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皇女和宮が乗った御輿は?
皇女和宮の降嫁に興味があり、ネット上ですが色々と調べています。 ただ、和宮降嫁の際の行列姿や、乗ったと思われる御輿(駕籠?) についての資料があまりありません。 ご存知の方皇女和宮が乗ったであろう御輿や 行列の絵等がありましたら教えて下さい。 よろしくお願いいたします。
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こんにちは。 NO1.です。 まず、女「輿」に関して言えば、 まず、一番上は、屋根ですが、 http://www.deaihaku.com/haru/27.htm この写真のように、和の宮もかなり、しっかりした、権威のある造りだったとおもわれます。何せ、天皇の妹君ですから。 次に、上部から「御簾(みす)」と呼ばれる、竹で編んだ、多少隙間の空いた「暖簾?」みたいなものが、ぶら下がります。 天皇に拝謁すると、麻布(あさぬの)であんだ「蚊帳(かや)」のようなもので、直接には天皇の顔が見えないようにしますが、それと同じ考えで、皇族や公家は、やたらに民衆に顔をみせることを極端に避けました。それもこれも、権威付けの一種とかんがえます。 そして、中山道という「狭い道」をあえて通りましたので、山あり谷ありで、台車などは無用の長物で、すべて、人力で運びました。 輿の中央が「台座」で、ここに和宮は、終始、正座をして座っていた、と考えられます。ただし、和宮が京都を出立したのは、文久元年(1861)10月2日(現代の太陽暦よなおすと11月の下旬)です。従って、暖をとるために、小型な箱型火鉢なとが手元に置かれたと考えます。炭は、箱の下に入れられおり、火種を絶やさないように炭を継ぎ足していきました。 「台座」には、畳がひかれ、約2畳弱くらいだったと思われます。 その下に、「担ぎ棒」が前に2本、後ろに2本突き出しており、和宮の輿の重さから考えると、1本の「担ぎ棒」を5~6人で担いだと思われます。従って、担ぎ手は、常に6×4=24人前後で慎重に運ばれました。 和宮の一向は、京都方(京都周辺の諸藩から集められた者)1万人、江戸よりの応援部隊1万6000人、そこに、輿入れ道具を担ぐ人足等を入れると、実に30000人以上もなり、行列は12里にもたっし、一つの宿場などを通過するのに4日もかかった、と言われています。 ざんねんながら、Webサイトでも、輿に注目した部分は少なく、次の新しい「画像むといわれても、中々、見つかりません。 先の回答の写真で思いを巡らせてください。
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- goo-par1732
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調べました。 牛車を使用したのは大津宿までです。 江戸城へ輿入れする日、清水屋敷から「真新しい牛車」で出発したという事実と重ねて考えてみますと、おそらく、牛車は大津宿で分解されて大切に婚礼荷物と一緒に運ばれたと思います。 婚礼荷物は、中仙道垂井宿から美濃路に入り、東海道を通って江戸に運ばれています。 牛車の使用を最小限に抑えたのは、輿入れの日に備えたという理由のほかに振動で車酔いがひどいからだそうです。 「輿」は、肩に担ぐ「肩輿」ではなく「腰輿」ではないでしょうか。 天明7年(1787)将軍家の「種姫」が紀伊徳川家に入輿したときの図では、腰輿です。 http://travel.jp.msn.com/special/news/48861.htm 必要な道幅は、「腰輿」も「牛車」も大差ありません。 なお、牛車を牽く牛は特別に飼育された牛です。 http://www.yakitori-jp.com/encyclopedia/histry/hhtml/edo14.html
お礼
毎度ありがとうございます(^-^) 大津まで牛車で、後は輿ですか。 いや~すごいです。 自分は図書館等にも行きましたが、調べられませんでした。 ありがとうございます。(^-^)。 牛車は東海道を運ばれ、江戸で組み立てられて主の到着を 待っていたんですね、なるほどなるほど。 しかし、こんな一大イベントなら、岐阜や信濃でも、 もっと行列の様子が残ってて良いのでは?と思いますが、 幕末で物騒だったのか、警備も厳重で、 一般庶民がず~と見れるものではなかったんでしょうか。。。 (当時の幕府がどこまで威厳を示せたのかも興味深いですね) いやはや、興味は尽きないですな。 車酔い・・・(^^;確かにとんでもなく揺れそうです。 腰輿ですか・・・上に担ぐと不安定ですし、大名のような ぶら下がりの駕篭タイプでは取り回しが大変、 ということでの腰輿なんでしょうか? ん~、輿一つとっても、奥が深いですね(^^;)(無知なだけですが) ひとまず、ここらで閉め切りたいと思います。 投稿ありがとうございました。
- 川原 文月(@bungetsu)
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NO1.です。 NO2.の方と争うつもりは「もうとう」ありませんが、 NO2.の方のサイトを見て、確かに、糸毛車との記載はあります。 しかし、東海道などと違い、山中を通る山道ですので、牛車でそのまま通ったとは、ちょっと、考えられません。 また、史料の中でも「馬」の徴用は記載されていますが「牛」の徴用は、全く出てきていません。 中山道は、宿場街付近は、まあまあ、路の広さもあったと思いますが、山中の道幅の拡張などの史料は一切ありません。 ただ、通過した12藩の負担としては「橋の整備および修復」や「沿道を掃き清める」「沿道の草刈をする」等は、実際に「あった」ようです。 私の推測としては、牛車は、京都の御所を出立する・・・そして、ある程度、なだらかな沿道までは、牛車で、「権威」を見せ付けていたが、やがて、本格的な山道になった時には、人力による担ぎ「輿」になったと考えられます。 なにせ、前回のサイト紹介で、石段の道などもあり、牛車で、全ての行程がなされた・・・と、言うには、少し「無理」があるような気がします。 まあ、いずれにしても、実際の「糸毛車」や「輿」が残っていないところに「ロマン」が掻き立てられるのかもしれませんね。
お礼
こんばんは。 たくさんの書き込みありがとうございます(^-^) 質問をした者としては感謝感謝です。 そもそも今回の和宮の降嫁に興味を持ったのは、 自宅の近くに中山道が通っており、それを知らずに 3年間も毎日使っていた、ということに始まります。 (ただ、家の近くには「中山道」を示すものは無かったんですけどね) 県内の中山道は一応走破して、さて、一大イベントの 和宮の行列は・・・?と思った次第です(^^)。 100年以上前のことに思いを馳せる・・・時代のロマンですね~♪ 回答ありがとうございます。
- goo-par1732
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#2です。 江戸時代の内裏の御用を勤めていた木子家に伝えられていた資料の中に 和宮様御召車として牛車を製作した記録(図面)が残されています。 http://www.library.metro.tokyo.jp/12/kigo_dat/kg_044.html [木044-2-21] 車/糸毛車図(見取図)(くるまいとげくるまずみとりず)/外題「和宮様御召車 申年十一月 絲毛仕立御車」,裏面「木子扣」//[万延1.11(1860)]/<木子清敬> 前回、「江戸城へ輿入れする日は、真新しい牛車で出発しています。」と回答しました。 もし、想像を許されるなら、行程のかなりの部分を牛車で通行したので、牛車は汚れて、そして傷んだことでしょう。 その牛車を整備して「真新しい」状態にしたと思います。 和田峠の今の様子から、かっての中山道の道を想像する場合は、道というものは、往来が久しく途絶えると、草木がはびこって、やがて忘れられて、消えてしまう運命にあるということを考慮すべきではないでしょうか。 旧道を見るときは、まわりの木の樹齢から判断されてはいかがですか。 百年前にこれらの木はあったのか。 和田峠は、ハイキングコースとして整備されていますから、道としてはまだよく残っている方です。 鳥居峠も馬籠峠の石畳も今はでこぼこですが、かっては整備が行き届いていたに違いないと思いつつ、歩いたことがあります。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 >>瓦版等には牛車が書かれていた事からすると、 中山道を実際に行く時は乗り換えたんでしょうね、納得です。 確かに、NO2.の方の瓦版には、「車輪」が描かれていますね。 しかし、もう、この時代には「輿」を引くとすれば、「牛車」は廃れており、「馬」で引くか、「人力」だったと思います。 多分に、瓦版の牛車は、京都を出発した時のものか、あるいは、読む人の興味をそそるものではないか、と考えます。 中山道という狭い山道では、「車輪」では通れず、輿はすべて人力により担いだと考えます。 次のサイトで「往時のままの和田峠道」がありますが、人一人が、やっと、通れるくらいの道幅ですよね。 http://www.geocities.jp/gkhyagi/5kaido/go-11nakasendo69-1.htm 次のサイトでも、写真で、石畳の道や石段の道、そとて、道幅を想像させる絵図などが載っています。 http://mrmax3.hp.infoseek.co.jp/kiso10.html 従って、「車輪」付きでは、とうてい、通れなかったと思います。 >>また、行列が12里にも達するということは、先頭が次の宿についても、最後尾はまだ前の宿の中、ということも十分ありえるんですね。 通貨するのに4日間、ということは 先遣隊⇒本隊1⇒本隊2⇒ 後発隊でしょうか? 街道筋の人々にとっては一大イベント(大変)だったでしょうね。 過去ログで、和宮の降嫁ルートについて、私が述べた記事があります。 少しでも「参考」になれば・・・。 http://okwave.jp/qa4284340.html
- goo-par1732
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行列の瓦版がすぐに何種類か、発行されています。 京都の桂宮邸から江戸城近くの清水屋敷までの行列の様子を、ネット上で見ることができます。 岐阜県御嵩町みたけ館 般―1033 瓦版、和宮様御降嫁行列附、役人附 http://www.town.mitake.gifu.jp/data_box/sys/result.cfm?obj=idx&WD=2 拡大しても少し見にくいですが、画面中央右の牛車で、牛車の車箱を色糸で飾った糸毛車です。 糸毛車のことは知りませんので、ネットで調べました。 糸毛車 http://fine.tok2.com/home/bookend/zatu/kuruma/index.html 江戸城へ輿入れする日は、真新しい牛車で出発しています。 瓦版「内親王和宮様 清水御屋形ヨリ御城御入車」があります。 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1999news/04/402/40201.html 参考資料 角川選書 関口すみ子著『大江戸の姫さま』
お礼
goo-par1732 様 回答ありがとうございます。 とても参考になります。 え、!!!牛車の糸毛車ですか!! 中山道の険しい道を考えるとちょっとびっくりですが、 瓦版に載っているとなると信憑性も高いんでしょうね。 これを通すとなると、道の整備をしたというのも うなずける話です。 自分は、どちらかというと葱花輦(そうかれん)のような 天皇が使う人が担ぐ輿を想像していましたので、 ちょっとびっくりです。 自分ももう少し調べてみます。
- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 和宮の乗ったと思われる「輿」と「行列」は、次のサイトが近いと思います。 http://www.deaihaku.com/haru/27.htm そして、右上の写真に女「輿」が見られます。 まあ、もう少し「派手」だったとは思いますが・・・。 この写真では「御簾(みす)」が巻き上げられていますが、和宮は御簾を絶対に開けなかったと考えられます。 また、雨などの時は、御簾の外側に金糸、銀糸で彩られた布の雨除けが被せられました。 担ぐ人の衣装もまあまあ「こんなもの」だったと思います。 次のサイトも参考に・・・。 ただし、このサイトの写真では、ちょっと、お粗末ですが、イメージとしてはこのような感じだったかも・・・。 また、この写真では、輿の下に袴(はかま)を付けて車輪まで取り付けてありますが、これは、担ぐ人も少なく、アスファルトを考慮して取り付けたものと思われます。実際には「人力」だけで担ぎ、車輪などは「無かった」と考えます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Aoi-Matsuri-01.jpg
お礼
早速の回答ありがとうございます、助かります。 ネットの中を探していると、駕籠や乗物的なものが 和宮の御輿として紹介されてたり、また牛車っぽいもの があったりしますが、やはり頭の上に担ぐタイプになるんでしょうね。 自分が調べた限りでも、多々行われている和宮行列で 同じようなタイプの輿にのっているようですが、時代考証も されているんですね、聞いて良かったです。 ただ、御簾(みすと言うんですね)も恥ずかしながら具体的な物が わかりませんし、もう少し具体的に知りたいものですので、 当時の文献などで画の付いているもの(の情報)を引き続き お待ちします。 よろしくお願いいたします。
お礼
ありがとうございます、丁寧な解説で分かりやすいです。 画像は自分で探しても見つからず、半分あきらめていましたが、 なんとか想像できそうです。 江戸時代後期の人物に思い馳せるのも面白いですが、 使っていた道具も興味深いので、コツコツと調べていこうかと 思います。 瓦版等には牛車が書かれていた事からすると、 中山道を実際に行く時は乗り換えたんでしょうね、納得です。 また、行列が12里にも達するということは、先頭が次の宿についても、最後尾はまだ前の宿の中、ということも十分ありえるんですね。 通貨するのに4日間、ということは 先遣隊⇒本隊1⇒本隊2⇒ 後発隊でしょうか? 街道筋の人々にとっては一大イベント(大変)だったでしょうね。