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西田哲学
西田哲学における「場としての無」は老子の無の自己限定とどのような相違があるのでしょうか?
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- mmky
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回答No.1
西田哲学における「場としての無」は老子の無の自己限定とどのような相違があるのでしょうか? 同じことを言ってるんですが西田先生の方は学者たらんとして言葉を乱用しすぎということだけですね。 老子は、人は皆、根本仏と同じ仏性(ダイヤモンドといいましょう)をもっているそれは本来あるのだからあくせくして迷うことはない。無為無策の心で本来のダイヤモンドを掘り出し光らせればよいという考えのお方ですね。ここで、ダイヤモンドが「無」であくせくして迷うが「自己限定」ですね。 西田先生は、同じダイヤモンドのことを言っているんですが、ダイヤモンドは多面体になっているといいたいわけですね。多面体のダイヤモンドを「場」と呼べば一面は「無」と呼べますからね。 同じことを「絶対矛盾的自己同一」という表現でもいってますね。 お二人とも如来クラスの悟りなんですが体系的には理解できていないという理由でしょうか、説明が下手なんで後の人にはわからんですね。
補足
想定通りmmky先生でしたか(笑。 当然の如く一次文献は読んでいないのでいい加減な知識しかありませんが 「絶対無」とか「純粋無」とかが近似点で西田哲学の場合は究極の述語としての一般者を「絶対無」としているようですね。 この究極の述語としての一般者がダイヤモンドなんでしょうか。 >同じことを「絶対矛盾的自己同一」という表現でもいってますね。 これを説明しろと言うのは酷なので只今電子図書館で読書中です(笑。