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障害者に同情して親切にすることについて
障害やハンディキャップを持つ人たちはかわいそうでしょうか。 障害やハンディキャップを持つ方々は、それぞれの障害を受け入れて前向きに明るく生きていこうとしている方々がほとんどだと思います。こうして前向きに生きていこうとしている人に対しては、同情するのではなく健常者と同様に接するべきではないでしょうか。もちろん困っているのであれば手助けしなければなりませんが、それは同情心や親切心からではなく、健常者の義務としてです。 障害やハンディキャップを持つ方々に同情して親切にする人は、自分自身を善人であると思い込んでいるのでしょうが、心の奥底では、同情することで健常である自分に優越感を感じたい、五体満足である自分の幸せを再認識したい、と意識の外で思っているのではないかと思います。 こういうのを偽善者というのではないでしょうか。 と私は思うのですが、 皆さんは、障害者に同情することについて、どう思いますか?
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質問者が選んだベストアンサー
同情は不要と考えます。 困っていたら手を貸すけど 自分で対処しようとしていたら 基本手は出さない 協力求められたら可能な限り助けます。 そうやって20年以上付き合っている障害のある友人が 数人います。 年一回程度集まって飲みますけど 気を使うのは特にありません ただイス席を予約する位かな
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私は同情でも偽善でもいい、と思います。 ある行為、障害者を助ける行為をするときに、それが同情であっても、偽善であっても、行為そのものに変わりはない、と思います。 同情か偽善か、なんてことは、行為には表れませんし。 そして、そういう気持ちで健常者がその行為をしているのか、なんて 障害者が考えたり、気にする必要もないことだと思います。 そういう行為を受けて、障害者が必要以上に卑屈になる必要も全然ない、と思います。 また、健常者には、どこまでその行為が必要なのか判断がつきかねることがあるので、その行為が不要なのであれば、その時は、そう言ってもらえればいい、と思います。 私は、相手が健常者であれ、障害者であれ、何か手助けを必要としていて、私がその手助けをしてあげることができるなら、してあげたい、と思うだけです。 私が、好きくないのは、障害者が「私は障害者なんだから」と自分を卑下したり、逆に自分を必要以上に正当化したりすることです。 なんか、そういうのいやです。 自分がいわゆる「障害者」ではないから、全然障害者の方の気持ちを分かることができないから、そんな風に考えるのかもしれません。 もし、自分が障害者だったら、全く違った考えになるのかも、と思いながら回答させていただきました。
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- dell_OK
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同情する者はすればいいと思う。 ---- 私は同情などしないし、健常者の義務とやらも感じない。 不自由な者を補うのは不自由でない者が補う事ができると言う権利だ。 少なくとも私は偽善者を否定はしない。 それがその人のあり方だ。 私が絶対にやらない事をやってくれているありがたい存在とも言える。 偽善者を偽善者と見るのは、障害者を障害者と見るのと同じ事。 違うものを違うと見るのなら、すべてをそうし、 違うものを同じと見るのなら、すべてをそうすべきだろう。
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- goook
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>何を腹立たしく思っているのかよく分かりません。 >手助けすることを否定した覚えはありませんが。 自身が正論を述べている。共感を持ってくれる同類を求めているだけのアンケートだから分からないのは当たり前でとは思います。 「それは同情心や親切心からではなく、健常者の義務としてです。」 健常者だと障害者だのって関係ないと思います。 困っている人、辛そうな人が居たら自分の出来る範囲でサポートしてあげるのは人間の度量だと思います。 貴方の義務が何かは分かりませんが最後まで回答内容に目を通して、逃げずに締め切ってくださいね。 最後に私は障害者だからって線引きをした事はないです。 困っているか困ってないか、辛いか辛くないかで動きます。 重い物を運ぶのに特別扱いしないで運ばせるより自ら運ぶ。 運んであげるのではなく、自然の流れで運べば相手も恐縮もしない。 「大変だから運んであげるよ」って言葉は鼻につくかも知れない。 ついでがあるから運んでおくって無言の行動で運べばそれで良い。 鼻につく言葉を言って動く人間より、特別扱いしないって何もしない人間の方が偽善者だと思います。 (まぁ偽でも善者ではありませんが・・・) 質問者様は若いのかな? それなら成長過程なので仕方ありません。 いい大人なら心が貧しいと思います。
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- stkc
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NO.30です。 書き忘れましたが、先の回答はほとんどの障害者はそうだろうというのではなく、単なる私個人の考えです。 それから質問です。 「義務」でないと「かわいそうでない」障害者や「同情出来ない」障害者は手助けしなくて良い事になってしまうからとありますが かわいそうかそうでないかはどうやって見分けるのですか? 健常者から同情してもらうために媚びへつらわなければならなくなるからですとありますが 「媚びへつらう」とは具体的にどのようにするのか教えてください。 質問は以上の2点です。 質問者さまの考えだと人間の感情はいつも一定なのでしょうか? 先の回答と矛盾しますが、私は同情されてうれしい時もありますけど、苦痛な時もあります(でも嫌だと思うことはありません)、前向きになる時もありますけど、落ち込む事もあります。 親切な時もあれば意地悪な時もあります(よくないけど)。 健常者、障害者に関係なく「かわいそうな人」「明るく前向きな人」の様に一言で言い表す事ができる薄っぺらい人間は居ないと思います。
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- stkc
- ベストアンサー率37% (169/448)
はじめまして。障害者です。 初め読んでちょっと心がざわざわしてどう回答したらいいのか?と思いました。 でも、NO.21さんの回答を読んでなるほどそういう事かな?と思ったら少し心が落ち着きました。 「同情」。他の回答からコピーさせて頂きますが 「他人の苦しみ・悲しみ・不幸などを同じように感じ、思いやり・いたわりの心をもつこと。かわいそうに思うこと。」 障害者に限らず、お年寄りの方、赤ちゃんを抱いて且つ大荷物の方、そういった方をみて大変そうだなと同情する事に何の問題があるのでしょう? 大変そうだな~と他人を自分の事のように共感して思いやる、とても貴い感情だと思います。 人の心の奥底は確かにその本人にもわかりませんが、同じく質問者さまだって他人の心の奥底はわからないのです。 誰にもわかり得ない事(心の奥底)や本人の意識の外の事をあーだこーだ考える事がそんなに重要でしょうか? それに五体満足で幸せだな~と思うのは至極当然な気持ちだと思います。 ちっとも悪くない。 私はこうなった(障害)のが姉や旦那さんや友達や知り合いでなくて良かったと思ってます(あ、知らない人も含めましょう。あ、これは偽善ですね)。 かわいそうでしょうか。 私は自分をかわいそうだと思っています。 それにこれが他人だったらやっぱりかわいそうにと思います。 とても親しい友人が事情を話した途端泣き出しました。私も泣きました。ちっともイヤじゃなかったです。 おととしの暮れに障害者になったのですが去年の記憶がほとんど無いんです。一年分。 それでも出来るだけ普通にしてます。周囲の人には出来るだけ明るく振舞っています。 障害者のブログなどでも泣き言を見る事はほとんどないですね。 質問者さまには障害者の知り合いの方はいらっしゃるのですか? >受け入れて前向きに明るく生きていこうとしている~ 受け入れる受け入れないとかじゃなく身体がそういう状況である。ただそれだけです。受け入れたくなくても他に選択肢がありません。 病院から退院する時、看護師さんに「○○さん(私)はよく頑張ったねぇ」と言った後に言い直されました「いや、頑張ったんじゃなくてよく耐えたよね」と。その言葉はとても心にしみました。他人に同情できるからこそ出た言葉だと思います。 ごめんなさい。「前向きに明るく~」別に悪く書かれた訳ではないのに。 できるならば質問者さまには「同情」や「親切」についてもっと深く考えて欲しいと思います(一面だけしか見てない気がしますので)。 義務感、無感情で行動するのは構いませんがそれなら「愛想笑い」も要らないです(すみません、愛想笑いの部分はムッとしました)。
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- v008
- ベストアンサー率27% (306/1103)
まず最初に、人間の尊厳の問題。 次に、物理的に援助が必要なこと。 そして、周囲の人間が傷付く現実。 逆に援助や周囲の自己実現があること。 そして、科学的な障害に対する理解と 法的な人権が認められていること。 個々に求められる義務だとは思いません。 社会として支える義務があるのだと思います。 そこには、真摯に向き合う専門の研究が必要ですし 公的な取り組みは必要不可欠です。 障害者に同情するのは人間として当然です。 しかし支える為には障害への理解が無ければ無理です。 本人たちがいかにむごいと思う援助も受け入れなければいけないか? 等の問題を上げておられるのであれば、同情する人への非難は当たらないと思います。そういった人たちの尊厳をどうやって守るかと言った社会的マナーとルールの問題となるし、症状によってそれは変わってきます。 親切にすること自体に感謝することはあっても非難するべき要素はないが、圧倒的な弱者に対する故意や過失によるハラスメントがないとは思いませんし、おっしゃる優越感の為の偽善的要素が問題になることも中にはあるのかもしれませんが、同情するのは人の勝手だと思います。
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例えば、障害のある方に勝手に手をかして、よけいなことをするなと怒られて、「親切にしたのに、何よ」と怒るのは、健常者の傲りがあると思います。 手をかして、健常者の人が気分がいいだけだと。 そこで怒らず、また行動できる人は善意だと思います。 また障害のある方が、なんとか段差を乗り越えようとしている、それをイライラせずに待ってられるのも善意かと。 健常者と対等と思うのであれば、早い遅いの個人差くらいの気持ちで。 困っているのか、困っていないかの見極めは、相手に聞くか、状態を見ればわかります。
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- LoneWolf-3
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私は手助けする側の感情次第だと思います あの人は障害者だからという感情があるのであれば それは、すべて同情になり 健常者、障害者という隔たりがなければ同情ではないと思います それに健常者の義務ってのも変です 義務=障害者を手助けすることですか? これこそ障害者を特別視して同情していることになるのでは?
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善人って思ってする事は殆どないですね。 ぐずる赤ちゃんを抱いてバギーを押してるようなお母さんを 見れば私は手を出したくなりますから、別にそれが健常者 同士でも困っていればお互い様だと思います。 喜んでくれた顔を見れれば嬉しいだけの事です。 それは相手がハンディキャップを持っていても同じです。 困っている形が違うだけですよね? ただ、精神面の事までは正直考えないですね。 席を譲られて怒るお年寄りの気持ち、障害者扱いされて 不満に感じる気持ち・・そこまで考えて行動は出来ません。 考える前にあらら大変!と勝手に動いちゃいますから。 相手が不快に感じたなら邪魔して悪かったな~と離れるだけです。 障害者であれ健常者であれ人に同情することは義務だとは 思いませんし、分類する事でもないと思います。
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ふむふむ。とあえてこの時間まで書き込みを控えて(珍しく)傍観させていただいていました。 障害者です。ヽ(^o^)丿 まぁ、足が1本無くて右手の指の数本に神経が通ってないところがある程度の軽い理由ではありますが役所から障害者手帳を貰っているので一応、障害者だと名乗っても差し障りは無いと判断しました。 (ご質問者さんが「その程度じゃなぁ~」と思われるのは当然自由だと思います。) >障害を受け入れて いやいや、事故から20年ほど経ちますが未練たらたらです。 >前向きに明るく生きていこうとしている方々がほとんど 障害者の組織に属していますのでご質問者さんより多くの障害者の方々を知っていると思いますが、この比率は健常者の方々と似たようなものです。 そんなに特殊な青春ドラマに登場するような人物設定を勝手に押し付けられるのは嫌ですし迷惑です。 >健常者と同様に接するべきではないでしょうか 気づかない(知らない)なら仕方ありませんが、そうでないなら同様にされる方とは付き合いません。 (ご迷惑でしょうから。こちらが引きます。) 長い付き合いで一緒に歩いていて歩行者用信号が点滅を始め、周りが駆け足で渡る中、足を止めてくれる友人にはその都度、心の中で「ありがとう」とお礼を言います。 「特別視しない」と断言する家族、友人達ほど細かいところで心を配ってくださる方が多いと感じています。 (先のご回答者さんの中にもそのような方がおられましたね。) ご質問者さんの仰るところのソレとは全く異なるものです。 >健常者の義務としてです。 ほほぉう、凄い上から目線。 (障害者全体に喧嘩売っているようにも取れます。) 「義務だからしてやるよ」 「俺に触るな、健常者!!」 (-_-メ)と私のような短気者はキレそうです。 幸いご質問者さんのような方に今までお会いしていませんが。 障害者は他人を助ける事は無いというおかしな前提ができていますね。 私は立っているだけなら見た目は十分健常者で通るので乗り物の優先座席には座りません。 (義足の中が靴擦れ状態で皮膚が剥けて内カップに血が溜まるようなことが月に2回くらい有り、正直言って座りたいですが。) また、自分が座っているときに妊娠されている方、ご高齢の方、自分より障害が重そうな方がいれば席を譲ります。 何かあった時に私の方が被害を最小限に抑える術を持っていると判断するわけですが、これも優越感でしょうか。 四体満足な自分の幸せの再確認行為と言いますか。 普通の人間なら誰でもできるその場での現状確認、分析、行動という一連の流れとしか思いません。 ご質問者さんのような他人の頭の中まで(「意識の外で思っている」ってソレは「思ってない」だと私の日本語能力では解釈してしまいます。)断定して偽善者(悪)扱いはあまりにも偏った考え方ではないでしょうか。 私が十数年前、出先のタクシーも通らないような住宅地を歩いていて義足が壊れた事があります。 片足で行けるほど駅も大通りも近くは無い。 当時は携帯電話は今ほど普及しておらず私も持っていませんでした。 自分がそうだからと他人が救ってくれるわけも無い等と勝手に他人を善でないと決め付けて途方にくれて道端に座り込んでいた私がいました。 最初に声をかけてくださったのは散歩中らしいご高齢の女性。 一応、状況を説明しましたが大柄の私をどうにか出来そうにはとても思えず立ち去っていくのを「当然。」と思いながら見送りました。 ところが数分後、娘さん(?)を連れて戻ってきてくださり、何故か手にはアロンアルファが。(笑) 再び娘さんが立ち去って最初の女性と世間話などしていると今度はネクタイを締めた男性(娘さんの配偶者?)が車で登場。 時間的にも服装も「仕事中なのでは?」と感じ、確認しようとしても「いいから、いいから、困ってるなら早く乗って。」と車に乗せられたので「甘えます。駅か大通りまで。」と言ったのですが「あそこの親父は何でも直せる。」と連れて行かれたのは小さなバイク屋さんでした。 そこの経営者(?)は壊れた部品だけ見てから私に義足を外させて店の奥に。 そして、10分ほど後には歩ける状態になった義足を持って出てきてくださりました。 当然、きちんとお礼を伝えた上で何度も正当な報酬を要求して欲しい旨を伝えましたが「バイク屋だから義足じゃ金をもらえない」、「医者じゃないのに金を取ったら逮捕される」、挙句の果てには「仕事の邪魔だ」と怒らせてしまったのでお礼だけを重ねて、連れてきてくださった方々のお礼のための連絡先だけ聞いて帰りました。 この時に私に関わってくださった方々の中の優越感?同情?憐憫?偽善? そんなものに分析しようとする自らの行為自体を恥ずかしいという感覚を持てない方に私は同情します。 ご質問者さんにとって私は同情するに値しない身体障害者であるとも理解しています。 ご理解いただけているとは思っていますが、この回答はあくまで私という限定された障害者の個人的意見であるという事も誤解無きようお願いいたします。
お礼
ありがとうございます!
お礼
ありがとうございます!