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千利休の政治力について
漫画「へうげもの」を読んでいますと戦国時代(特に豊臣)になぜ千利休ら茶人が絶大な政治力を持ったかが疑問です。茶道がなぜ当時の政治と結びついたか教えてください。また茶道は徳川時代にも影響があったのでしょうか。
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へうげもの、読んでいます。織部の話どこまでするのか楽しみ。 千利休は、茶人として名前が残っていますが、堺の豪商代表です。 東山御物というものがあります。八代将軍義政が収集したもので、それの価値観を決めているのが「君台観左右帳記」というものです。価値観の基本となります。 政治には具体的なテクニックの他に、それぞれのテクニックの正当性を保証する価値観が必要です。下克上をした成功者が一番困るのが、部下の下克上です。「おれは、上司を殺したが、おまえらは殺しちゃいけません」という、アクロバティックなことをしなければならないのです。その時に価値観が必要になります。観念だけの哲学や宗教で、これが実施できればいいのですが、人間それほど賢くない。具体的な見えるもので示す必要があります。江戸時代で言えば、大名行列や朝鮮通信使というのが、政治のビジュアル化になります。 政治は まつりごと であり、祭りごとには、ビジュアル化が必要なわけです。 茶道がこの時代における価値観のビジュアル化になります。君台観左右帳記に書いてあるように、(目の前にある、この)唐物をこう、飾るのがよろしい。ということです。 で、千利休は、君台観左右帳記の世界を完了した上で、自分の価値観を可視化できたから偉いのです。 信長の三宗匠のうち、他の二人は大商人としての方が名前が残っていますが、千利休もそれなりの商人です。 現代で例えていえば、「政治をこうしましょう」と提言できて、しかも金持ちという意味では、竹中平蔵が経団連の会長をしながら大臣になっているようなものです。 家康は、統治の正統性を哲学・宗教段階に求めました。なので、千利休と同様な意味で影響力があったのが、黒衣の宰相、崇伝などになります。家康個人には、政治的カリスマ(家康には戦争で勝てないかも!)というのがありましたが、秀忠・家光には存在しないので、大名行列や朝鮮通信使の行列などがビジュアル化されるようになったという解釈もできるかも。 ちなみに私は、裏千家です。
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- komes
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確かに千 利休には政治に関心があり、経済的見地からの進言はあったと考えられます。 秀吉自身経済を重視しそれなりの施策をしていますから実地の経験者の進言は歓迎したと思います。 さらに利休は側用人のような役目にも付いていましたからかなりの権力を行使できました。 今なら経済顧問兼秘書官といえましょう。 これは茶道とは別の個人的接触です。 この時代は論功行賞にステタスシンボルを利用する必要が生じましたから知行を与える代わりに、茶道に参加する特権を与えるとか、傘の使用を許す戦時の陣羽織を与えるなど経済的負担のない方法が始まった時代です。 この形式主義は徳川幕府にも受け継がれ、登城の際の乗り物、それより降りる場所の位置、座敷の席順や位置などで種々の格式を設け、これらの昇格を競わせました。 茶道人、僧侶などは知識人でもありましたから自然諮問を受ける地位に用いられる機会があったのは自然のことでした。
お礼
確かに利休は茶人と同時に豪商でした、秀吉の経済顧問みたいなもんでしょうか、納得しました。
- tanuki4u
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ビジュアルによる統治権の明確化という政治学の見方は トビ,ロナルド『「鎖国」という外交』小学館 → これは先月出た 安藤優一郎著 -- 新潮社, 2007.1, 205p. -- (新潮新書 ; 198) など、けっこう最近は主流のような気がする。 秦の始皇帝の全国行脚も、前は、無駄遣いの局地みたいな言い方をされていたが、生身で皇帝を見せることで、統治の安定化を図ったという積極的な評価がされているような気がする。 文化による統治権の明確というと、漢の高祖のエピソードが有名ですね。 儒家が、高祖に対して、儒教の有効性を提示するために、儒教に則った礼法で皇帝を敬う式をやったところ、高祖大喜びというもの。
お礼
鎖国も立派な外交戦略と言うのが最近私も感じるようになりました。鎖国=あほ と言うわけじゃないですよね。
- goujikun
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おはようございます。 漫画「へうげもの。。読んだ事が無いのでわかりませんが、 秀吉の時代の(というより、信長、秀吉の安土桃山時代)茶道は 千利休により集大成され、当時の文化そのものでした。 信長にしろ秀吉にしろ、利休は茶の湯の師匠であり、文化の部分に ついては弟子扱いとなります。 利休が作って今も茶室の基本になっている(にじりぐち)は、せまい 入り口から身を小さくして、頭を下げないと入れない構造になっています。 堺の大商人として、こういう所で武将に対して、溜飲をさげていたのかも しれませんね。 茶道は、礼式にも通じますから、荒くれた戦国武将をしつけするには 良い文化でもありましたし、当時は茶の湯ができるのは、一種のステータス でした。信長時代には、武将は茶の湯の亭主(主催者)になり、客を 呼ぶことは、普通の武将は信長に禁じられていました。 秀吉が大功を立てて、初めて亭主となることを信長に許された時が、 一番うれしかったと、妻のねねに言った事があるそうです。 それだけ当時のあこがれだったのでしょうね。 話しがあちこちそれてしまいましたが、基本的にはせまい茶室の中で 秀吉と二人きりでいる利休に対して、武将たちは恐れをいだいていたのでは? 密室の中で、自分の悪口を言われたら後がこわいですし、逆に 秀吉に対して、自分の良いことを言ってもらえば、ブラスになりますしね。 昔の中国の皇帝のまわりにいて、身の回りの世話をしていた宦官が 権力を握っていったのと、少しにていると思います。 徳川時代は、家康自身があまり茶道を好みませんでしたので、 政治と結びつきはしませんでしたが、秀忠、家光の剣の師匠である 柳生但馬が、大目付として権力の一端をにぎりました。 最高権力者の師匠というのは、まわりから見ると恐れられて政治力を 持つようになってくるのでしょうね。
お礼
そうなんでしょうねえ、あの狭い茶室で密談、武将の評価をやっていたら師匠千利休が力持ってきたのかもしれませんねえ、今の政治家でもそういう師匠が居ると聞いたことがありますから。
お礼
大名行列(朝鮮通信使)のこの様な解釈、初めて聞きました、確かに権威では当時これほど「ははあ・・」と思うのはなかったでしょうね。これじゃ薩摩藩の行列のお先を無礼にも横切ったなら斬られるのは当然でしょうなあ。勉強になりました。