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寂しいとゆう感情について

怒る、笑う、悲しむ、と言う感情がなぜ起こるのかは漠然と判るのですが、孤独感、寂しさ、ホームシックと言う感情がなぜ起こるのかがわかりません。 他人に理解されたいとゆう欲求がそうさせるのでしょうか?なぜ人と会ったり、声をきいたりすればおさえられるのか? どこから来るのでしょうか。

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  • jume
  • ベストアンサー率46% (71/152)
回答No.1

ホームシックという現象に限って言えば、わたしは二つの線から考えることができると思っています。一つは、「あたりまえ」という状況の不在で、もう一つは、「家族」のあるべき姿、という社会的規範の内在化です。 まず、一つ目の「あたりまえ」の不在について、です。わたしたちは、一緒にいることがあたりまえになっている家族という集団にいて、特に一緒にいるということを意識して生活していないのではないでしょうか。あたりまえ、というのは、そこに意識を向かわせないはたらきがあるもののようです。たとえば、胃。胃は、あるのがあたりまえで、普段はまったく気にしていませんが、ちょっと調子が悪くなり、しくしく痛む時、わたしたちは胃の存在を、その痛みにおいて意識せざるを得ません。「普段の胃のはたらき」の不在が、胃の存在を大きくさせています。家族も、全員があたりまえにいる状態では、意識することはありませんが、そのうちの一人の不在(引越しや入院や死)が、あたりまえにいたその人を改めて意識化させます。逆も然りで、一人で暮すとき、ホームシックになるのは、不在において家族が現前しているからだ、といえるでしょう。 二つ目。家族の「あるべき姿」が、社会的な規範として機能していると、「あるべき姿」から外れる家庭の人は、とりわけ「あるべき姿」より人員がかけている家庭の人は、寂しさを覚えることでしょう。いつだったか見た『くまのプーさん』で、ティガーが、いるはずのない自分の家族を探すという物語がありました。彼が家族を探そうと思ったのは、そのような「あるべき姿」を求めた、といえるでしょう。ティガーは、プーたちが家族だ、ということに思い至ったのですが、家族の「あるべき姿」なんて、それほど大事ではないということでしょう。 二つ目は、「家族」の線で考えてきましたが、これは「恋人」や「友達」ということでも考えられます。自分の周りには、「恋人」を持ってる人がいっぱいいる。自分はいない。寂しい…。こんな感じですね。 > なぜ人と会ったり、声をきいたりすればおさえられるのか? この問いに対しては、「家族」や「恋人」「友達」に共通する「親密性」の不在で答えられると思います。いままで「家族」や「恋人」「友達」という例で考えてきましたが、それらの不在は、つまり「親密性」の不在であるわけで、人と会ったり、声を聞いたりすることで、落ち着くのは、「親密性」の代替材が得られるからではないでしょうか。 参考文献は、清水学『思想としての孤独』講談社。下のURLを参照してください。

参考URL:
http://www.bk1.co.jp/cgi-bin/srch/srch_detail.cgi/3a8eac2d285810103e1c?aid=<$aid>&bibid=01712101&volno=0000
matasaburou
質問者

お礼

まずはお詫びですが、都合とはいえ質問を長く開いたままにしたこと、失礼いたしました。 とてもわかりやすい説明ありがとうございました。すすめられた本も読んでみようとおもいます。

その他の回答 (3)

  • muzan
  • ベストアンサー率0% (0/8)
回答No.4

私は、瞑想や洞察を通して「心の実体」を暴きだそうとしているものです。孤独感、寂しさ、ホームシック、他人理解されたい欲求、癒されたいと言う欲求、これらは「この世界」四次元物質世界に我々が誕生した時からの宿命「個」の問題です。最初は水素原子、ヘリウム原子と言った{個」、と言うよりは「特性的個」から、超新星爆発などの物質進化、そして分子進化、惑星地球上における初期生命体藍藻類の「幼稚な個」、単細胞、多細胞生命体、植物、魚類、両生類,爬虫類(恐竜)、哺乳類、猿類、類人猿、猿人、原人等の「群れ的個」進化、ミッシングリンク的個のネアンデルタール人(古代型ホモ・サピエンス)、本当の「個の確立の可能性」を持った,我々現代型ホモ・サピエンス、クロマニヨン人の登場、そして遥か2000年以前、老子、仏陀、イエス、1000年~500年以前前の禅僧、名も無き覚醒者等々の我々の先人達が「個の確立」をし、これらの「根源的問題」から解脱したのです。現代においても、クリシュナ・ムルテイ、和尚、EO等の人達が解決し,肉体を離れて行きました。これらの問題は、あなた自信の根原的「個」の問題で「本気でやるかやらないか」の問題なのです。・・・・・・・・・・

  • h-being
  • ベストアンサー率25% (1/4)
回答No.3

 こんにちは、素人の意見です。  人は生存するために仲間を欲っすると思います。集団民族として、本能の記憶がそういう感情を呼び起こすのではないでしょうか。 独りである→ 生存率の低下、 仲間がいる→ 生存率の向上、 生存率の低下→ 不安・恐怖、 生存率の向上→ 安心 というふうに。事実、寂しいという感情はどこか不安である、という精神状況に似ていると思います。

matasaburou
質問者

お礼

ご回答ありがとうございました。たしかに寂しいと不安は似ていますよね。 気付きませんでした。不安と寂しさの関係を考えてみるのもおもしろそうです。お礼が遅れまして申し訳ありませんでした。

  • ribisi
  • ベストアンサー率28% (247/864)
回答No.2

人はひとりひとり、それぞれの意思によって自由に行動します。 自分の人生が自分のものであるように、 他人の人生もその人のものです。 個人の自由を認識したとき、同時に孤独も感じます。 孤独感とは、自分が自由であるということの裏返しです。

matasaburou
質問者

お礼

たしかに自由であるということは、個の確立ですね。若い時には孤独感というものとは無縁のように感じましたが年齢を重ねて行くに従って、孤独感もましていくような気がします。ご回答ありがとうございました。