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力と勇気がない正義は無意味か?
皆さんこんにちは。 中学校のときに、イジメられている子供がいました。 かわいそうなので助けてやりたい。でも、 その子を助けると、私が逆にイジメられるかもしれない。 助けてやりたい。と、いう正義の心はある。しかし、 私にはその力がない。正義があっても、その勇気もない。 しかし助けてやれないのであれば、その子をイジメている 他の連中と大差はないのかもしれない。 つまり、無力の正義はまったく意味が成さない。 したがって正義は力と勇気が必要ということになりそうなのですが、 力も勇気もない正義なら、持っても、持たなくても同じでしょうか? 力と勇気がないものは、もともと正義とはいわないのでしょうか?
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月並みの 当たり前の答えと思うかもしれませんが、 武道はやるべしです。 私はただのその精神の愛好家であるにすぎませんけど、 そう思います。 それと、そんな時に勇気を出すには、普段からリーダーの立場とか責任ある立場にいる人の場合は 出しやすいですね。 でも、これも限界があります。 逆転することがあります。 普段いじけていても もしなんらか大きな苦痛に耐えた経験のある人は いざ極限に近い時には、いきなり勇気を出せたりもします。 でもそれも限界はあります。 この問題は人間の弱さ 生物の状態でもあることの自覚とともにある問題で、 おおきな度量からの広い広い目でみなければ、そして そこから考えてみなければ ほんとうには、そこに何が必要なのかわからなくなる問題だということもできます。 私は 子供の頃 あの南京の大虐殺の当事者の方から直接に、お話を聞いたことがあります。 正義とは逆の 大虐殺の世界です。 最初は 虫も殺せなかったような素朴な青年が多かった当時の日本の兵隊の人達は、 ほんとに最初の内は 多くの人が敵と解っても銃を向けることすら出来なかったし、持って構えても震えて撃つことなんてとてもできなかったといいます。 でもそのうちに、目の前で友が そんな中だからこそ 多くを多くを深くも話し合ったりしただろう「友」が うめきながら死んでゆくをを見て、神経は だんだんその戦争の中に誰もが巻き込まれていったのです。 まったく平和時にはありえない神経の状態の例として その方は、ご自身の足が片方折れたまま気がつかないで何千里もあるいて その後に「あ」と気がついたという例をあげています。 それほどまでに 痛みすら感じないような神経にても かの何十万という味方をはるかに越えた捕虜たちへの潜在恐怖は 消えなかったそうです。(想像を絶する世界だということです。) かの南京の地にてです。 その時 ううううううううという声が 地響きのように聞こえ始めたといいます。 地響きのような声 わたしは歌い手ですので、それが大陸の地のどういう声なのか想像できます。 そしてその 何十万人ものその声の中にて とうとう あの惨劇はおこったとのことです。 だれかが恐怖に 捕虜を引き釣りだし、 それはやがて、日本兵全員の行為へと雪崩打っていきました。 うああああという感じなのでしょうか、 集団的にもう治まらなくなってしまったわけです。 私たちが どうして、この平和な地の椅子に腰掛けたまま彼ら兵隊を非難できましょうか。 その人自身、子供の私に、 自分も威嚇的に(その言葉を何度も使っていました。)女子供みさかいなくおどしつけ なぐりつけ 穴にほうりこみ 正義? それは正しい義なのですから 正しいに決まってます。 でも、平和時の普通の神経の時にも、まず人間は弱いのだということも考えて、そこから出発して考えるべき問題だと私は思うのです。 極真会館創設者の大山倍達は、かって「私は 臆病だ」と言っていました。 マフィアの事務所に堂々とした態度で出かけていった時、ほんとうはいざという時には あの窓から飛び降りよう、するとたぶん あそこに着地できるだろう、すぐさま銃から身をかくすには どこに隠れようかとか計算した上で 堂々としてスキをみせなかっったのだと言います。 武術の達人にして それがリアルな姿です。 すると、そこから逆に考えるべきことは 正義とは、その裏の心に本質がありという別な角度の問題です。 ジャンバルジャン(「ああ無情」という名作は読まれたことがありますか)じゃないですが、 法より尊い人の幸せへの愛があたたかさが 思いやりが そこにあるか否かです。 法も正義ですが、その裏のほうが ほんとの正しい義のあり方を示しているということの自覚の問題です。 やくざのような人が 日本刀をもっていたとしましょう。 それで今にもだれかがきられようとしていたとしましょう。 大山倍達ならば その中に飛び込んでゆくのも正しいかもしれません。 でもそんな時には 自分の命も大切であるわけです。 まったくあたりまえの答えで すみません。 でも 私は 平和時に 自分の弱さ 人の弱さをもよく知り、痛みを知り、解ってあげる心、思いやりを育て、 理性を育て より深く広く、より明晰に 哲学出来る人間になり人にもそれを教えてあげることのできるような人間になっていくことが、まず大事と思います。 それが悪の根元を断つことですし、いざ悪の前に対峙しても その人なりにとはなってしまうでしょうが、 総体的には一番のそれなりの責任ある行動となって現れるのではと 思います。 完璧な答えとかではないでしょうけど、 しかたがないというか 一生懸命考えては見たのですけど、 結論は やっぱり月並みですね。 利他については 誰も、もがく、というけど、 それっきゃないのかな。
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- lv4u
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正義なき力は無能なりっ!! 力無き正義も無能なりっ!! 極真空手の大山倍達氏が朝練のときに叫んでいた言葉。 力には、ダビデ対ゴリアテの戦いのように、力の足りない部分を補う知恵(作戦)も含まれるかもしれませんね。 最近のイジメは、子供でもバックに暴力団がからむケースもあったりして、子供1人で立ち向かうのは難しいケースも多いようです。勇気をもって一人頑張るのもいいですが、両親や外部のイジメ対策の組織などの力を借りるなど、知恵を使ったほうがいいケースも多いと思いますね。 昨年の本ですが「いじめ地獄から子供を救え!」ISBN:978-4-87688-567-1 っていう本もあります。
力や勇気のない正義でもあったほうがいいと言えます。 ちからや勇気がないなら頭脳、計画、作戦等を使って正義を果たすこと はできます。 ただ、助けてあげる方法も、時期も助け方も、何を持って 正義とするかはそのときの状況しだいなので、力や勇気があれば それが正義というわけではないようです。
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こんにちはー あ、そうですね。 正義はあったほうがいいですよね。 たとえ、そのときは使えなくても、何か使える 方法が、使えるときがあるはずですからね。 ご回答ありがとうございました。
- shift-2007
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それは十分正義です。 現に質問者さんはイジメをしないのですから。 悪を懲らしめる=正義 必ずしもそうではないです。 正義は己の中にあるもので、否定したり取り除いたりはできません。 そのように人はできているので正義の解釈という問題ではないと思います。
お礼
こんにちはー あ、なるほど。 自分の心の中の正義を無理に否定することは ないということですねー ご回答ありがとうございました。
- koko_u_
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その例は「見て見ぬふり」というやつだから、普通は正義とは言わないね。
お礼
こんにちはー イジメの例は小、中、高校、などいろいろありますよね。 社会人になってからも、イジメはあるかもしれない。 助けようと思っても、足がすくんで助けられないの かもしれない。 心でただ助けたいと思っているだけでは、仕方がないと いうことですね。 ご回答ありがとうございました。
お礼
こんにちはー 懐かしいですね~ 「空手バカ一代」で飛鳥拳が言った言葉ですね~ 今回、わかりやすくイジメの問題を例にとってみましたが、 電車の中で強姦事件があったのに、40人からの乗客が誰も 助けなかった。というような例もそれに近いでしょうか。 普段は皆良い人なのだが、力と勇気がなかった。という ことですかね。 ご回答ありがとうございました。