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人の不幸で飯が旨いという心理はどういう意味があるんですか?

人の不幸がなんとなく楽しい。 言葉には出さなくても誰にでもそういう心理が少しはあると思うんですが、いったいこの心理はどういう意味があるんでしょうか?

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  • noname002
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回答No.7

>人の不幸で飯が旨い 不謹慎ながらタイトルを拝見して思わずフキだしてしまいました。 「人の不幸で、ご飯がウマイ!」 「人の不幸はオカズの味付け!」 「他人の不幸で食欲モリモリ」 「たのしいな♪オレは幸せアイツは不幸」 「人が不幸でシアワセだー!」(いくらでもコピーつくれそう笑) 浅ましいですねえ~~;(笑) でも、ちょっと待ってください。 「幸不幸」の違いって、そもそも比較対象があるからこそ設定できることですよね。つまり、比較する対象となる人がいないと楽しくも幸せでもない。要するに他人に依存して自分の位置を確かめてるってことです。自分の存在に不安感が付きまとってしょうがないとか依存心強いとか不満溜め込んでるとか人生にタイクツしてる人ほど、こんなんなるのでしょうか。ナサケナイ話ですけど。 こういうことは、なにもヒトだけじゃなくて犬や猫などの動物でも見受けられることです。 私が、お隣のワンちゃんを撫でていたら、当時飼っていたうちの犬が大声でギャンギャン吠えまくって、まあ、そのうるさかったこと。「なによ!なによ!そんなやつ相手にしてサ!あたしがいるでしょ、あたしが!」って言ってたんでしょうね多分(笑) このような、嫉妬心というものは、翻って人の不幸を喜ぶ心理と一体になってきます。 こうしたことは、ある面で、知能の発達によって起きてくることですから、高い知能と、それに伴う複雑な心理を備えたヒトにおいて顕著に起きてくるのは当然のことなのでしょう。なにしろ「比較」というのは「分別」「分類」能力に繋がることで、こんにちの人類の発達発展は、これによるところ大であると言って過言ではないと思います。 むかしテレビで見たことで、ちょっと曖昧なところがありますが、幼い一卵性双生児の片方の女児が祖母に当たる婦人に叱られて泣き叫んでいる(実験のための演出)のを横で見ていた、もう片方の女児が、自分も目にいっぱい涙を溜めて「ダメじゃないの!もうしないね、ぜったいしないよね!」と片割れの女児を激しく諌めるのでした。一卵性の双子の結び付きは独特で、ケンカなどして片方が思い通りになってくれないときには、すぐに噛み付く傾向があるとかでしたが、これは、自分自身が思い通りにならないとき、まだ言語能力が身についていない幼児が自分の腕を噛んだりすることと関連しているとかいう話でした。 だいたい、「不幸」を喜べるというのは、ふつうは、親や子ども等あまりにも自分に近しい存在に対してではないはずですし、逆に、あまりにも遠い存在でも、かえって喜ばないものだと思います。 一番「ざまあみろウッシシ」と思えるのは、自分が手に入れられなくて悔しい思いをしたものを得た人とか、かねがね自分が嫌っていた相手である場合で、そこにこそ隠微なヨロコビと旨みがあるものなのでしょう(笑) 嫉妬を感じている相手が辛い思いしているのを見ると俄然ハッスルまるだしのミットモナイ人もいますね(笑) ですが、私は或るとき或る出来事をキッカケに思ったことがあるのは、なぜ苦労を重ねて生き抜いてきた年配の婦人などに、ときどき、たいへん涙もろい人がいるのかな?ということです。(苦労が、かえって歪みのもとになってる人もいるでしょうけど) 多分、つらい経験をたくさんしてきて、それを乗り越えてきて、自分自身をそこに重ねることができる、ありありと想像できるようになったからなのかなと思いました。 つまり、知能の高い者は必然的に比較・分類することをやめられません。その動機は自己保存です。そもそも知能が発達したことの大きな原因の一つが、ここにあるはずです。 しかし、経験や体験のストックが浅いとか、せっかく経験体験を重ねたはずなのに、そこから多くを汲み取る力に乏しいとか、もしも自分だったらというシミュレーション能力が低い等ですと、自他共に「浅ましいねぇ~」と呟きたくなるレベルに留まるのです。 でも他者なくして幸不幸もないのですから、自分さえ安泰ならばという浅知恵は、本当の安泰をもたらしません。このあたりで知性の高低が分かれてきます。 参考URLのなかにも挙がっていると思いますが、「人の不幸はゴハンのフリカケ」といったイジマシイ楽しみは、生きている者に高度な自己保存の欲求が備わっている以上、仰るとおり誰しも持っていてフシギはない心理です。しかし、それは殆ど本能レベルに引きずられた低レベルの知性ですから、成長した人間たるものが内心、忸怩たる思いを抱くのも、また人間ならではです。ですから御質問者さまの、そうした問いかけは高度な精神的発露であろうと思います。 とは言え実際、他人の不幸を人ごととも思えぬくらいになると今度は「人の不幸で、ご飯がマズイ」になりますし、これが昂じると、それこそ、「捨身飼虎」というのか、どんなかたちで自己保存の自然に逆らうような事態になるとも限りませんから、かげんが難しいところです。 心理学カテゴリー 『悲惨な事件を見て笑うのはなぜ?』 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3086140.html 『自分に危険の及ばない恐怖はなぜ楽しめるのか?』 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3976444.html 哲学カテゴリー『嫉妬』 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa472527.html                     

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その他の回答 (6)

noname#82286
noname#82286
回答No.6

no3です。 no3では多少過激なバージョンを紹介しましたが一般的ないじめの構造としてあげてみたいと思います。 一般的には心理的不幸に陥った自分というところまでは同じだと推測します 自分が他の人と同じく幸福であったのにそれが不幸な心理へ至ったことに対する苦しさが他者を苦しめてやりたくなってくる心理だと推測します、つまり他者が幸福であることが悔しいわけです なので自分の幸福と他者の幸福が連動する心理構造から自分の幸福が他者の不幸と連動する心理構造へと移行するわけです。 なのでその人の心理からしてみると自分は他者より不幸であると心のどこかで認めているわけです、なので他者の不幸と自分の幸福が連動する心理構造へ移行するわけです。 no3と違うのは自分より劣の存在に対する悔しさが抜けているところです 劣に対する悔しさは劣へそのまま向かい過激にエスカレートすることで他者と同等レベルの幸福を一時的に築くものですが一般的な場合他者なら誰でもよいということになると思います、ただいじめとなると自分より強い他者では不都合になるので劣っている存在を選んでしまうという事になるので結果両方とも劣っている人を選んでしまうのでどちらなのかはフィーリングと感で感じるしかありません。

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回答No.5

人間の本性でしょう。 通り魔殺人の悲惨さ、憤激、虚しさ、 同時に、怖いものみたさ、野次馬根性、ある種の爽快感・・・ ご遺族には不謹慎ですが、 そういった感情がないまぜになって事件を見つめますね。 この爽快感の帰因するところは社会の閉塞感とか格差不公平感などや 個人的な日常のフラストレーションの裏がえしとなります。 これらの血祭り的生け贄としているわけですね。

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  • minmi037
  • ベストアンサー率28% (2/7)
回答No.4

正直に告白するんですが、 私も「そういう時期」がありました。 質問を拝見して 「あぁ。。やっぱりそういう時期を一度 通るものなのかなぁ。。」・・・・・と 改めて思いました。 ずっと、、小さい頃から「人の気持ち」を こと細かく考えてきて思うんですが 誰でも最初は「自分が一番エライ」・・・というか 「自分を中心に回りは動いている」と信じている時期が あるようだ、、、、、と思いました。 信じている、、、、という事は 当人(自分)にとって「ごくごく普通の当たり前」で 日常のなかで何かを見たときの判断の元としている「常識」 ・・・・という意味です。 その時の常識、、、というのは 自分がそれまでに 「見た分・考えた分・思ったことの分などなど”」の 実際に、、自分自身が体感したものが元となっているようです。 ・・・・が時間と共に 「様々な事を思い、、考え、、気付く、、」 そういう体感をしつつ、、自分で考えるコトの時間や そこから得た知識、、ウマクいった事、、とかを元にしながら 人としてグレードアップ(成長)してくものなので >人の不幸がなんとなく楽しい。 ・・・・というのも 自分が「何かを気が付くため(次の事を分かるため)」の キッカケなのだと私は考えています。 自分の常識(価値観)というものは 世の中で「絶対のもの」ではないコトの方が多いです。 (今現在の自分にしか通用しない場合が多い ものの見方・考え方。) 生きた時間や体験した時間が少なければ 今現在、自分の考えるような常識や価値観は とても「視野の狭い」「ごく限られた範囲でしか通用しない」 ・・・・・という事が 道理、、、というか、、、物理的に、、、、考え付きます。 また、 >人の不幸がなんとなく楽しい。 ・・・・・と思う事で 自分の方が「上である。」ような気分に満たされる ・・・・という意味もあると思います。 この場合、 自分より「下」を見て(自分の方がスゴイ。自分は大丈夫)喜んでる ・・また「安心感」を得たいため、、、、という事もあると 思います。 (裏を返せば、なんらかの状態に対して不安を持っている。) ・・・・いろいろと、、、考えますが、、 結局、誰かをみて「何か思う」のは 自分の「これまでに得てきたモノや素地(生まれ持った癖)の(反射的な)反応」 ・・・・・と考えられたので、、、 ・・って事は「自分以外の誰かを見て何かを思う」っていうのは 自分が何を大事にしているか、、、常識として信じているか、、 何を求めているのか、、 (自分は今、自分以外の誰かを見下げて安心感を得ようとしている クセが今ある。。。このままじゃぁヤバイな。) ・・・・とか 自分を「分かる」ためにあるのだと思います。 (自分のモノの見方で「他人を切る・分析して」満足する為じゃない。) ・・・・が >人の不幸がなんとなく楽しい。 ・・・・・と思っている場合 「自分以外の人間をコバカにした目線で考えているクセ」がある (相手も自分と同じだ、、、という視点が今はない状態) ・・・・の場合、、 何を見ても不満、、何を見ても文句が口から出る、、、 身の回りにある事は「気にいらないことばかり」に見えてしまう、、 ・・・というがある感じがします。 自分から発する言葉の「本当の意味(言葉に含まれるイメージ)」を 本当に意味(イメージ)で理解しているのは 「自分自身」なので >人の不幸がなんとなく楽しい。 ・・・と思うだけでなく、、不満、、グチ、、、を いい続けている時間が長くなるほど「そういう頭(思考クセ)」 (目に入るものが「そういう視点・見方」でしか見えなくなる。そう反射的に思うようなクセがつく。)になるので結果「運」まで悪くしてしまう、、、んじゃないかと考えています。 なんでも、、繰り返す、、と 習慣(クセ・自分にとっての当たり前)になるみたいです。 外ばかりに反応していると「ホントの自分」は 何も動いていない(・・と気づいたら、、虚無感に襲われた)、、という事も多かったです。自分の価値観で「周りを分析している間」は 自分の人生を動かしていない状態でした。 (まもなく34歳になりますが、、もっと早くに気づきたかった。)

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noname#82286
noname#82286
回答No.3

no1です続きです。  他者の不幸でしか自分が幸福になれないということは 自分は不幸であると知らしめているようなものです。 つまりその手のタイプの心中は不幸を吐き出して幸福を得たいというのが本心で  そのはけ口を他者に投影してしまうというのが構造の主であろうと思います。  もろもろ他の方法で解消したり違う方法で幸せを感じようと試みれないというなんとも不幸な存在であることに違いはないだろうと思います  でわなぜ人間か?ということを考えてみたくなったのでいい機会なので考えを述べてみたいと思います  まずひとつに人を貶す人も人間であるというのがひとつだろうと思います  つまり【自分だけ不幸な目にあうのは不条理だ】という心理があるので  元々自分より劣っているだろうと思っていた他者よりも不幸になってしまった事に対して悔しさを感じるのだと思います  なので不幸な目にあった人は自分より劣っていた存在が不幸な目にあうのがのぞましいのであって(元の幸福な優劣関係に戻れると錯覚するために)その劣っていた存在がターゲットになるのだと思います  またその劣っていた存在が存在していなかった場合、似たような劣っている存在に自然に投影してしまうのだと思います。  なので自分より劣っているだろうと思い込んでいた存在に何かが似たような人が不幸な目にあうのが面白くてしょうがないのでしょう。  なのでテレビなどで芸能人が口悪く罵られているシーンを見て楽しいと感じている人などは口悪く罵られている芸能人がその劣だと思い込んでいた存在と何かが一致しているのでしょう。 話を戻します。  また人の不幸を見て笑っている(又は、感じている)存在に釣られて笑う(感じてしまう)人というのを分析してみたいと思います。  この手のタイプは単に「怖い」ということだと思います。 つまり釣られていないと笑われている(不幸だと思われている)存在に同じにされて貶されてしまう恐怖だと思います。  なので結果人が不幸なシーンを見て喜ぶ人に釣られて喜ぶのだと思います、なのでよく観察してみると不幸な人を笑う人の0コンマ何秒後で笑っているのが分かると思います、傍からは多分ほぼ同時に笑い出しているように見えると思います  ではなぜ同時に笑い出せるのか(感じだせるのか)というと不幸な人を笑う人の意向(精神)を介在して(汲み取って)いたのだろうと考えられます。  なので笑われる(感じられる)側はあたかも、笑っている(感じている)存在がみな同じ気持ちで笑っていると思い込んでしまうのかもしれません  なので気の毒に笑われる(感じられる)側は相当ショックに感じるのかもしれません。  なので結論しますと  人の不幸の飯が旨いと感じるのは当人が不幸である一面をどこかもっている  それに釣られて旨いと感じる人は不幸である一面を持っている人が怖いと感じている ということだと思います。  

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回答No.2

人の不幸は蜜の味とも言いますね。 絶対的な幸福と言うのは存在しません。 人が幸、不幸を感じるのには他との比較、相対的なものだと思います。 つまり他人の不幸を見て、自分はそれほどでないつまり幸福であると 感じるからではないでしょうか。 自己満足です。

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noname#82286
noname#82286
回答No.1

他者の不幸が楽しいと感じるんだからね 自分が幸福に感じるという無意識の一時的な喜びといったところだと思うよ これを行動や言動で他者に向けなければ感じることが出来ないというのが 【誹謗中傷】 また他者をコントロールしてまで意図的に他者を不幸に陥れようとし 自分が支配者であり支配欲を満たせられないと不快だと感じるようにまでなってしまうと 半分病的で【インヴァリデーターhttp://homepage2.nifty.com/e-iwa/new_page_311.htm】となるんだと思います。

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