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シベリヤ抑留、収容所で食料の豊かな場所は存在したのか
- シベリア抑留体験記には食料の乏しさが一様に書かれていますが、昭和24年の地方紙に掲載されたシベリア帰還者の談話によれば、収容所によっては充分な食料が配給されていたことが示唆されています。
- 特にザツトニアという収容所では、一日に米300グラム、雑穀150グラム、パン350グラム、野菜800グラム、砂糖18グラム、茶5グラム、塩と油6〜7グラムが配給され、栄養面において充分な配慮がされていたようです。
- これはソ連当局がインターナショナルの教育を施していたため、ソ連を賛美する話が出ているのか、それとも待遇の良かった特殊な収容所が存在したのか、詳細は分かりませんが、収容所の条件は個別に異なる可能性があります。
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私はシベリア抑留について特に知ってるわけではなく、偉そうなことも言えないのですが、ご質問者は勘違いをなさっていると思いますよ。 > 一日に米三百グラム、雑穀百五十グラム、パン三百五十グラム、 > ヤサイ八百グラム、サトウ十八グラム、茶五グラム、塩油六、七グラム この(食料)何々何グラムという記述は、シベリア抑留体験記に付き物のようです。「他でも見たことがある」と思って検索したら、次のがヒットしました。 マホルカ―シベリア抑留記(伊藤政夫氏) http://books.google.com/books?id=a3Ul2BFEavAC&hl=ja (引用開始) パンは三五〇グラム、穀類が三〇〇グラム程度、砂糖一八グラム、油二〇グラム、魚肉一五〇グラム、野菜九〇〇グラム、茶葉三グラム、そして塩と香料若干などであるが、これらは一応の目安であって、実際にはこのとおりではない。二五〇〇キロカロリーはあるということだったが、果たして本当にそうかどうか疑問であった。 (引用終り) 昔「生物」か何かで習いましたが、成人男子は何もしなくても一日二千kcalくらい要るそうです。重労働なら一日三千、四千らしいです。ご質問文の「談話」では「栄養は充分」となってますが、「雑穀百五十グラム」を追加してもギリギリまたは数百kcal足りない感じです。つまり、おなかペコペコでしょう。「待遇は決して悪くないのです」という苦しい弁解みたいな表現(具体的な数字を挙げているから、分かる人には分かる)を、ご質問者は勝手に「待遇のよかった」と変えていらっしゃいます。「決して悪くない」と「良い」とは違います。 さらに、伊藤氏の「一応の目安であって、実際にはこのとおりではない。」に注目しましょう。ソ連のことだから、中央で計画を立てて上意下達、しかし末端の現場では出来たり出来なかったり、それでも報告は「計画達成しました!」というパターンです。 つまり、「談話」は「真実のところ」ではなく「ソ連公式見解」を言わされているのだと考えられます。「昭和24年」だと、帰還は始まったばかりで、まだ抑留者が大勢残っていました。ソ連の匙加減一つで遅れる恐れがあったのです。帰還がほぼ完了したのは、はるか後、1956年(日ソ共同宣言)ごろのようです。 私たちは、戦争に行った爺様(当時は青年)たちの「同胞を気づかう心」に鈍感であってはならないと思います。「われわれ同胞は皆元気で帰ってきますよ」は事実を言っているのではなく、痛切な願いの吐露でしょう。「インターナショナルの教育をされていたので、ソ連を賛美している結果でしょうか」と中傷(?)している場合でしょうか? まあ、そのケースも混じっていたらしいのですが。
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- k16399638
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場所によってちがうと思います。都市、集団農場の近くでは、その方がいわれているような恵まれた食糧事情もありえたでしょう。都市の建築現場、集団農場での作業をしている人がこれに該当すると思います。 逆に、そのような場所からはなれた、タイガ、森の中、人里はなれた場所の収容所では、抑留者以外の全員(ソ連兵の分も)の食料を手間をかけて輸送しなければならないと言う事情がありますから、おのずと食糧事情は悪くなると思います。