• 締切済み

ポルノで心が傷つく人はいますか?

児童ポルノは 子供たちを巻き込むこと自体が間違い、あるいは悪なのでこの質問の対象のポルノではありません。児童ポルノは 問題外と言っておきます。 私の場合は たまたまポルノ映写技師に友達がいたため、20年ほど前のことですが、たくさんのポルノ映画を見ました。 その頃のポルノ映画は、ほとんどすべてがともかく駄作でした。 今は見ていませんが、今もほとんど変わらないようです。 通常は量は質的転換を生み、 これだけの量の中に、質的に深いものが生まれないということはあまり考えられないことなのですが、  これは「中抜き」とかいう男性の射精の欲望とマッチングしたビジネスになってしまっていて そこから脱却できていないせいのようです。 駄作というよりも、 すくなくとも私の見た映画は ひどいものでした。セックスや快楽の冒涜という感じでした。 一つだけ ヘンタイとも言われてる分野の縄縛りの映画で 悪くないのがあり、いつかはちゃんと質の深い映画ができてくるのかなという期待は持ってました。 ロマンポルノは、生活描写をともないドラマがあるということで、一見すこしはましのような考えの人もいるかもしれませんが、 私の見た限りにおいては、実際の生活のドラマがあるぶん、これを性の世界と思わせてしまう危険はさらに強いかと思いました。  私の感覚から言えば“よけいに駄作”ということになってしまいます。 たしかに ひどい作品が多い世界でもあるのです。 そう思っています。 また、まだ実際の体での体験で感じることのできる年齢になっていない子供たちにとっては、 私の見た限りのたった一点のなんとか見られる映画も結局は 若い人にはとくに解かりにくい縄縛りの描写です。 もちろん、今のポルノ映画を実際見ていないのでなんとも言えないところはあるのですが、 いまなら、はるかに進歩した映画も隠れて存在していたりするのかもしれませんが、  大筋が「中抜き」ビジネスのままならば、 という推理と 他のいくつかの推理から、今も 深い地点での進歩はないものと一応は考えてしまっています。 その大筋のポルノ観にてのことなのですが、 しかして、それを見ることで 私は私の心が傷ついて体験はありません? よくポルノを非難する人の中に、 3度ポルノ映画を見ると、一回レイプされたとおなじぐらい心が傷つくという人がいます。 本当でしょうか? そのへんが知りたくて質問してみました。 このポルノの質的浅すぎの問題は、 それを子供たちに見ないように禁止しても 現代では、むしろ禁止自体が大人の隠し事として子供の心の奥を傷つけてしまう問題でもあるところです。 ここでは ではどうしたら質の深い裸体藝術としてのセックス描写が可能かという問題の前に、 ポルノがなぜ、 反対論者の言うようにそれほど心を傷つけてしまうのか? あるいはそう思えるのか? そのへんを知りたくての質問なのですが、 実は この問題は 五感の花を開く力として、あるいは幸せの極地とつながっている力としてのセックスという、 おそらくこれからの哲学と関る問題との関りもあるかと思い、  この哲学カテにも質問させていただきました。

みんなの回答

  • kigurumi
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回答No.4

娼婦を何人も殺していた人がつかまり、「だってそう教わってきたから」と殺害理由を答えた。 娼婦は存在悪というわけです。 キリスト教では、女性は悪魔、存在悪だとしています。 聖書でも魔女は生かしておいてはならないとしている。 聖職者は女性を見ただけで、息子が勃起する理由を、魔女が動かしていると思っていた。 だから、発情したのは女性をみて性的欲望を自分が起こしたと認めず、女性のせいにしてきた。 そういう教育を受けて育った人は、必然的に娼婦を存在悪だと捉える人格になりやすい。 ところが、単に殺害するだけではなく、殺害する前に普通に買った娼婦と性交している。 その後 しばりあげて拷問をして殺している。 結局 性のゆがみだと思えるんですね。 女性と性交したいくて拒否しない娼婦を誘い、性交を楽しんだ後、教え込まれた倫理感により、自分のやった行為に罪悪感を持ち、その原因を娼婦になすりつけ、自分を汚したとして、拷問して殺害したと思える。 人は生まれたとき モラルなど持っていない。 育った環境が持つモラルを刷り込まれる。 歪んだ思想が何千年も長年取り消されず続いたため、この男をついに連続殺人鬼にしてしまった。 古代、神殿娼婦という職業があったようなんですね。 いわゆる神託を人に伝える巫女的な職業でしょうか。 その人は地上の王に神託を与え、人々を支配する権限を与え、子供を与えていた。 古代エジプトでも中東でも、相続権は女性にあった。 その大きな相続権を持った女性は、新しい王を任命し、支配する地位を与え、持っている財産もその男の繁栄のために使った。 神と人間の仲介者的な職業だった。 中世の日本でも、そういう人がいた。 ところがそういう制度が崩れていき、王は自分の力がすごいから支配権を手に入れ、人民を支配していると思うようになったのではないか と。 ダビデもそうで、まるで自分だけでやったかのように浮かれて裸踊りをしていため、妻は冷たい視線で見ている描写が聖書にはある。 聖書には、神殿娼婦がこの民族のリーダーを助けている描写があるが、神殿娼婦が選んだ王という描写だと思える。 神殿娼婦が王に選び、祝福を与えていた時代があったが、だんだん崩れていった。 聖書にも聖婚のすばらしさが描かれているが、この意味を理解する人は現代では少ないのではないか と。 当然 女性は悪魔だとする宗教団体において、正確にはこの部分は説明されていないのではないか と。 アメリカでは、ポルノ映画は、男優も女優も笑顔で演じなければならないという規制がある。 両者 ハッピーという映像にしなければならない。 悪いことだという印象を与えて、歪んだ人格を形成し、女性殺害をする男に育たないように努力しているんですね。 女性を殺す理由を「女性は悪だから、社会はそう自分に教えてきたじゃないか」というキリスト教徒があまりにも多いから、なんとかし歪んだ人格が育たないように規制が敷かれたのではないかと。 キリスト教は殺人を禁止しているではないか? ええ、でも 聖書では「魔女は生かしておいてはならない」としているんです。 ペニスが勃起=魔女の仕業。 そう聖職者は信者に教えてきたから、信者はそういう考えになりがちになる。 ところが、日本には出演者は男女とも笑顔で という規制が無い。 日本ではとくに獲物を捕獲して、痛めつけるポルノなどが製作され、しかも虐待される女優は、悶絶しながら快楽を感じているという描写になっている。 マゾ的な演技なわけです。 その方が消費者は喜ぶからそういう映像が盛んに作られる。 ニーズに添って作られるわけですね。 実際 女性は喜ぶか? 女優はカットとなると、途端に痛めつけられた部分を押さえしゃがみこんで苦痛の表情でいた。 「ひどい・・・」と言っていた。 大金もらわないと とてもじゃないが演技できない体を張った仕事ですね。 喜んでいるなど虚像なわけですが、その虚像を視聴者は見て、女性は殴ると喜ぶ、縄で縛ると喜ぶ、と勘違いするわけです。 自分ももちろん女性を痛めつけると楽しいと感じ、女性も喜ぶのだから、どこがいけないのだ と。 そういう虚像を真実だと思って見て育つと、人格が歪むわけです。 ところでポルノというのは、男が主な消費者。 男といえばY染色体を持っている。 凶暴なY染色体は、攻撃することを快楽とする。 だから、ポルノは捕獲された女性を獲物として考え、シャチのように捕獲した女性をなぶり痛めつけ楽しむわけです。 暴力が快楽なY染色体。 とても恐ろしい存在なわけです。 mtDNAは、Y染色体を生み出して失敗したと思っているかも。 ところが、mtDNAに比べ作りがシンプルなY染色体は、元気が無くなっていっている。 不能者が増えており、不能の人は、Y染色体の本能をひきだず虐待ポルノを見て、勢いをつけようとしているわけです。 だから、不能者にとって虐待ポルノは効果があるわけです。 ところが虚像の中では女性は男に支配され喜ぶが、リアルの女性は男を選ぶし逃げる。 自由にならない。 それで、リアルでは無理なので、やっぱり虐待ポルノという虚像の世界に逃げ込むわけです。 そういうポルノで育った人は、女性は暴行を加えると喜ぶと思っている。 いきなり相手に変態プレイをして、「素敵」と言われようとして、思いっきり相手にひかれる。 あれ? ポルノ映画では喜ぶはずが・・・・ なわけないです。 いきなり縛られたり手錠されて、喜ぶ女性はいない。 >ポルノがなぜ、 反対論者の言うようにそれほど心を傷つけてしまうのか? 女性を陵辱し見下しているからです。 捕獲した支配する相手としているからです。 対等だと認めないことを高らかに言い放っているからです。 もちろん男女が笑顔で楽しんでいる映像に対しては、夫婦で楽しんでみれるわけで、問題無いと思います。 両親が笑顔でいる家庭と、旦那が妻に暴力を振るい続ける家庭。 どっちが快いものですか? 暴力映像が人を楽しくさせますか? 目を閉じれないないようにして、暴力映像を見せる行為は、虐待だと思いませんか?

arayata333
質問者

お礼

キリスト教が、女性を悪魔と思っていたというのは大げさにも思えますが、たとえば、聖母マリアの処女信仰なんかは その象徴みたいな話ですよね。 その女性が それを知ったらびっくりしてしまうお話でしょうが、 ともかく異常ですよね。 たぶんキリストを生んだような母親は 純粋な心のセックスをヨハネという恋人であり夫である人と交わしてキリストを生んだのでしょうが、 なぜそれが処女となってしまうのか?     女性が悪魔というよりも、セックスが悪魔の技であり、神によって結ばれる中でのセックスのみ悪魔から開放されるみたいなところがあったのでしょうか。 そしてその中でもとくに悪魔ではない女性が        むむ、 ややこしいマリア論になってしまいそうですね^^。 庶民の中の賢い人たちは、 はなからそんなものを馬鹿にしてたでしょうけどね。 聖母を母性としの鏡という信仰を持っている人達もです。(あの、これは聖母信仰は正しいとかいうのではないのですが、  庶民の中でのその文化は感性の面で深いですよ。) * 直接に 質問で求めていたことの答えをいただけ、考えるヒントを最も深くいただけましたので、  これでこの質問は閉じたいと思います。 その意味では ポイントをつけるならば、そちらが20ポイントとなるところですが、  今回は みなさんが それぞれ間接的にですが示唆に富んだご回答をくださり、 みなさんへのお礼という形にするために、 ポイント無し^^にしますね。    ご理解くだされ。 ほんとにいつも ありがとうございます。 みなさまにも、 感謝いたします。 ありがとうございました。

arayata333
質問者

補足

今回もまた的確なご回答をいただきました。  ありがとうございます。 キリストが実在していたとして、聖書の中での山上に垂訓で、自らこのように言われた事が、 後の世界での逆の影響を与えてしまった姿を見たとしたら いったいどう思うのでしょうね。 「あなたたちは歯には歯を と聞かされている。 だが私は言う」という具合に昔の律法に反旗を翻す山上の垂訓の文脈にてすぐ後に「あたなたちは姦通してはならないと聞かされてる。 でも私は言う。 心の中で姦通しても姦通したことになるのだ」 (正確な文ではなくて、記憶をもとに書いてますが、何度も読んだので意味合いは間違ってないと思います。) というくだりなのですが、  たぶんですが、 このあと本当はもしキリストが実在の人物ならば、さらに説明があったと思うのです。 でも たぶんですが、弟子達にはあまりにも理解不能となってしまいどう書いていいかわからなくなってしまった部分なのかとも思えるのです。 ともかく キリスト教徒たちは、これを心の中でも姦通したら罪となるというふうに受け取ったと思われます。  なんで それではキリストもおなじ罪を犯してるという矛盾に気がつかなかったのか? とも思いますが、 それが宗教の盲目性の怖さなのでしょう。 生物としての愛や想像力の中でのその想像と、 生物としての女性蔑視やその想像力の中でのその想像とでは、 まさに善と悪の差があるわけです。 キリストも、もしそれが弟子達のせいでないというのならばなんとも中途半端なところで話をとぎってしまったものですね。 キリスト教では、これがさらに原罪という罪意識ともからみあい、余計にきびしい律法となってしまったのでしょう。 そこからの心の無理による分裂症とかが 普通の宗教以上にそのへんのひずみを作り出してしまったということかと思います。 それにしても>連続殺人鬼<にそれがつながってしまうとは、 キリスト様もびっくりですね。   抑圧ではなくて、文脈からは明らかに性のゆるやかな解放を訴えようとしていたのですからね。 * Y染色体については どこまで科学的な話か^^とも思ってしまいますが、 事態としてそのようなことはあるかと思います。 そしてその裏ずけの一つ、や説明の一つになる話かとは思います。 しかし健全な性では、勃起=悪魔の仕業でもなければ、勃起=攻撃的な心の現われでもないので、 そのへんが曖昧な科学となってしまってることは言えそうです。 * アメリカでの近代演劇の祖と言われているルイ・ストラスバーグは、 キリスト教の中にありながら、 娼婦が子供を抱いている姿から演劇改革の本質を見出したのだそうです。  何か象徴的ですね。 パントマイムという形からの演技の世界も大事にした人です。 セックスの映像ということでは 俳優の質は大きく問われるところですね。 * ヘンタイについては、 性の成熟過程の問題ととらえます。 それがかなりの段階まで尾を引くものであるとはいっても、 同時にそれは通常 時には気がつかないぐらいのうちに通り過ぎてもしまう感覚でもあると思っています。 その意味で個人の趣向ともなりがちな世界ととらえておけば充分な世界です。   ゲイも通過点の問題でもあるのですが、これは別な問題として総合的に考える必要がありヘンタイとは分けて考えています。 このヘンタイの世界までもが、ポルノのニーズマッチング商売の中ではまさに 男女不平等の世界に貫かれているのでしょう。 まともな性描写の世界は まさにこれからの課題ですね。 * 成熟した健全な性の世界は あまりにもすばらしい世界です。 表現者なら表現しないではいられない世界です。  それは偽善や心の傷をどれだけトータルに癒してくれるかを考えるならば、  表現者にとってこの問題は避けて通るべき問題ではありません。 闘いは続けます。     ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.3

 arayata333さん こんばんは。  正直に言って 水を差すような回答になりますが そして No.1の primeape さんのご見解に近いのですが 投稿を控えないほうがよいと考えました。控えれば 対話がとどこおるだけだと思いますから。    性愛論は わたしが書くなら 一行で済みます。  ○ ふたりの自由な合意にもとづく。  ☆ これだけです。というよりも これは むしろ arayata333さんが 普段からおっしゃっているようなことで 人と人の 一対一の人格どうしの自由な交通であるということ 性愛は その人格交通の一環であるということです。  同意のあとは ふたりの自由です。性愛は おこなうことであって 観察することでも 論じることでもないと思っております。そのいとなみは ふたりだけのことです。  だからと言って いまあるいろんな描写や表現について 直接その行為に何か言おうとも思いません。上の総論を つねに 言っているということが わたしの対処の仕方です。  ▲ (旧約聖書・雅歌3:5)~~~~~~~~~~~~  エルサレムの娘たちよ、  わたしは、かもしかと野の雌じかをさして、  あなたがたに誓い、お願いする、  愛のおのずから起こるときまでは、  ことさらに呼び起こすことも、  さますこともしないように。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これで いいと思っています。あとは ふたりにとっての世界です。何とでも 自由に 築き合っていくでしょう。たどたどしくても いいし 失敗ばかりでも いいと考えます。放っといてくれという主張です。こちらも そちらを放っときますからと。  一見すると 問いに対しても 逸れたと見られるかも知れませんが ひとつの見解として 投稿しうると考えました。

arayata333
質問者

お礼

ありがとうございました。 いつもありがとうございます。

arayata333
質問者

補足

旧約聖書も このへん重みと広がりのある常識を語っているのですね。  性愛論に関しては いつもそのへんがbragelone様からは参考になるところです。 >ふたりの自由な合意にもとづく。< という一行も、  同じような重みとひろがりのある観点かと思います。 物事は総合的に考えられるべきところであり、その二つの観点を忘れて姓愛の「今」を問うことは出来ないでしょう。 しかし、問題は 自由で健康な愛情での両親の下にても、この情報化時代には 現今のポルノのような形でセックスが子供たちをへんな形で刺激してしまうところにあります。 それをあえて隠そうとするだけならば、これもまた子供たちに嘘をついてるかのような形ともなってしまいます。心の奥(これこそ大事な観点と思いますが)を傷つけてしまうと思うのです。 ならば、表現者としては 真実の愛情をともなう性の世界をこそ、ポルノの変わりに映像でも絵という手のタッチの絵の世界でも文での説明でも 演劇の深みにてでも、その他あらゆる手段で子供たちの希望の目をつみとらないような性愛表現の世界を  まだ開拓されてないのなら一刻も早く開拓していくべきなのでは、  という観点が私の中では起こってしまうということです。 表現の専門家としては それは当然視野に入れるべき世界なのでしょう。 しかし、 たとえば、 こういうことがあります。 今の私自身の中にては、 自分自身の性器にしてもただただ美しいだけです。  驚いてしまいます。  なんでこんなに長い間こんなにも美しい世界が見えなかったのだろう? という感じです。 でも そのおなじ私が、まるで性器のまわりに奇妙な幻想でも煙のようにとりまいているかのように その自然な美しさは長い間見えていませんでした。 さて、 そのように見えるそのような私が その「性器を写した写真」を見れば、同じように私には美しく見えるでしょう。  しかし、以前の私にとってはどうなのか?   このへんを解決してゆくのが総合芸術表現の世界だとは思っているのですが、 さらに、 その写真はほんとうは ただあたりまえの生と性の厳粛な美しさを写すほうではことさらに強調して表現したのだとして、それを観る側がそれによって「心がきづついてしまう」ような何かがあるとすれば、 これは 表現するほうも、 この性愛に関してはもっと考えるべきところなのではと思ったのです。 ただし、 そこは上のキグルミさんのご回答が、トータルなそのへんの何かを示唆しているようです。  私が昔見た大量のポルノ映画も、 いったいなんでこんなことになってるのかといわんばかりに暴力的でしたが、その時には私は知らなかった(友達の映写技師は子供みたいに純な心の人でしたから、その人もたぶん知らなかったでしょうが) まさに女性蔑視の形のニーズ、男性の「中抜き」(射精)のニーズのためだったわけです。      女性蔑視、 これが ポルノビジネスの本質だったのですよね。 なるほど、これと、性描写や裸体藝術の世界を一緒にする必要は全くないと思いました。 私自身が問題にしたいのは、この「射精」は、精神が曲がっているのではなおさら、なんの性の成熟にも実際には役立つことさへないとう点です。 こここそ、“ニーズの奥に 人間の幸せをまず考えよ”という松下幸之助の真の商売道が問われるところでしょう。 これもまた、 これからの時代の真の事業のあり方と関る表現課題なのでしょう。 そんなふうに考えました。 * わたしの質問に対して >逸れたと見られるかも知れませんが<  とありますが、 とんでもないです。 何か一人で悩んでいる時には、こうした落ち着いた見解は大きな力となるものです。 ありがとうございました。

回答No.2

私は、気に入った性描写を観ると、悦びを感じさえすれ、決して傷つくことはないですね。もし、傷つくことがあるとすれば、個室ビデオで、趣味に合わない作品しか見つけられずに、時間と金銭を消費したという思いだけです。 これが、真摯で偽らざる気持ちです。 つまり、嗜好にあったものを見つけられるかられないかが、傷つくかよころびに変わるかという、次元の低い問題で抑えておくほうが、より実感が湧くし、そこで抑えておくほうが賢明じゃないですか? 所詮、人間の内奥というのは、本能の体系に過ぎないですよ。だから、超モラル的な性描写の是非云々というのは、結局時間の無駄であり精神の浪費であり、なんら益しません。 こういうことを考える暇に、名作の文学や学術書でも読んではどうでしょうか。

arayata333
質問者

お礼

ヘンタイの問題は、少し補足が中途半端すぎたので付け加えますが、 性の成熟の過程で実はだれもが 通過する感性の地点とも言えるものと捕らえています。 無知からもそんなこと知らずに通り過ぎてしまう時もあるでしょう。 そこを気がついてしまっ他人たちは、それのとりこにもなったりします。 そしてそれは かなりの後々まで影響するので、これが性の成熟にとってどうなのかは、やはりこれも「みつめる力」いかんにかかっている問題とも言えるでしょう。 しかし、ふつうは、このヘンタイの問題は、個人どおしの趣向の一致の問題としてとらえておけばいいことであるわけです。 * わたしが、一応性の世界を ともかくも卒業できたと感じるようになったのは59歳の頃ですから、  >これが、真摯で偽らざる気持ちです。< は 私もすくなくとも59歳まではおなじ気持ちであったはずです。 ご回答文の意味合いよくわかるつもりです。 「いっしょに考えて欲しい問題」というふうに補足に書きましたが これはさらなるご回答を求めてるという意味ではなく、  お礼文が書ききれなくての補足文であり、  あなたのようなかたにも考えて欲しくて書いただけです。 「真摯で偽らざる気持ち」を書いてくださり ありがとうございました。 そういう回答ってうれしいですよね。 ありがとうございました。

arayata333
質問者

補足

私の希求するところは、子供たちに隠してもこの情報化時代にそれは 子供たちの心の奥を傷つけてしまうという問題の解決への道筋の問題が 先決問題としてあります。 性が本来 健康であり充分成熟した性であるならば、それが「おいしさ」にしても「風の心地よさ」にしても「せせらぎの音」にしても、 「海の潮の香り」にしても、「木々の間の日の光」にしても 五感で感じる奥深い質をはるかに高めてくれるものであり、 心を優しくしれくれるものであり、 あらゆる人間関係をそれにより、問題は無くし、より豊かに価値的にしてくれる源泉であると考えると、   本来大人自体が もっともっとそれを「見つめる」必要があり、  大人自体が もっとしっかりする必要のある問題とも思っています。 が、しかし そのように十全に性について理解できたのは、私の場合においても60歳近くなってからであり、 さまざまな未熟さとともに私自身も歩いてきた道だなということも解かります。 そこで、今の私はいち表現者としてどうあるべきなのかを考えた時、 それがどんなに「お粗末」であれ「お遊び」にすぎなかろうと、 そのをも飲み込んでその中で その性の本来の健康な姿へと徐々に 説明を深めてゆけばいいのではとも思えたところ、 この「お粗末で駄作だらけ」の世界も、 見る側の方が、そちらのような方ばかりならば、それも過程の問題として、問題は無いところ、  そうではなくて、その映像によって心が傷ついてしまう人がいると聞き、 それではポルノの世界とはとても一緒には歩めないなと思い 質問にいたったわけなのです。 これは、ほんとうは、手短に語れることではないのですが、わたしが創作してみたい総合的なポルノ(ポルノという名前では呼ばれなくなるものなのでしょうが)は、まず「中抜きビジネス」のためのものではありません。 今ならば、私はたとえば私自身の性器を ただあたりまえに 美しいと感じます。 あらゆる生、命の美が詰まっているという目で見えます。 でも 私が性に未成熟であった時には、まるでそれが見えませんでした。そのまわりに何か幻想がとりまいていて、 恋していたりするときだけすこしその幻想の煙が消えていくという感じでした。 人間は「見つめる目」を深めることさへ出きれば、 大きく成熟してゆけます。 恋以上に 性をも深く味わい楽しむことが出きるようになってゆきます。 それは、おそらく>超モラル<という モラルを越えたものですらなく、それこそが 真の偽りの無いモラルを生み出す源泉です。 そちらの言われる>本能の体系<の意味合いがよく解かりませんが、 楽しみも欲望も味わいもすべて人間の場合は「見つめる」脳の進化によって、動物の時にはなかった深さでそれを楽しめる可能性を持っています。 連綿とした命の連鎖が存在することは解かります。 そういう生物でもあるのが人間ですけど、それから目をそらすのではなく見つめるこも出きるのが人間ですし、 そのうえにてはさらに さらにより深い幸せへの道の可能性を持っているのが人間です。 もしかしたら、そちらの言われる>超モラル的<というのは、 たとえば、ヘンタイは禁止とかいうことなのでしょうか? そうした規制の強化ということでしょうか? 私の言う縄縛りの肯定の場合は、それでしたらそれは志向とか趣味の問題ではないです。 すべてのヘンタイにおいて、「みつめられ」て楽しめる世界がひろがっている事が言いたいだけなのです。 ただし、レイプとか児童ポルノとかいうのが、なぜおかしいのかは、自然な愛がそこから生まれてもそれと矛盾するからです。  レイプは特にそうです。   ですのでその描写は、もしするとすればさらに総合的にすべてを見つめられたリアルな表現として完成された中に表現されなければならないという表現者のモラルとしては  むしろ強調しすぎることはないと思っています。 >なんら益しません< とありますが、 ほんとうは、もっともっと そちらのような方にもいっしょに考えて欲しい問題だと思っているのですが、 どうでしょうか?

noname#117439
noname#117439
回答No.1

欲望について考える。あるいは哲学する。これは不可能なんです。 したがって性の描写や肉体美の芸術論。 生命の根幹を考える命をつないでいく行いとしての生殖。 そんな話題に振ることをお勧めします。 ポルノよりカエルの交尾かなんかの学術映像で思う様をうんちくするのと大して変わりありませんが。

arayata333
質問者

お礼

補足に書きましたように、 >欲望について考える。あるいは哲学する。これは不可能なんです。<というご回答文の「不可能」という言葉に対しては そうは思っていない者なのですが、  それが全体の文としては 示唆に富んでいることはわかります。 結局アドバイスとしては、的確なご回答となっています。 いつ思うのですが、不思議な感じのする直感の世界ですね。 おおいに助かります。  ありがとうございました。

arayata333
質問者

補足

「見つめる」ことが出来れば それは考察の対象とすることは可能かとおもいます。 しかし、たしかに性の欲望はとくにそれのおぼれやすいですし、おぼれていたらそのこと自体が事を客観視していないということにもなりますよね。 競争もその中におぼれやすいものです。 しかしこれも客観視できます。 その渦中にもです。 怒りも その渦中にも それを「見つめて」静かにしていることも可能です。(難しいですが、体験があります。) おぼれさへしていなければ(巻き込まれていさへしなければ) 欲望を見つめることはもっと簡単です。 たしかにおぼれている状態を客観視するのは不可能でしょう。 しかし欲望は、それにおぼれない限りはそれを見つめ考え 高めてゆくこともできる世界だと私は思っています。 * 猿から人間に進化した時点で、私たちは「物事を見つめる」という脳を得ています。 それだから反省も出来、物事を改善しても来て進歩と言えるものも文明の中に獲得してきたのですし、その過程で言葉という道具も手に入れることもできました。 しかし、その「見つめる」という能力は、そうした文明を可能にした事以上の価値を、人間の脳が生まれた時点では持っていたはずという考えが私の中には多々あります。 感性も 今の私たちよりもはるかに新鮮で深い五感として、その脳は動物からいきなりとも言える進化を遂げていたはずなのです。(詳しい論議でななく、便宜的におおざっぱに書いているので、これに対する疑問とかがあれば質問してください。) そしてその最初の人間達は その深い五感を同時に「見つめて」いたのです。 言葉以前にも、「この水はなんておいしいんだ」と感じていたということです。 「ほら、一番星だよ」という言葉は知らなかったでしょうが、星を見て目を輝かせたはずですし、それをおなじ人間どうし目と目で感動を伝え合ったはずなのです。 動物にはそユトリが無く、笑うことも希望の感情もその目に無かったのに、いきなり人間となってからは すべてに意味と希望が芽生えたはずなのです。 素朴な村の子供たちの目の輝きとおなじです。 * しかしながら、 たしかにポルノの今の状況は、そちらの言われている、まさに性欲におぼれてしまっている哲学不毛の地となってしまっているのでしょうね。 今となっては、 先に まさに感性の哲学が先に必要だったり、 あるいは写真とか映画だけでの表現でなくて、あらゆる総合的な表現とともにあるちゃんとした説明が必要な世界なのでしょう。 それ抜きに、カエルの交尾の映像とたいして変わりないような地点にとどまってしまってもいる事態を打開するずべは無いということなのかもしれませんね。 * 今では まるで違いますが、私自身が未成熟な性の時代を長く体験もしましたし、そうした人間の弱さを考えると、「おそまつ」な部分や「お遊び」の部分も認めたうえでの その泥沼ともいっしょになっての 上記改革も必要かと思っていましたが、  いそぎすぎは何も生まないかもしれませんね。  お言葉 参考になります。 また参考にさせていただきます。 ありごとうございました。

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