切な方たちです。 これから家庭で守り育てていき、保育園や学校でもお世話になり…社会に入って行けるように助けられて生きているんですね。 社会福祉も社会的に苦しい人たちをサポートしていますしね…。 本来冷たい社会だと思うがために助け合いに戸惑うよりも、本来世の中は助け合う共同体なのだ、と思って生活すればそこに生きている者として助け合うのが自然体になるのかもしれませんね…。実際親切な人に多くめぐり合っているということをもっと認識しなければと気付かされました。自分もそこに自然に帰属意識をもてたらよいのだとわかりました。 人の優しさを斜に構えて捉えていたかもしれません。素直に物事を見られるように心掛けたいと思います。
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お礼
ありがとうございます。自然に涙が出てきて、頭を締め付けていた何かがほぐされていくように気持ちが楽になりました。 逆戻りしないうちに、これまでアドバイスいただいたことを少しずつ心掛けてみます。 欲張りなのでまた質問を載せるかもしれませんが… 自分は病気なんだと思って医者にかからないとだめかなとか、かかっても治るのは無理かなと思っていたところでした。少し希望が見えてきました。感謝いたします。