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『性善説』 と 『性悪説』どちらが正しいのしょう?

『性善説』 と 『性悪説』どちらが正しいのしょう? 言い換えれば、 生まれながらの人間は本性は『悪』であり、何らかの影響を受けて『善』な人間になってしまうのでしょうか? または、 生まれた時の人間は本来『悪』なのに、何らかの影響を受けて『善』な人間になってしまうのでしょうか?

みんなの回答

回答No.17

性善説は人間を本来善なるものと決め付けており、性悪説は人間を本来悪なるものと決め付けている。 性白紙説も、人間を白紙なものと決め付けている。 ゆえに、こうした議論自体ナンセンスだといわざるを得ない。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.16

ガリレオは自然はどうあるべきかではなく、どうあるのかと問いました。その結果、自然科学が生まれました。マキュアベリは人間社会はどうあるべきであるのかではなく、どうあるのかを問いました。その結果、政治学が生まれました。 ここでも、性善説、性悪説どちらが正しいかという問題を、それがどうあるべきかではなくて、どうあったのかと言うことを、実際起こったことから実証的に論じてみます。 昨年を象徴する漢字は「偽」でしたね。多分今年も同じ漢字が選ばれるのが筋だと思います。 ・事故米のときの業者と農水省の例を見て下さい。 ・これでもかこれでもかと出て来る、雪印、赤福、ウナギ等に代表される一連の食品偽装を思い出して下さい。 ・保険庁の年金処理の例を見て下さい。 ・大分県での教育委員会と、その後発覚した全国での教員採用での事件を見て下さい。この事件が起こった直後に文科省が行った調査では、大分県を含めて全ての教育委員会が、教員採用に関して金銭等の授受はなかったと回答していたことは、性善か性悪かを考えるのにとても参考になりますね。 ・福井日銀総裁による村上ファンドの投資が発覚した後でも、福井総裁がそのまま居座ったときの例を思い出して下さい。 ・姉歯事件が発覚する前のときの、それを司るお役所の検査状況を思い出して下さい。 ・フィブリノゲンによる薬害肝炎では、厚生労働省と製薬会社は、個人が特定される患者に対して事実関係を告知することなく、2007年10月に発覚するまで放置していましたね。 ・各大学の大学院への予算が大学院生の数の多さで決まることに着目して、目先の予算増加に目がくらみ、博士課程の大学院生の数を倍増した元東大総長で元文部大臣のことを思い出して下さい。その結果、何年も後に夢多き若者達の就職先がなくなってしまい、彼等を路頭に迷わせた罪は大変重いですね。元東大総長だった方が、その結果何が起こるか予想もつかなかったなんて、口が腐っても言えませんね。おっと、この大臣はゆとり教育の発起人でもありましたね。 ・今回の世界的大恐慌は、サッチャーとレーガンがそのレールを引き、小ブッシュがそれに輪をかけてメチャクチャに規制を緩め、実業家達の「善意」に任せた自由放任主義を実行した結果起こったものですね。 数え上げたら、まだまだ切りがなく性悪説の実証的な例が挙げられます。これだけの実例を並べ上げられても、性善説が正しいと論証するには、途轍もなく込み入った論理が必要ですね。自分を内省して見て自分が善人だからとか、人間は善人であることが好ましいからというようなレベルの未熟な論理では説得力が足りませんね。どんな論法で性善説を正当化するのか、私も是非皆様の理屈を聞いてみたいです。

  • avalon3
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.15

遺伝子と環境の問題では? ある程度なら環境で何とかなりますが、 遺伝子内にあまりに酷い欠陥があると、最善の環境で育てても 最終的に「悪」になるみたいな。 一人一人、生まれながらの「悪」「善」の資質は異なると思います。 才能みたいなものです。 個人的には、人間が生まれながらに「善」であるとは到底思えません。 悪人の子供が善人である場合もありますが、 何世代が後に「悪」遺伝子が発動するのでは? しかしこの考え方で行くと、 最終的に全人類が「悪」の資質を有する事になるでしょうから、 (我々と連なる血を持つ祖先の誰かが、長い歴史の内で必ず人殺しの一つや二つやってる筈) 人間は生まれながらに「悪」としておく方が正解に近い気がします。 「悪」の定義がまず曖昧なので何とも言えませんが。

  • yayuh
  • ベストアンサー率16% (7/42)
回答No.14

以前にも似たような質問が出ていましたね。 善の反対の意味を悪。悪の反対の意味を善だという前提での話しなのであれば、どちらでもあるしどちらでもありません。 なぜならば、この世に善という意味付けをすることが出来ないとしたら、悪という意味づけをすることが出来ず、またその逆も出来ないからです。 また、善と悪の明確な境目(ライン)を引くことが出来ないこともその理由として挙げられます。つまり、人によって善になったり悪になったりするのであれば、どちらでもあり、どちらでもないからです。

noname#80116
noname#80116
回答No.13

 人間の自然本性は 善ですよ。    善でなかったら あれそれは 善くない・悪いとは 言えないでしょう。

  • boke-chan
  • ベストアンサー率22% (137/604)
回答No.12

善を+100 悪を-100 とすれば、生まれた時はゼロでしょう。 環境(遺伝と教育)によってどちらかに振れる 「目盛り」だと思います。 性善説、性悪説でもない、性白紙説を支持します。

  • hosiboshi
  • ベストアンサー率9% (15/158)
回答No.11

人間の本性が善か悪かで言えば、個人的には善だと思いますが、 本性が悪なら、さぞ生き辛い世の中だとは思います。 しかし世の中は、生き辛いですねえ。

回答No.10

生まれながらの人間の本性が正しいことは正しいか 生まれながらの人間の本性が正しいことは間違っているか 生まれながらの人間の本性が間違っていることは正しいか 生まれながらの人間の本性が間違っていることは間違っているか 本性からして、本性が正しいことは正しいかとしか導けないでしょう。 後から、間違いとか悪を創造しているのですから。 抽象的善悪の物差しで本性を測っても性善、性悪の答えはないでしょうね。 その人の同じ行動を善にも悪にも評価できますからね。 その本性にとって、 性正説 が正解でしょうね。

  • wiz0621
  • ベストアンサー率42% (182/430)
回答No.9

これらの儒家思想には実は続きがあります。 それは当時の世相や、孟子や荀子の政治的立場を象徴しているのです。 そもそも儒教とは何であるのか。儒教の四書のひとつ『大学』には 『修身斉家治国平天下』という有名な言葉があります。 これはある文章の後半部分で、この一連の言葉を現代語風に直すと 一つだけじゃなく色々な物事を勉強することで、知を得ることができる。 知を得れば自分を欺くことが無くなる。 自分を欺かなければ心が正しくなる。 心が正しければ、体を修めることができる。 体を修めれば自分の家族をまとめることができる。 自分の家族がまとまれば、国を治めることができる。 国が治まっていれば、世界に平和が訪れる。 ということを言っており、世界平和が儒教の最終目標なのです。 小難しいことをグダグダ書いてしまいましたが、以下が本文です。 これらの前提の上で性善説と性悪説は何を言っているのか ということになります。ここで論じているのは「治国」の部分です。 性善説・性悪説を現代風に平たく言い直しますと以下のようになります。 性善説は 人は善であるからそれにそった法律を作りましょう。 もちろん、悪い法律はどんどんいいものに代えちゃいましょう。 極端に言えば、悪い法律を決めるような政治家はぶっ殺しちゃってもいいですよ。 性悪説は 人間は悪であるから、それを規制する法律を作りましょう。 勉強した頭のいい人が、勉強をしていないバカどもを教え導くべきです。 頭の悪い人たちが政治家に辞めろと言っても、いちいちバカの言うことを 真に受ける必要は無いですよ。 つまり、これらは先の「修身斉家治国平天下」を語る上で、 前提が出来ているかどうかの議論なのです。国家と世界平和を語る前の段階で 我々には「正確な知識を得て、健康で、家族関係も良好である」必要があるのです。 結論としては、性善説は「みんな勉強してるから、大丈夫だよ」と言っています。 性悪説は「みんな勉強してないから、ダメだよ」と言っています。 さて、現代に話を戻します。我々の社会の前提はヨーロッパから輸入した概念である 「社会契約論」(悪い法律は社会のみんなが合意するならどんどん代えちゃっていいよ) が前提となっています。しかしながら、勉強をしていない人がもし増えてしまったら この前提は成り立たないのです。つまり、性善説であったにせよ、性悪説であったにせよ、 我々に必要な真実は「勉強する」ということになります。結果、勉強していない人が多い のであれば性悪説を、勉強している人が多くなれば性善説が真実となるのです。

回答No.8

まず、「悪」と「善」の定義がなっていないです。 それを決めるものは、時代であり、社会規範や観念です。 しかし、そういったものは、厳正な基準となりえるのかというと、とてもそんな資格なんてないですね。じゃあ、絶対的に帝国主義の時代は間違っていたのかとかね。中世の武家支配はモラルにもとるとかね。 そんなナンセンスな議論ってないです。 つまり、今の時代を考えますに、泥棒は絶対的「悪」ですが、それほどこっぴどい評価じゃない時代も合ったろうし、状況もありです。同様に本能に忠実で反社会的なことは、原始時代ならば問題にならないし、むしろ普通のこと(縄文弥生じゃなく、石器時代です) なので、その「善悪」を決めている基準を抜きにしてこの思考はない。 つまり、質問自体がナンセンスの域を脱していないです。どうしますか?

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