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性善説の意味?
最近の「性善説」という言葉の使われ方が「なんだか変だな」と思っているのは私だけでしょうか? 善なる要素を持って生まれてきても、努力しなければ善を引き出せないし、悪に染まる。だからこそ努力が必要で、努力無しでは悪になる。 と言うのが、孟子の性善説の趣旨だったと思うのですが。 性善説も性悪説も話のきっかけが違うだけで、聖人を目指すと言う目的や努力が必要と言う点で、「双子の男女」のような思想だったと理解していたのですが…。 それとも孟子のほかに語源があるのでしょうか? 皆様のど意見お聞かせください。 ※専門カテの方が良いのか迷ったのですが…。
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中学生の頃「性善説」というのは、『セックスもマスターべーションも身体に善いのだからどんどん励め』という主旨の孟子の教えだ」と、悪い先輩に教えられ妙に嬉しかった記憶があります。「でもなぁ山田、荀子というのがいて、やっぱり身体によくないから慎めという『性悪説』というのもあるのだぞ」と言われがっかりしました。 余談でした。_| ̄|○ 最近のTV雑誌で、「規制緩和をすすめるのは性善説で考えるのでなく、性悪説で考えていくほうがいい。」という使われかたをしますね。 つまり、人間はもともと放っておいて善なる方向に向かうものと思うのは危険で、根本は、水は低きに流れる。類は友を呼ぶ。悪貨は良貨を駆逐する。朱に染まれば赤くなる。郷に入りては郷に従えで、悪い奴がいたらそいつになびいていってしまうものだ。放置すれば性悪者が現れてかならず汚染されるからしっかり監視すべきだ。 それに対して、市場原理というものを尊重しできるだけ介入しないでおくほうが、神の見えざる手、ナッシュ均衡、予定調和、まぁラプラスの悪魔とかが出てきてサイコロを振ったりするのか、スプレッドシート上でモンテカルロシュミレーションをするのか、もはや忘れたが、とにかく一定の秩序に落ち着く。そうそう悪いようにならんだろう。というコイズミ的楽観論なわけですね。 性悪説は基本的に性悪女が御人好しのアダムを唆すことを予言する悲観論。ところで性悪女がいるなら性善男という言葉もあっていい。 小便男みたいで語感がわるいか。 こういう文脈で使われていたりするのではないでしょうか。 >善なる要素を持って生まれてきても、努力しなければ善を引き出せないし、悪に染まる。だからこそ努力が必要で、努力無しでは悪になる。 >と言うのが、孟子の性善説の趣旨だったと思うのですが。 というか、基本的にどうやれば世の中の秩序を保てるかという話ですよね。 孟子は、悪がどうこうでなく仁義礼智という法秩序の根本につながる心を人は備えているから、特に規制や強制されなくても自覚を持てば混乱なく治まる。リーダーが仁義礼智を持って行動すればモラルが生まれ治安ができる。 そう言っています。 一方荀子は、人の根源は功名心や欲や嫉妬や甘言を喜ぶ怠け心だから、心の赴くままに行動したら、争奪や紛争や奔放な無礼者が出てきて秩序が乱れる。まずルールやマナーで人を感化してはじめて治まるものだ。 >性善説も性悪説も話のきっかけが違うだけで、聖人を目指すと言う目的や努力が必要と言う点で、「双子の男女」のような思想・・ というか、放任主義か規制による感化かという統治の方法論、人生訓というより為政の者の視点の取り方を言っているのだと思います。 自信がないので、今改めて教科書を紐解けば 孟子の言い分は 社会の秩序の基本は仁義礼智を行うことにあるが、その糸口を人は生まれつき持って いる。矯正されなくても、根本にある良心の4つの現れが仁義礼智をめざめさせる。、 人にはうまれつき、悪いことを見ていたたまれないと思う感情がある、これは仁につながる。 人にはうまれつき羞恥の感情がある、これは義につながる。 人にはうまれつき謙遜の感情がある、これ礼につながる。 人にはうまれつき是非の感情がある、これは智につながる。 生まれながらにそういう素養を持っている。仁義礼智は社会秩序と政治の基本だからだれでもこの4つの感情を拡大し 充実すれば仁義礼知を充実でき世の中まるく治められる。 けっこうニューエイジのポジティブシンキングに近いですね。 荀子は人間の本性は悪。善というのは後天的な矯正によるという、星一徹型のスパルタオヤジ 人間は放っておけば (1)利益を追求したがるも。結果、他人と争い奪いあい、譲りあうことがなくなる。 (2)他人を嫉んだり憎んだしたがる。その結果傷害沙汰になって信頼しあうことがなくなる。 (3)都合のいいものだけを見て、心地よい話しばかりを聞きたがる。結果放縦になり、礼儀や道理をないがしろにする つまり、基本的にたるんだ方向にいきがちだから常に気合を入れろと言っている。アニマル浜口というべきか。 人の生まれつきの性質心情のおもむくままに行動すると、ついには世の中が混乱に陥るようになる。 まず規範の感化や礼儀に導かれて、世の中が平和に治まるのである。 ここが骨子。 つまり「、荀子の『性悪説』は文意そのまま、水は低きに流れる。自由勝手にやらせたらいずれは問題がおきる。 最初から規範を示してやらなあかん。 ということで上記の文脈の使い方で違和感ないと思います。
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専門的な回答には、なっていないと思いますが... 。 孟子というより、古代ギリシャの哲学者、近代の文学者の言葉が 基本になっていると思います。 物事を二分法的、相対的に捉えるところが、現代とそっくりですね。 中世のキリスト教の時代は、これとはちょうど逆になりますね。 確かに、孟子の教えと、現代のこの言葉の使われ方との間には、 かなりの乖離があると思います。 あとは専門家さんにバトンタッチ... 。
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ご回答ありがとうございます。 >中世のキリスト教の時代は、これとはちょうど逆になりますね。 この部分が自分としては100%理解できていないので、もう少し勉強して行きたいと思います。
普通の人が性善説という言葉を使うとき、それは「孟子の性善説」ではなく「一般的な性善説という言葉」を示しているんだろうと思うのですね。 儒教の性善説としては孟子が一般的ですけど、人によっては古代ギリシャのプラトン学派の性善説を思い起こす人もいるでしょう。また、そういう具体的な学説なんて知らないよ、という人だってたくさんいるでしょう。 おそらく、世間一般の言葉としての性善説・性悪説は、 性善説 ・・・・ 人の本性は善であるとする説 性悪説 ・・・・ 人の本性は悪であるとする説 これ以上でもこれ以下でもないんじゃないかと思います。 確かに私も「性善説と性悪説はスタートが違うだけで結論は同じ」と思ってましたが、「世間でいう性善説・性悪説という言葉」はそれとは別のものだ、と割り切って考えています。性善説という言葉は、孟子の唱えた性善説のこと「でなければならない」わけではありませんから。 例えば、「バイブル(聖書)」って、旧約と新約の聖書を示すもののはずですが、他でもさまざまなところで「バイブル」という言葉は使われてますね。「○○って本、オレのバイブルなんだよね」みたいな。バイブルは今や聖書というより「その人にとって一番大切な本」程度の意味になってるところがあります。それと同じで、性善説も性悪説も、今は意味が拡大変化しているんでしょう。 正直いって、もっととんでもない解釈をされている言葉が山ほどあるので(笑)、このぐらいの変化、気にはなりません。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「性善説=孟子」という偏狭な考えから、西欧における思想に思い至りませんでした。ご回答を頂いた後、いろいろと自分なりに調べてみました。 >正直いって、もっととんでもない解釈をされている言葉が山ほどあるので(笑)、このぐらいの変化、気にはなりません。 確かにその通りだと思いました。
- santana-3
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ちょっとこちらの解釈と異なるようで。 ↓ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%A7%E5%96%84%E8%AA%AC
お礼
ご回答ありがとうございました。 解釈の違いについては、自分なりにある程度分かっていたのですが、参考URLにも書いてあるように、二元論として考えることがおかしいのではないかと思い、皆様のご意見を募ったしだいです。 このようなアンケートにご協力いただきありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 確かに、後の法家思想のベースとなっているのは荀子の生悪説ですのでその通りかもしれません。しかし。 >放任主義か規制による感化かという統治の方法論、人生訓というより為政の者の視点の取り方を言っているのだと思います につきましては、徳治主義<法治主義は否めないこととしても、放置主義とは思えません。もう少し自分なりに研究してみますが、その節にはよろしくお願いいたします。 #4様のお礼欄をお借りして申し訳ないのですが、皆様本当にありがとうございました。