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「前世」は、いつ、どこにあるのでしょうか?
「前世」があると考えている方、あるいは、あるかないかは別として、「前世」について調べたことのある方にお聞したいことがあります。 ひとことで言うと、「前世」について、もう少し「具体的」に知りたいのですが、以下のことがわかったら教えてください。 (1)「前世」が意味する事は、具体的には、現在我々が住んでいる地球の過去のどこかに「生きていた」ということでしょうか? それとも、現在我々が住んでいる地球とは別の世界(宇宙の他の場所、あるいは、現在我々が存在している宇宙とは別次元の世界)に住んでいたということでしょうか? (2)「前世」は、どのくらい過去に遡れるものでしょうか? 例えば、我々が現在住んでいる地球に人類が登場したのは、数万年前(?)とすると、それより前の「前世」はなかったと考えられるでしょうか? よろしくお願いします。
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こんばんは。 お返事がずいぶんつっこんだ物だったので、僕はこれに返事できるくらい考えてたかなーと不安ですが。 でも今回も書いてて考えさせられたし、勉強になりました。 話はあらぬ方向に行ってるみたいですかいいでしょうか? とりあえず推測だけ書きます。 あと、僕は客観と主観の完全な定義をまだ見つけてないので、不完全なままいろいろいうのは混乱の元なので心配です。そのへん割り引いてください。 では上から一個ずつ >科学の客観的スタンスというのは、客観世界、すなわち、物質世界が、各人の心の有りようとは独立に存在することを認める立場 これは、僕は聞いたことがないんですが。別に否定や肯定ではなく、これはある種の暗黙の了解であり、明文化はされてないのでは?「人間原理」とか言う言葉もありますし、グレーゾーンではないかと思います。 独立して存在することを「あっているか間違っているかはわからないが前提」とする、なら分かるんですが。細かい話ですけど。 >客観と主観を統合するのに、何故、感覚の論理が必要なのでしょうか 感覚の論理が何かわかっているという前提で書きますと、それは僕が他の手段を思いつかないからです。他に手段があるならすぐにでも飛びつきたいんですが。 >「主観」と「客観」の定義 これは僕の一番のテーマです。 ほんとに最初のころ、頭に浮かんだのが「客観性と主観性の関係について」で、その後ずーっと考えてました。 僕の客観と主観は、「客観感覚」と「主観感覚」という意味です。 で、言われるとおり定義が違うと思うので、僕の考えを。 と言っても定義ではありません。客観と主観の「性質」についての分析です。それをとおして、2つの本質に迫りたい、という方針です。 結論としては、客観と主観は、存在と関係、と言い換えることができる。存在と関係は相補的であり、この世の本質の2面の表れだ、というのが、今のところの結論です。大幅に途中省略しましたが。 この結論が出たので、存在直観と関係直観、という考えが生まれました。 直観=総合判断力、というのが現在の僕の定義です。ほんとうだろうか? >分析の論理ではなく、統合の、あるいは帰納の論理 具体例としては、本を読んでて、情景描写をして納得がいったことがあると思いますが、その時の感覚です。 統合機能の論理としては、推理小説での探偵の推理があります。明智小五郎や、金田一耕助の推理、推理の論理はまさに帰納法だ、と思うんですが、あまりここはつっこんで考えてませんが、直感的にそう思います。状況証拠、というやつでしょうか? 具体例が足りなくて済みません。 こういう推測能力がないと社会が成り立たないですし。 あるいは、ある時間に、ふと、今からなにしよう?と考えるときの考えは、個人的には帰納の論理だなーと自分で思うんですが。 >、「納得感」の有無に関わらず存在する客観的事実 納得感のない客観的事実は、多分ないと思うんですが。それらはすべて人の脳を経由しているため合意感覚は避けられないと思います。 赤ちゃんとして生まれて初めて外の事物にさわり、毛布の手触りや、目に見える物や、それらの相当統合としての現実を認識し、そういうものだと納得した、そのもっとも基礎的な納得事項が現実だと思います。客観もそういう無意識の合意の上にあると思います。心理学的になりますが。例外としては、量子力学の2重スリットの実験とかが僕はありますが、それはそれで納得できます。 あと、論理についてですが、僕はこれを「論理直観」と呼んでいます。論理的推論における整合性は、それは論理的だと思うときある種の「すっきりした」感じがあります。僕等は、1+1=2であると信じますが、それが正しいと思うのは、経験と内面感覚が合致するところの、直観という名の判断力だと思います。1+1=2であり、3ではない、ということを、僕等は5感の経験を通して正しいと思いますが、なぜ3じゃないのか、という疑問には答えられません。それは総合判断力である直観でそう思うからです。日本で1+1=2なら、アメリカでもノルウェーでもそうだろう、という判断は、直感的だとしか言えないです。論理的に正しい、すっきり!という感覚を、直観と呼んでます。思考と感覚は切っても切れない、といってもいいですし。 直観だ、という理由として、例えば殺人犯に「本気で1+1=3だと思え!!」とか言われても、仮に命がかかってても、1+1=3だとは僕は思えないです。無理です。その深さは単なる思いこみを越えて、ある意味の本質~直観だと感じます。そんなことを本気で信じるのは、ある種の自己否定、といえます。体が死ぬか、心が死ぬか、のレベルの問題なので。 客観的な事実に対しての納得感とは、最大公約数的なところがあります。多くの人の総意でもあるし、また自分の内面と外面感覚と経験、すべてのすべての条件に対して整合性がとれている、と感じるとき、それは客観的だ、とも感じるかもしれません。一つも自己中心的なところが無く、自分にも他人にも当てはまるだろう、というもっとも深い直観の判断です。 >帰納は、経験を元に見出す知見で、演繹は、経験から離れた論理的推論 これも僕は定義が違うんですね。言われてそうだなーと思いました。 これでも正しいと思うんですが、何か曖昧な定義だなーと感じませんか?経験を元に?どういう意味?とか、 経験から離れた、ってなに?とか、経験ってなに?とか、論理的とは?とか、つっこみどころ満載な気がするので、偉そうですがこの定義は使ってません。 >自分の心の内側に関することなので、主観的なことだと思います これは、こうやって言葉にしてる地点で、あるいはこのHPに来てものを考えたり言葉を使って表現する地点で、基本的には客観的な姿勢を取っている、という意味です。 僕が本当に主観的なとき~~良く雲を見るのが好きでボーッと見るんですが、そう言うときは感動で胸一杯で、考えても居ませんし言葉もしゃべりませんし、そもそも自分すら居ません。自分は雲と一体なので。その時はあとから把握する自分ができたときに、あれは主観的だったなーとは思いますが。 僕は個人的には、この辺りの基本的なところから定義しないと、主観と客観を分離できない、と思います。といってる僕も別に完全に分離した訳じゃありません。 例えば、きれいな花が道ばたに咲いていたとします。花がきれいだなーと思うのは、僕の定義では、主観です。花がある、と思うのは客観です。言い換えると、きれいな花が咲いてる~!、と感じるのは、主観と客観のミックス、といえるかもしれません。 >この存在直観、関係直観については、全くお手上げでした。「物心一如」と何か関係があるのでしょうか? これは本題と関係ないので、流れで書いたですが済みません。そのーー、関係と存在は、上に書いたように、客観と主観を作り出す原動力なので、物心一如は、物と心、つまり客観感覚と主観感覚の象徴が、物と心なので、関係はあると思うのですが、ただこれは、僕の理屈では、ということです。言葉の定義の問題もありますし、定義が変わればこの話はもちろん間違いですが。 >客観世界とは、心(主観世界)から見て、”あたかも”心の外にあるかのように見える世界 上の雲の話でもありますが、そもそも主観世界では、ある、とか外とか内とか、そういう感覚は全部なしです。自分も存在しないので。なので、僕の気持ちとしては。 こういう言葉は客観性の中での判断ですし、僕は、哲学タイプの人が言うところのこの手の定義には、微妙な間違いがあるなーと感じます。 物心一如とは、このなんにもない主観と、何かがある客観を一人の人間が両方持っているのがおかしいのであって、その分裂が問題だ、という指摘だろうと想像します。 なので、これはやはり論理的に合ってる間違ってるではなく、把握の視点をどこに置くとよりうまく理解できるか、の問題を話してる気がします。 地球を中心に太陽が回ってると考えるべきか、太陽のまわりを地球が回ってると考えるべきか、どちらも正解なのだけど、どちらがよりわかりやすいだろうか、という話見たいかも、と思うんですが。 >主観」と「客観」の意味(定義)をどのように考えておられるかがわかれば 僕等の脳は、一つの現実に対して、常に無数の意味を重ねてレッテルを貼ります。例としては、多義図形があります。エッシャーのだまし絵とかご存じでしょうか? あるものの「意味」など、こちらの思い方次第で、同じ物に対して意味は無限に付加できます。 主観と客観も同じなので、その定義、というより、それがどんなものか、という総合的把握ができるように、主観や客観と「等価」なものを見つけることに、流れとしてそうなっています。 定義というよりも、自分の実生活の中で、これは主観、これは客観と、朝起きてから寝るまで360度の感覚を2つに分類できないと分かったことにならないと思うからです。そういう総合的理解です。 それで、具体的に上にも書いてますが、 主観=関係直観の作成物=心=総合判断力・・・と続きます。 客観=存在直観の作成物=自分=把握能力=論理能力・・・ おおざっぱですが。この式の=は、同じ、というのではなく、等価、であったり、同じグループであったり、という分類です。 つまり今、この世にある、人が感じ取れる抽象的要素を、分類作業の最中です。 >「客観世界=心の外の世界=物質世界」、「主観世界=心の中の世界」 主観客観のあとに「世界」が付くと、ちょっとここでは書ききれない量です。前にお答えした中のリンクでもいくつか書いてるんですが。 一般論として、この式は正しいともちろん思いますが、でもここで終わってしまうとおもしろくない(笑)、という感じが僕はしますので。というよりこれはこれでもう正解なので、この話だと、もう主観と客観については話が終わってしまいます。 僕は主観世界を「実在と仮定」しています。それは本当にそういう世界があるんです。(と仮定します)。それによって主観世界は観測の対象になり、その構成要素や性質が分かってきます(と思ってます)。方針としてはそういう姿勢です。 2つの定義を、こうこうです、と簡単に言えたらいいのですが、でも哲学の人がずーっと考えてきて長い間、それでも未だに全く答えが出ていないと言うことは、根本的にそういう性質ではない、という推論ができます。分析の論理ではもともと表現できないからこそ解けない問題として存在するのだ、と想像します。 それらは、把握する意識と人格から見ると、何か一つの要素のように感じますが、実際にはその定義には、ある種の~~背理法や、帰納法的な証明でしか、定義できない存在、そういうものがあるように思います。数学でも現実そうですが、心の要素でもそれはありなんじゃないでしょうか? といっても、憶測ですが。 個人的には、背理法や、数学的帰納法や、補集合など、逆を逆を取ることで証明する論理が大好きなので(数学自体は苦手です)、それを使ってます。 あるいは、主観というものの定義を、徳川家康が、豊臣家の潜む大阪城を、外堀内堀、と埋めて滅ぼしたように、 僕も、主観の定義、という本丸を、その外堀から今埋めていってる最中(のつもり)です。 ど、どうでしょうか? 全体を通して、実は僕もよく分かってません。読まれたら分かると思いますが。 自信はないですが、今分かったと思っている範疇の話でした。
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#16です 話題がが尽きませんねこういう話は大好きです。 ただoilllioさんの仰りたい事は分からぬでは有りませんが根本の部分で勘違いなさっていませんか? ==「赤い色」や「青い色」は心の中にしかありません。このように、物質界には存在していないけれど、心の中には間違いなく存在しているというものがあるという「事実」があります== ==また、我々は見ているこの世界は、全て、我々の記憶の中(脳内)にある世界であって、記憶の外にあるものを直接見ているのではないという「事実」があります== ==すなわち、脳細胞に記録されたものから再構成されたイメージを見ている。従って、これは、我々の記憶の中(脳内)にある世界を見ているということになります== その通りだと思います、要するにこれらを認識するには脳という物体は必要不可欠だと言う意味でも有ります。 ==にもかかわらず、我々は「赤い色」を記憶できます。すなわち、物質はなくても記憶はできるということです== ですから脳という物質が記憶しているのです、何もない空間が記憶しているのではないと思います。 ==と私は思います。どこかおかしいところがあったら、ご指摘ください== oilllioさんの仰っている事は電磁波や物質などには記憶を持つ部分は無いのにはっきりとした色とか性質が有るではないか、だから記憶には物質が不可欠とは言えないでしょう、と言う事なのでしょうけれど少し意味が違うような気がします。色や振る舞いを云々出来るのは電磁波や物質が存在するからであってこれが無ければ全て無意味になります。 ただ今回は人格、記憶を問題にしているのでしょう? まとめると ==私が言いたかったのは、物質界には、様々な自然法則があるということ。しかし、その自然法則自体を記憶している媒体はどこにもないということです== 自然法則を記憶? 自然法則を決定付ける要素と言う意味なら#10で言った酸素や水素の件がそれです。元素の特徴がその後の法則に大きな影響を与えている事は当然だと思いますから自然法則自体を記憶(決定付ける)している媒体とは元素の特徴がそれだと思います。 元素が存在しないのにその性質を云々しても無意味なのと同じで意識を司る脳を無視して意識を語ってもやはり無意味だと思います。 ※記憶=記録=変化した状態を保持、ですから変化する主体が存在しないなら全て無意味だと考えます。 まして人格とは記憶、思考、経験などの集大成ですから単に物質が有るだけでは駄目で人間の脳と言う極めて高度な組織が不可欠です。 上の※印の部分をどうお考えですか?
お礼
>自然法則を記憶? この件については、前回書かせていただきましたように、ご解答いただいた説明の意味がよく理解できませんでした。その理由は、多分、「自然法則を記憶」ということの、私の説明が拙かったためだと思いますので、あたらめて、説明させていただきます。 「物質そのもの」と「物質のイメージ」の関係は、「コンピュータ本体」と「ディスプレー」の関係に喩えることができると思います。我々は、コンピュータのディスプレー上の画像をマウスで見ながら操作できます。例えば、ディスプレー上で2つの円が接近してきて、ぶつかると、跳ね返ったとします。このとき、我々は、この2つの円のイメージそのものが反発する働きを持っていると考えるでしょうか? 通常はそうは考えないと思います。通常は、この2つの円の動作を定義するプログラムとデータをコンピュータのメモリ上に持っていると考えると思います。もし、このように考えるとすれば、物質としての電子が接近して、やがて、反発した場合も、その電子の動作を定義するプログラムとデータに相当するものがどこかに記憶されていてしかるべきだというのが私の疑問です。 >※記憶=記録=変化した状態を保持、ですから変化する主体が存在しないなら全て無意味だと考えます。 まして人格とは記憶、思考、経験などの集大成ですから単に物質が有るだけでは駄目で人間の脳と言う極めて高度な組織が不可欠です。 上の※印の部分をどうお考えですか? まず、「人間の脳という物質」については、実際に存在しているのは、「人間の脳という物質」ではなく、「人間の脳という物質のイメージ」だと思いますが、ただ、それは、「物質のイメージ」=「物質」と定義すれば、在る意味同じことになるので、あまり本質的でないかも知れません。しかし、もっと本質的なことは、「心に抱いたイメージ」は、そのままの形で「人間の脳という物質のイメージ」に記憶させることはできないということです。脳は所詮、コンピュータのメモリと同じではないでしょうか。すなわち、1/0情報の体系に過ぎないと思います。 追伸: 我ながら、あまりうまい説明のしかたではないなぁと反省しています。今の段階では、ちょっとこれ以上良い説明が思いつきません。わかりにくいと思いますが、済みません。
補足
ご回答ありがとうございました。 >ただoilllioさんの仰りたい事は分からぬでは有りませんが根本の部分で勘違いなさっていませんか? そうですね。この疑問にお答えするには、やはり、もっと根本的な疑問からスタートするしかないように思いました。最初の疑問は、「人間の記憶は全て物質である脳の中にあって、それ以外の場所にはあり得ない」ということに対する疑問でしたが、この疑問の背景には、そもそも、「物質とは何か」という疑問があります。 物質とは何でしょうか? 私は、我々は、「物質そのもの」については何も知ることはできないと思います。と言うのは、我々が物質世界と言われているものを認識するのは、常に、我々の心を通してだからです。「物質そのもの」については、心というスクリーンに映し出された「物質のイメージ」を通して推測するしかないからです。そもそも、「物質のイメージ」以外に、「物質そのもの」などというものが「心の外に」存在しているのかどうかすらわからないと思います。 科学が明らかにしたことは、「物質そのもの」ではなく、あくまで、心に映った「物質のイメージ」の運動が数学的シミュレーション・モデルによって計算した結果の通り動くということです。分子とか原子とか言っているのは、数学的シミュレーション・モデルであって、何らかの実体ではないということです。 と私は考えます。 (注)常識的には、「物質のイメージ」を「物質」と呼んでいるのだと考えれば、特に混乱はないかも知れませんが、この違いを明確にしておかないと、もっと本質的な議論ができなくなってしまいます。 >その通りだと思います、要するにこれらを認識するには脳という物体は必要不可欠だと言う意味でも有ります。 これは、「脳という物体」を「脳という物体のイメージのこと」と考えれば正しいと思います(本当はちょっと不正確ですが)。ただ、「脳という物体」が必要不可欠だとして、それは、記憶(正確には記憶のアクセス)の必要条件ではあっても、十分条件ではないと思います。何故なら、我々が心の中に抱くイメージは、「脳という物体」の中には存在していないからです。例えば、実在しない架空の動物を心にイメージした場合、そのイメージは、心の中にあるのであって、「脳という物体」の中にあるのではないからです。 心の中にイメージを持つことで、「脳という物体」に何らかの変化を与えることは確かだと思います。しかし、それは、イメージそのものの記憶ではないと思います。恐らく、心の中のイメージを呼び出すためのアクセス・タグのようなものではないかと思います(この辺はかなり宛て推量です)。いずれにしても、「脳という物体」がありさえすれば、人の経験を記憶することができるということはないと思います。もし、それができたら、そもそも、「心」などというものが存在する必要がなくなるのではないでしょうか。 例えば、意識をなくした植物人間の脳は、何かを記憶できるでしょうか? >ですから脳という物質が記憶しているのです、何もない空間が記憶しているのではないと思います。 「物質」というものが、何らかの実体として存在しているのでしょうか? はっきり実体として存在を確認できるのは、「心に映った物質のイメージ」だけではないでしょうか? 「何もない空間」というのは、3次元空間のことかと思いますが、その3次元空間というのも、「心」が生み出したイメージではないでしょうか? <以下、お礼に続く>
- sheep67
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質問と直接関係ないですが。 アカシックレコード、という言葉があります。 といっても、現在科学的説明もないみたいですし、ややスピリチュアルよりの考えですが。 これも空間が記憶する、という考えですが、前世や、死後の世界があるなら、そう仮定するなら、あることを前提に考えるなら、それを論理的に説明するために、この考えは悪いものではない、と思います。 記憶ー特に人格の記憶や、意味付け、記憶に伴って感じられるクオリアなど、不明なものも多いですし。まだまだ追求が進めばなにがでてくるかわかりませんし、それが、空間記憶の存在を導く可能性が0というわけでもないですし。 現在観測にもかからず、確実な論証もないのですが。 個人的には嫌いでない考えなんです。 前世については、あるいは死後の世界もですが、あるといいなー、でも証拠もないのに信じるのは、ある種の依存心になるしなーと、思ってます。 もう知っておられたらごめんなさい。
補足
ご回答ありがとうございます。 アカシック・レコードという考えは面白いですよね。 これが、現在の科学で説明できないとかできるとかの話については、できないに決まっているので、それは、横に置いておいて、私の一番の関心事は、まずは、アカシック・レコードというものが論理的な可能かどうかということです。 例えば、「記憶」というのは、まず、第一段階としては、「誰かの記憶」ということになります。ところが、「誰かの記憶」というのは、一般に、かなりいい加減です。そのようないい加減な「誰かの記憶」を全部集めても、全体として完全な記憶ができるとはとても思えません。 これに対して、「記憶」というものを「誰かの記憶」ではなく、誰にも依存しない「客観的記憶」が可能だと考えるとどうなるのでしょう。その場合、この世界のありとあらゆる事柄をビデオカメラで摂ったものアーカイブに格納するというイメージになりますでしょうか。ところが問題は、「人の心の中の記憶」をどうするかということです。これは、ビデオには撮れません。そうすると、結局、また、個々人のいい加減な記憶を集大成するしかなくなってしまいます。 どうも論理的にはなかなかうまく行かない。何かよい解決策があったら教えてください。
#10です ご丁寧なお礼感謝します。 ところで ==この疑問の背後には、「人間の記憶は全て物質である脳の中にあって、それ以外の場所にはあり得ない」という「信念」があると思います== 勿論有ります、と言うか人間の理路整然とした記憶が物質が一切存在しない無の空間にも記録保存される筈だと言う理由がわかりません。記憶とは記録だと思いますし記録とは状態の変化を持続させる事だと思いますので物質の存在は絶対条件と考えます。真空中にさえ人間の人格、記憶が保持されると言う考えはイメージが全く沸きません。 ==記憶のメカニズムは、科学的には、まだ、ほとんどわかっていないと思います== そうかも知れませんが脳細胞間のシナプスの信号授受で記憶や思考が行われている事は証明されていると思いますが。 ==「物質の性質」に関する記憶は、どこにも記憶場所などなくても、間違いなく、働いているという事実があるので、「記憶」があるためには、「物質」がなければならないという話は絶対的なものではないのではないかと思います== たとえば電子Aと電子Bの性質に差が有るならそのような事も言えると思います。ABの電子はその構造に全く差は無く、他の条件も全く同じなのに異なる振る舞いを示すならそのような事も言えますが実際は無いと思います。 酸素原子と水素原子は外部エネルギーで簡単にくっ付きますがこれは原子の構造に起因する事は明らかで、まして酸素や水素と言う実体が無ければ【くっ付く性質】も存在しないと思います。仮にこれらの原子から電子を一個ずつ除いた場合全く違った性質を持ちますがそれは電子を今の状態にする事つまり物体を変化させることで【くっ付く性質】と言う記憶を持たせたのだと考えられませんか。 情報を記憶するのに物質が全く無くても可能だと言うお考えはあまりにも難しすぎて全く理解できませんです。ひとつ位そのような実例がありますか?
補足
ご回答ありがとうございます。 >真空中にさえ人間の人格、記憶が保持されると言う考えはイメージが全く沸きません。 >情報を記憶するのに物質が全く無くても可能だと言うお考えはあまりにも難しすぎて全く理解できませんです。ひとつ位そのような実例がありますか? ひとつの具体例として、信号機の赤、青、橙色を見たとします。 我々の意識は、赤を「赤い色」と感じます。青を「青い色」と感じます。 しかし、物質現象としては、信号機の赤は、例えば、650ナノメートルの電磁波を発信しているだけで、「赤い色」を発信しているわけではありません(電磁波そのものに色は付いていません)。青、橙も同様です。では、その「赤い色」や「青い色」はどこに存在しているのでしょうか? 少なくとも、物質界に存在しているわけでないことは確かです。「赤い色」や「青い色」は心の中にしかありません。まず、このように、物質界には存在していないけれど、心の中には間違いなく存在しているというものがあるという「事実」があります。 また、我々は見ているこの世界は、全て、我々の記憶の中(脳内)にある世界であって、記憶の外にあるものを直接見ているのではないという「事実」があります(「赤い色」などは例外です。その説明は以下)。 なぜかというと、我々はこの世界を見るときは、我々の心は、念力でこの世界を直接見ているわけではない。そうではなく、目を通して見ている。さらに、目を通して見ているだけではなく、視神経や脳の視覚像を処理する細胞を通して見ている。すなわち、何らかの形で脳細胞内で物質状態に変換されたものからこの世界のイメージを再構成している。すなわち、脳細胞に記録されたものから再構成されたイメージを見ている。従って、これは、我々の記憶の中(脳内)にある世界を見ているということになります。 ところが、この脳細胞に記憶されている情報に中には、「赤い色」という情報は記憶されていない。何故なら、650ナノメータの光が網膜に当たったとき、「650ナノメーターに感応する網膜の細胞が刺激されたという事実だけが情報として脳内に伝達されるからです。それを脳細胞で記憶しているだけだからです。脳細胞が記憶できるのは「650ナノメーター」という情報だけであって、それが、「赤い色」だという情報は記憶できません。要するに「650ナノメータ=赤い色」という対応関係は、脳の中のどこを探しても記録せれていないのです。その関係は、少なくとも、現在知られている物質界の中には記憶されていない情報です。にもかかわらず、我々は「赤い色」を記憶できます。すなわち、物質はなくても記憶はできるということです。 と私は思います。どこかおかしいところがあったら、ご指摘ください。 >そうかも知れませんが脳細胞間のシナプスの信号授受で記憶や思考が行われている事は証明されていると思いますが。 大雑把に言えば、おっしゃる通りかもしれません。でも、その大雑把さは、コンピュータは、「記憶装置と演算装置からできている」と言うのと同じレベルでの大雑把さだと思います。例えば、「今日は疲れたのでビールを一杯飲んでから帰ろう」と思いつつ、泡のあふれるジョッキや焼き鳥のイメージを心に浮かべているときの脳内活動が実際どうなっているのか、さらには、それがどのように脳内に記憶されるのか、その具体的なことは全くわかっていないと思います。 >たとえば電子Aと電子Bの性質に差が有るならそのような事も言えると思います。 この電子に関する説明は、おっしゃりたいことがあまりよくわかりませんでした。そのため、以下の説明は、とんちんかんかも知れません。 私が言いたかったのは、物質界には、様々な自然法則があるということ。しかし、その自然法則自体を記憶している媒体はどこにもないということです。例えば、「上田さんが怒りっぽい人で良く人と喧嘩する」という性質は、上田さんの身体や脳(などの物質的なもの)の中にその記憶(原因)があると一般には考えるのだと思います(私は必ずしも、物質的なものだけとは思いませんが)。そのように考えた場合、では、何故、それが可能なのかというと、上田さんが、単一物質ではなく、何らかのシステム(多くの部品、すなわち、脳、神経系統などがあり、それが、有機的に繋がっている)であるためだと考えられているのだと思います。同じ発想を、例えば、電子に適応した場合、電子が持つシュレーディンガ方程式に基づた行動をとるという性質は、電子が多くの部品の有機的統合体としてシステム化されていないと実現できないということになります。ところが、現実には、電子は素粒子であり、それ以上分割可能な部分を持ちません。 というような感じです。 よろしくお願いします。
- big-rex
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>私の守護霊が職場放棄してどこかに遊びに行っちゃったということでしょうか? そこでまた 数種類の設定が発生する訳ですよね 放棄しているのか? 守護霊が甘いから記憶を抜かれるのか? 睡眠時何らかの守護霊との交流があり、前回を見せてもらっているのだけど、目覚めたら忘れてしまっているのか? もう無限に作れます。 否定派の前世に対する矛盾点も、幾らでも新しい設定でひっくり返せます。簡単な事なんですね。 あ、因に私は睡眠時の交流を支持しています。
お礼
ご回答ありがとうございました。
NO11です。補足質問へ回答させていただきます。 >なぜ、中間世にいたときの自分の現世での使命とか目的とかを皆が覚えているようになっていないのでしょうか? それは逆にそれこそこの世に出てくるからこその楽しみでありますし、また決意が本物かどうかを試し確認するためでもあります。 例えばテストやクイズで回答が先にわかったまま問題に向かっても何のやりがいも感じないでしょう。宝探しも同様です。 記憶として明確には無いけど、深い決意として心に刻んだ志として出てくるものこそ本物であるわけで、記憶が無いからこそ自分の志が本物だったのかきれいごとだったのかわかるわけです。それが次のステップにもつながるのです。 また、自分が実は聖徳太子だったことが最初からわかっていたらプレッシャーになるだけだし、おもしろみもないでしょう。 なお、「後輩の指導をしよう」と思うような優れた魂ほど通常はむしろ志がしっかりしていて、実現する力を持っているものです。ただ、そういう優れた魂は人数としてはやや少なくなるということはありますが。 >そもそも心だけの人間関係というのを具体的に想像するのがかなり難しいのですが… 4~6次元の人は、この世の人間の肉体と同様な姿でいることが多いようです。わかりやすく言うと、「夢」で色々な人に出会うと思いますが、あれと同様です。「夢」を見ている時は、魂が肉体から抜けてあの世に行っている状態であることも多いのです。肉体の姿のイメージを自分が持っていれば、そのような姿になるのです。幽霊もいい例の一つです。肉体はもう無くて魂なのですが、あのような感じで存在することができるのです。 7次元以上になると、人々を救おうとか思って忙しくかけ回っているうちに、ふと気付くと肉体の姿をとっていなくて意識として存在していることに気付くというようなこともあるようです。もちろん肉体の姿をとろうと思えばそのような姿になりますが。 >次元の異なった世界に住んでいる人の間では交流はあるのでしょうか、それとも、没交渉でしょうか ~ 4次元より次元の低い3次元に住む我々は、全員が地獄に住んでいるという意味でしょうか。 東京ドームの中に缶詰がたくさんあるという状況をイメージして下さい。 東京ドームの中がこの世(=3次元)の宇宙・地球であり、その中に肉体(缶詰)に入った魂(缶詰の中の気体)がいるようなものです。 死ぬと缶詰の中の気体が空中に出、ドームも抜け出ます。(幽霊は物質ではないので壁を抜けられるのと同様です。) あとは気体の比重に応じて層が分かれて存在することになります。 ただ、単なる気体と違って魂には意識がありますので、上の層から下へ行くことはできますが、下から上へは通常行けません。 例えば、私が聖徳太子のように生きようと思っても無理なのと同様です。そんな立派な心境にはなれないからその層へは行けないわけであり、逆に優秀な魂はレベルを落として合わせることはいくらでも可能だということです。 この層を下のレベルから4次元5次元~と言っているわけです。 4次元以上はあの世の霊界世界になります。 3次元だけは特殊で、物質の世界になっていて、それは上述したように東京ドームや缶詰(=3次元物質界)の中に「気体」(霊)を閉じ込めることで、あの世では気体として各層に分かれるしかなかった霊達が自由に出会うことができるというわけです。 4次元以降は東京ドーム(3次元物質界)の外に広がっている霊界だという感じです。 ただ、生きている時は、3次元缶詰の中に気体(4~9次元霊)が入っているという形になります。 そして死ぬと3次元缶詰・ドームから抜け出て、外のあの世(4~9次元世界各階層)へ行く、という感じです。 ただ、これは一つの例えとしての描写ですので、厳密には別の説明もできるのですが、まあ一例描写として説明した次第です。 ですので、3次元は4次元より低いから地獄か、というとそうではなくて、3次元だけは物質界として特殊だということです。霊存在(4~9次元霊)を閉じ込める物質界だというだけのことです。 また、地獄では肉体が無くても熱かったりするか、ということですが、あの世はどこも心情やイメージがそのまま実現する世界ですので、相手に殴られたと思えば痛い感じがしますし、逆に弓矢しか知らない人へ戦闘機から爆弾を落としても、「でっかい鳥がフンを落としてきた」としか認識できないと実際そのようにしか感じられないわけです!また、他者から実は多くを施されていても心が不足不満渇望状態の人は、砂漠の灼熱地獄をさまよい続けるように、その心情そのままの世界で実際に苦しみを味わい続けることになるのです。
補足
ご回答ありがとうございます。 >例えばテストやクイズで回答が先にわかったまま問題に向かっても何のやりがいも感じないでしょう。宝探しも同様です。 現世が修行の場ではなく、ゲームの場ならよくわかります。「学校」のたとえは非常にわかりやすかったので、その例で考えると、「学校」の進路を決定するとき、例えば、高校を卒業して建築家になろうと思って、大学の建築学部を選び、実際、大学に入ったら、自分が建築をやりたいと思っていたことを忘れてしまったなどという話になったら、進路を選んだ意味がなくなるように思います。 >肉体はもう無くて魂なのですが、あのような感じで存在することができるのです。 肉体がない魂だけの世界では、病・老・死もなくなるのではないかと思います。そうだとすると、人を殺したり、人のものを盗んだり、飢え死にしたりすることもなくなると思います。そうすると、現世の道徳観(人を殺すな、人の物を盗むな、自分のパンを貧しい人に与えようなど)は、意味をなくしてしまいます。そうなると、魂しかない本来の世界から見ると、現世のルールは余りにも非実際的で、そこで、敢えて苦労する意味は、「ゲーム感覚」な楽しみしかなくなってしまうのではないでしょうか。それならそれでも理屈は通りますが。 >東京ドームの中に缶詰がたくさんあるという状況をイメージして下さい。 この喩えは、すっごくわかりやすかったです!! 特に初め疑問に思っていた「比重」の意味がすっきりとわかりました。 >あの世はどこも心情やイメージがそのまま実現する世界ですので、相手に殴られたと思えば痛い感じがしますし、逆に弓矢しか知らない人へ戦闘機から爆弾を落としても、「でっかい鳥がフンを落としてきた」としか認識できないと実際そのようにしか感じられないわけです! イメージがそのまま実現する世界というのは、ちょっと、想像が難しいのですが、「客観的現実」というものがなくなってしまうのではないでしょうか? Aさんに取って「殴り掛ける」イメージは、殴られるBさんとっては「愛情を持って抱きつかれる」というイメージで捉えることにもなりかねないのではないでしょうか?
No.9です。 >誰から見ても素晴らしい人というのは、難しい気がするのです。 今の現世では何に価値を置くのかとか、何を素晴らしいと呼ぶのかとかいったことには多様な考えがあり、混沌としていますよね。それが今の現世を生き難い世界にしているという事でもあると思うんです。その中で揉まれて切磋琢磨することこそ向上につながるんだろうと思います。つまりこの事は現代に生まれた人間達の課題の一つでもあるんでしょう。 しかし、私達の本来の住処である霊界の価値基準は一つです。それは利他的精神です。利他的精神が強いほど素晴らしいという事です。逆に利己的精神は恥ずかしいです。幽世(かくりよ。あなたの言う中間世の総称)では自分の思ったことが周りの霊に全部筒抜けです。筒抜けになった利己的精神が恥ずかしくて、何としても向上したいと思うものです。利己的に思惟する部分は「弱い部分」「劣った部分」という事になります。 利己的精神は濁りです。 利他的精神は光です。 高次の霊になればなるほど光り輝いています。大霊(天照大神とか、神霊とか言われるもの。霊言を残した霊が感識出来る限界の高次の霊)は最も輝いています。霊界の全ての霊はその光に浴し、自分もより強い光を目指します。 現世生活を霊的に評価するなら、善の動機、利他的動機であるかが根拠となります。やったこと、結果、みてくれなど現世で評価される事はまるで関係ありません。結果や現世利益がどうだろうと、その行為に他者を思いやる真心があるかどうかだけが、霊界では評価されるのです。 もちろん現世では人の心が読めないのでそんな評価は不可能です(それが出来たら霊界と変らなくなって意味なくなります)。でも読心が自在な霊界ではそこしか評価しません。評価は自分でするものですが、誰が評価しても同じです。 >中間世でも、「人間関係や社会関係」があるのでしょうか? 例えば、「類魂の中で次の人生をどんなプランにするか話し合われる」という表現だけみると、個人的な内的対話が中心で、他者の介入が希薄なような気がするのですが、中間世においても、中間世の住人間で、様々な対立関係、競争関係、愛情関係、協力関係、上下関係、家族関係、組織内部関係などはあるのでしょうか? 霊の段階には2種類あります。霊の根本的レベルの問題と、現世の気分を捨て去る(現世の垢取り)の段階があります。 根本的レベルの方は、霊界の中で霊の上下があるという事です。先ほども申し上げた、光り具合いの問題で上下が決まります。そこでは利他的精神が喜びで、利己的精神が恥ずかしいので愛情関係しかありません。相手を思いやる部分しか表現し合おうとしません。弱い部分はなるべく出さないようにします。 そんな訳で協力も惜しみません。 家族関係は、現世の肉の関係はありません。その代わり自分に近い霊達との親和関係があります。自分に近い程寄り集まっています。親和関係をたどって行くと、結局みんなつながっていたという事になります(広義の類魂)。利他性の向上は他者との親和力を強めることでもあります。 ところで、人生のプラン設計に他者の介入が希薄かどうかですが、はっきりとは分かりませんが、周りの想念がつぶさに読心されること、大霊から流れてくる意識をみんな感じている事など、みんなつながっているので、独断的な判断で決定されるという感じでもないように思います。 現世の垢を落とす段階とは、霊界の他に幽界というシャワー室のような世界があり、現世を他界後、そこで魂は類魂に溶ける前に50年くらい垢を落とします(ただし期間は個人差があります)。幽界も垢の落ち具合で明るさ、階層が分かれています。幽界は現世の感覚が継続した世界で、ここで徐々に徐々に霊界の感覚を取り戻して行きます。完全に垢が抜け切ったら類魂に溶ける事が出来ます。 で、どっちの段階にしろ、霊は自分のレベル以外の世界に行こうとはしません。自分の段階を飛び越えて上の階層に行く事は不可能です。自分より下に行く事は可能ですが、不快なのであまり行きたくありません。 長々と説明してしまい、失礼しました。私に答えられるのはそろそろこんなものです。ではそろそろ失礼致します。
補足
ご回答ありがとうございました。 ご回答を読ませていただいて、改めて、色々感じるところがありました。以下は、新たな質問というよりは、感想とお考えいただければと思います。 一番感じたことは、「前世」についての関心の有りどころです。同じ「前世」についての関心でも、2通りの視点があるように思いました。一つは、「宗教的な視点での」前世(あるいは、中間世)、一つは、「現実存在としての」前世(あるいは、中間世)です。 私の関心は後者です。宗教的な視点に全く関心がないとか、無意味だとか言うことでは全然ないのですが、その前に、何よりも「この現世が実際に存在している」のと全く同じような現実的、客観的なものとして考えるところの「前世(あるいは、中間世)」に興味があります。すなわち、「中間世」では、もし、肉体がないのなら、そこではどうやって他者を具体的に識別するのかとか、どうやってコミュニケーションをするのかとか、食っていくために働かなくても良いのかとか、病気になったり、怪我をしたり、死んだりすることがないのかとか、他人に対する好き嫌いはないのかとか、対人関係に悩まされることはないのかとか、そういう非常に現実的・具体的なことがどうなっているのかに関心があります。 そして、思ったのですが、このように、「現実的存在としての」前世に関心を持っている立場から、様々な疑問を持って質問をすると、「宗教的な視点で」前世を考えている方にとっては、ひどく不謹慎な感じを与えるのではないかということです。それで、ここでは、質問というより、私の個人的感想という形で、感じたことを述べさせていただくことにしました。 たとえば、「利己的精神は濁りです。利他的精神は光です。」ということについてですが、現実的には、人の行為というのは、単純に、利己的だとか、利他的だとか言い得ないのではないかと思いました。よっぽど極端な場合は別として、日常の多くの行為は、ある意味利己的ですが、ある意味利他的というのが通常のあり様ではないかと思いました。また、仮に、利己的行為と利他的行為が分離できたとしても、「自分を完全に犠牲にして、ただたただ人のために尽くす」ということが、本当に美しいことなのかどうか、大いに疑問があります。と言うのは、人間は元々、そのようには出来ていないように思うからです。人間は、先ずは、自分のことを考え、あまり自分のことばかり考えていると社会的に立ち行かなくなるので、だんだん、利他的な視点も考慮に入れて行動するようになるし、たとえ、利他的な行動をとるようになったとしても、そのときに、自分を完全に犠牲にするのではなく、自分も一定程度満足した上で、同時に、他者も幸福になれるよう努力するというのが、極自然な人間のあり様なのではないかと思います。だから、もし、「中間世」が、「利己を徹底的に廃し、利他に徹するのが立派なことだ」という唯一つの価値観に支配されているとすると、そこは、私にとってはすごく生き難い世界のように思います。 また、「家族関係は、現世の肉の関係はありません。その代わり自分に近い霊達との親和関係があります。」ということについてですが、この前提として、あの世(中間世)は、肉体がない霊だけの世界だということがあるように思うのですが、そうだとすると、とても疑問に思うのは、「病老死」などが存在しない世界ということになるのではないかと思うのです。そうすると、当然、善悪の定義が、この現世とは、全く変わってしまうと思います。例えば、人を殺すことは良くないと言っても、肉体がないと殺すこともできないわけですし、人の物を盗んではいけないと言っても、盗むものもないということになってしまいます。そういう世界に住んでいながら、敢えて、肉体や物がある現世に生まれて、本来のあの世とは異なったルールが支配する現世で、その現世でのみ通用する善悪観を元に行動しても、どういう意味があるのか、あまりよくわかりません。一つ、よくわかる説明があるとすると、それは、この現世は「ゲーム」なんだという見方です。これなら、よく説明が付きます。でも、宗教的な視点では、このような考えは不謹慎ということになるのではないかと思うので、よくわからなくなります。
- big-rex
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前世に関しては諸説(あくまで仮説として)あります。 輪廻する主体?物?が何か、と云う事も諸説あります。 守護霊(先祖霊といわれるものとは別の存在)なる存在があるとして、それは三次元世界の全宇宙の全生命体と同数以上存在(この数も諸説あり)し、その存在によって生命が誕生する。前世とはその守護霊なるものの前回担当していた生命体の記憶が守護霊より流れ込んで来た事によって起きる錯覚、という説まで。 まあ こういう世界の事は 信じたい説があれば ご自由にどうぞ!って事になりますね。 信仰ってやつですね。 私は守護霊の記憶ってのがお気に入りです。 お気に入りが無ければ 『私は前世等存在しないと思う』っていう信仰です。
お礼
ご回答ありがとうございました。 前世の記憶は自分が保持しているのではなく、自分の守護霊が保持しているということは、私に前世の記憶がないのは、私の守護霊が職場放棄してどこかに遊びに行っちゃったということでしょうか? この世には、そういう守護霊が多いっていうことですね。
NO8の補足質問へ回答させていただきます。(NO4,6,8の回答者です。) >自分の特技や特性に合わせて分野を選び、それぞれの分野の中で更に上位のレベルを目指すといった感じでしょうか。 はい、まさにおっしゃる感じのとおりです。 なお、補足しますと、学校でも学び終えた後は今度はその人自身が教師役になって後輩を導くことに生きがいを感じるようになるのです。 この指導者としての成長には更に大きな余地があります。 指導者としてどれだけ多くの人々を成長させ、幸福感を味わってもらえたかということの余地は多大なものです。 そして、スポーツ界でよく言われるように、自分が選手として優勝した時よりも弟子の優勝の方が何倍もうれしい、ということになるようです。すばらしいですよね。 また、音楽家が自らの腕を向上させて行くこと自体も喜びですが、それによってより多くの人にもよりすばらしい感動を味わってもらうことができるわけで、こうしたあり方が幸福だというわけです。すばらしいことですよね。 >「中間世」がどのような「世」なのか大変興味があります。「中間世」では、家族というようなものはあるのでしょうか? また、社会や階層と言うものがあるのでしょうか? また、留学先である「現世」を選択するとき、一定程度の認定・許可のようなものが必要ということですが、認定・許可をするのは、誰ですか? 中間世を統治している神とか上級霊魂とかがいるのでしょうか? 中間世は波長・比重に応じて分かれて存在すると、NO8の回答に書きましたが、ここは心だけの世界ですので、心の趣向のままに展開するのです。 この世は3次元ですが、あの世は人霊レベルでは4~9次元までに分かれているとのことです。 5次元は、自分は肉体存在ではなく霊・魂であることがわかっていて、かつ善なる心に目覚めている人達が住んでいる世界です。 4次元にいる人はその辺りの自覚が不充分で、更にその中でも利己主義的な人等は地獄にいます。 家族で住んでいるのはたしか主としてですが5次元辺りまでのことが多いようです。5次元までは生活様式もこの世と似ていることが多いようで、この世と似た社会生活を送っていることが多いようです。ただ、5次元はその社会生活の中で職業等を通じて他者に喜んでもらうことに精神的な喜びを感じるというわけなのです。 しかし家族でも趣向は別々であるように、次第に自分の趣向に合ったあり方へ移行して行くようにもなるようです。 それで6次元は、更に自分の研鑽に励み、より高い見識技能等を身に付け、より一層人の役に立てることを喜びとしているリーダー達がいる世界です。 7次元はそこそこ自己確立ができ、他者への奉仕を自身の喜びとしている人達のいる世界です。天使・菩薩の世界であり、マザーテレサや坂本竜馬等のいらっしゃる世界だそうです。 8次元は神仏の代理が務まる方々のいらっしゃる世界だそうです。聖徳太子等がいらっしゃるそうです。 9次元は地球の責任者の方々がいらっしゃる世界だそうです。イエス様やお釈迦様、孔子といった方々がいらっしゃるそうです。 ちなみに同じ音楽家でもベートーベンは7次元、バッハは8次元だそうです。その心境境地に違いがあるそうです。 次に現世を選択するときは、5~6次元辺りでは、自分の人生計画書をあの世の役所に提出し、あの世の役所で許認可を受ける、という形があるそうです。その際に、前世や前々世での人生があの世のコンピュータに記録されていて、その時々の課題とその後の精進程度も把握されていて、それで今回地上に生まれてこの課題を実際に成功させてみせる、そのためにはこの年齢の時にこういう体験をするのが望ましい、等々計画し、役人からもこの点は大丈夫かとか、色々つき合わせたりして大体の計画が決まり、ではこれでOK、という形に許認可が下りたりするようです。もちろん上位霊からの助言もある場合もあるでしょうが、まあ以上が一例です。 ただ、それ以外も色々あるようではあります。例えば4~5次元辺りの人で、3次元に生まれたくなってフラフラーっと生まれてくるような人もいるようではあるとのことです。
補足
ご回答ありがとうございました。 >なお、補足しますと、学校でも学び終えた後は今度はその人自身が教師役になって後輩を導くことに生きがいを感じるようになるのです。 後輩の指導に生きがいを感じるようになるのは素晴らしいことですね。ただ、ここで、一つ疑問が出てくるのですが、「後輩の指導をしよう」と思った人は、実際に現世に生まれ出たときには、多くの場合、そのことを忘れてしまうわけですね。もちろん、中には、自分の中間世での決意を覚えているという人もいるかも知れませんが、一般には、ごくわずかですね。そうだとすると、現世に生まれても、自分で定めた使命を思い出せなくて悩んでしまうのが普通ではないでしょうか? なぜ、中間世にいたときの自分の現世での使命とか目的とかを皆が覚えているようになっていないのでしょうか? もし、覚えていられれば、「生きることに、どんな目的があるの?」というようなことで悩む人がいなくなると思うのですが。 >中間世は波長・比重に応じて分かれて存在すると、NO8の回答に書きましたが、ここは心だけの世界ですので、心の趣向のままに展開するのです。 中間世は、心だけの世界だったんですか。それはとても興味深いことです。そもそも心だけの人間関係というのを具体的に想像するのがかなり難しいのですが、身近な例で喩えると、電子メールでの交信みたいな感じでしょうか? お互いに会話するのは、「身振り、表情、声のトーン」などはなく、ただ、純粋言語メッセージが交わされるだけなのでしょうか? ちょっと、いや、かなり、味気ない気がしますが....。そもそも、老若男女も意味を成さないという世界ですか? 若くても老成したメッセージを発すれば、他の人からは、老人だと思われるし、男性でも、女性のような発想(そういうものがあるかどうかわかりませんが)を持てば、他の人からは、女性だと思われるのでしょうか? >5次元は、自分は肉体存在ではなく霊・魂であることがわかっていて、かつ善なる心に目覚めている人達が住んでいる世界です。 4次元にいる人はその辺りの自覚が不充分で、更にその中でも利己主義的な人等は地獄にいます。 この次元に関する話は、ちょっと難しいです。次元の異なった世界に住んでいる人の間では交流はあるのでしょうか、それとも、没交渉でしょうか? 肉体がなくて「地獄」に住むと、どんな感じがするのでしょうか? 例えば、灼熱地獄に落ちたら、肉体がなくても熱いのでしょうか? 4次元の人たちは善に無自覚で、一部の利己主義的な人たちは地獄にいるとすると、4次元より次元の低い3次元に住む我々は、全員が地獄に住んでいるという意味でしょうか。すなわち、この現世がイコール地獄という見方でしょうか? 「地獄」の具体的なイメージが今ひとつよくわかりません。もう少し具体的な地獄のイメージをご存知でしたら、教えてください。
#3のkigurumiさんと殆ど同じ内容なのですが前世って考えれば考えるほど疑問が沸いてきます。 まず本当にあるとします、200年前のフランスで呑気にパン作りをしていた職人だったとします(なぜかフランスのパン職人が人気らしいですから) で200年近く前にその人死んでしまった訳ですがその後月日は流れ不思議な事に20世紀の日本に生まれたoilllioさんに記憶が乗り移ったらしい、本人がそう主張している、本人が言うのだから間違いないでしょうと。 でも問題は死んだ職人さんの記憶が200年間どこに保存されていたのでしょうか?どこかその辺に“記憶、人格”が保存されているのでしょうか。土の中、池の水に、空中に、石ころの中に、大きな木に・・・? 今度犬の散歩のついでに探してみます、道端に誰かの人格や記憶が転がっていないか、水溜りにはどうか、庭の柿木には気配はないか、発見できたらここで発表します。 で理由は分からないが目出度く“記憶、人格”が保存されたとします。 しかも何の偶然か幸運に幸運が重なりoilllioさんが受精卵の時に職人さんの“記憶、人格”が記憶されました、受精卵にですよ。 あの小さな卵のどこに記憶を保存できる部分があるのか、などと言っても考えてみればマイクロSDカードだってあんなに小さいのに数ギガバイトも入るのだから受精卵に記憶されても不思議ではないかも。 でも次なるハードルは「じゃあ乳児にも“記憶、人格”が宿っているんだね?」と言う当然の疑問が出てきますがこれは手ごわいですよ。 哺乳瓶を加えてバブバブとしか言えない乳児に大人の記憶、人格が備わっている。キャッキャと飛び回っている幼稚園児に当然のごとく備わっている筈のパン職人の“記憶、人格”。 前世がアインシュタインの場合は幼稚園児の時からE=MC^2とか一般相対性理論、光とは何かなどの極めて高度な知性が備わっている筈、幼稚園児に。 でも不思議な事に物理学者、数学者、哲学者など高度な知識がモロに試される人を前世に持つのは聞いた事有りませんねえ、何故なんだろ? でもこんな素晴らしい前世を持っている人は今更小学校などに通わなくても良いですね、うらやましいなあ。 真面目に考えれば(1)(2)の疑問は当然出てきますが前世を本気で信じている人でさえ問い詰められれば必ず行き詰まり最後には怒り出すでしょうね。 「信じる信じないは個人の自由だ」と。 存在するかしないか、存在するとすればここの部分はどうなっているのか、と言う疑問に先ほどの答え、おかしいと思いませんか? 研究室の話 教授「そのデータは確かか、実験は何回したのか?」 研究員「データは無い、実験は一度もしていない、信じる信じないは個人の自由だ」 これと殆ど同じ内容だとおもいます。
補足
ご回答ありがとうございました。 >#3のkigurumiさんと殆ど同じ内容なのですが前世って考えれば考えるほど疑問が沸いてきます。 私も、#3のkigurumiさんの補足で書かせていただいたことと殆んど同じ内容になってしまいますが、大変興味ある内容なので、あらためて補足させていただきます。 >でも問題は死んだ職人さんの記憶が200年間どこに保存されていたのでしょうか?どこかその辺に“記憶、人格”が保存されているのでしょうか。土の中、池の水に、空中に、石ころの中に、大きな木に・・・? この疑問の背後には、「人間の記憶は全て物質である脳の中にあって、それ以外の場所にはあり得ない」という「信念」があると思います。でも、そのことは、科学的には未だ証明されていないと思います。記憶のメカニズムは、科学的には、まだ、ほとんどわかっていないと思います。ただ、わかっているような「気」にさせる多くの科学的事実や仮説はあると思います。例えば、ある位置の脳細胞を刺激すると、ある情景を思い出したり、昔覚えて、今は、すっかり忘れていた曲が聞こえてきたりなどなど。また、神経細胞の結合状態や神経細胞内部の物質の無数の状態変化との対応などなどです。しかし、これらは、あくまで、今までに確認されている事実関係を示しているに過ぎないと思います。それが、人間の記憶の全てを説明できるというような段階では全くないと思います。 一方、「記憶というものは全て物質として蓄積されている」ということに対して、私は、別の疑問を感じます。 疑問1: 脳の中の記憶のメカニズムは、結局、コンピュータの記憶と同様の原理で働いているのではないか、すなわち、全て、デジタルな1/0の記憶に還元できるのではないかということです。もし、そうなら、人間の記憶の多くが、数値的なものではなく、質的なものであることの説明ができないのではないかということです。 疑問2: 「物質の性質」に関する記憶は、どこにも記憶場所などなくても、間違いなく、働いているという事実があるので、「記憶」があるためには、「物質」がなければならないという話は絶対的なものではないのではないかと思います。「物質の性質」と言うのは、あらゆる物理的法則などです。例えば、分子や原子の振る舞いを規定するシュレーディンガー方程式などは、どこにも、記憶領域を持っているとは思えませんが、ちゃんとその式に則って原子や分子が動作しています。 >しかも何の偶然か幸運に幸運が重なりoilllioさんが受精卵の時に職人さんの“記憶、人格”が記憶されました、受精卵にですよ。 全ての「記憶」が「物質」に刻み込まれているという前提に対して疑問があります(上述)。 >でも不思議な事に物理学者、数学者、哲学者など高度な知識がモロに試される人を前世に持つのは聞いた事有りませんねえ、何故なんだろ? これは、全く同感です。そもそも、前世の記憶を持っているなどという変わり者は、周りを見回しても殆んどいませんね。私ももちろん持っていません。ですから、不思議なのは、数学者や哲学者を前世に持つ人が、何故、現世に生まれていないのか、ではなく、数学者や哲学者を前世に持つ人が、何故、その知識を、現世に出てくるとき忘れるのかだと思います。 これは、何故でしょうね? というより、本当は、もし、全員が前世の記憶を持って現世に生まれてきたら、現実的には、大混乱の大騒ぎで、やってられないと思いますが....。自分の婆さんが、自分の孫の男の子として生まれてきたら、さぞ、気持ちが悪いでしょうし、ヒットラーが大塚愛として生まれてきても、世の中、メチャクチャです。過去世は、忘れているのが花ではないでしょうか? >教授「そのデータは確かか、実験は何回したのか?」 研究員「データは無い、実験は一度もしていない、信じる信じないは個人の自由だ」 これと殆ど同じ内容だとおもいます。 科学的態度とか、科学的なものの考え方とかは、全くは正しいように思えます。その科学的態度で大切なことは、何が既に科学的に実証されていて、何が、まだ、実証されていないのか、この区別をしっかり持つことだと思います。実証されていないことに対して、単なる類推で、それを科学的と考えるのは、全く科学的ではないとい思います。ただ、科学で実証される範囲は、無限にある物事のごくごく一部ですから、科学が実証するまでは、何事も判断しないというのも現実的ではありません。実際、政治・経済など多くの分野で、科学的実証は不可能ですが、それにも関わらず、それぞれが、仮説を立てて判断をすることは有意義なことだと思います。
No.7です。 >ふと、多重人格者を思い出してしまうのですが、自分の死後に自分の「類魂」に出会う、あるいは、一体化(?)したら、どんな状況になるんでしょうね。経験が大きく違えば、性格も変わってくるでしょうし、同じ自分とは思えないなどという違和感はないものでしょうか? 類魂は自分と個性が同じもので、経験が蓄積された自分のスーパーコンピュータのようなものです。自分の生まれながらの性格が、何故そうなのか、その答えが類魂の記憶の中にあるという訳です。だから違和感はなく、本当の自分を取り戻したという感覚です。 現世では類魂の性質のうち、弱い部分、耐性のない部分、劣った部分を特に鍛えるような経験をするので、その部分が強調されて認識されてしまいますが、本来はみんなもっと素晴らしい人です。どの魂も本体は素晴らしい霊界という所にあるので。 まぁ、そんな訳なので、人格がまるで違うという事はないです。どの前世も自分の側面の一つなので。多重人格と言いますが、健常者の性格だって別に一つじゃない筈です。「人にはいくつもの顔がある」なんてよく言うじゃありませんか。再生(転生)をすればするほど、人間に深みが出るんじゃないでしょうか。 人霊としての年齢が若い(再生回数が少ない)人は確かに人間性も浅い傾向にあるんでしょう。 >それで、結局、平均200年くらいの感覚で何度も色々な国に色々な人間として生まれて経験を積んで、それらの総合としての「類魂」は、より成長した高いレベルの人格になるということでしょうか? その通りです。 >そもそも、繰り返し生まれることの意味は、「人格の修養」ということなのでしょうか? その通りです。全ての魂の喜びは向上することにあります。向上することへの欲求は根本的な魂の性質です。向上は死後の世界でも出来ますが、特訓のステージとして現世があります。現世での100年は死後の世界の1万年とか何とか言われます(はっきりした倍数は言えませんが)。人霊も動物も、ひいては土地の神様的な自然霊も、全ての霊が向上の為に現世と関わります。現世という地獄はむしろ魂の欲求を満たす為にあるのです。 で、魂のレベルは無限なので、永久に向上の喜びを得続けるという生活になります。それが、霊的に言って生活と表現されること、営みです。私は、結局全ての苦しみは道楽のうちなのだろうと解釈してますが、まぁ、現世にいる間にはとてもそんな気分にはなれないですよねぇ。 >ところで、次の「世」にどの国で誰として生まれるかは、自由に選択できるのでしょうか? それとも、自分より上位の霊が、各人の修養レベルに合わせて、強制的に決定するのでしょうか? 類魂の中で次の人生をどんなプランにするか話し合われる(類魂を一つと見れば“考える”)みたいです。次の人生では、前回と全く同じ部分が強調されるのではなく、また別のウィークポイントを鍛えるような経験内容なので、別の部分が強調されると思います。だから他者が見たら性格が変ったような印象になるかも知れません。でも自分の中では同一人物です。ただ表面化する部分の違いなだけで。 自分自身の類魂(狭義の類魂)以外の他の上位の霊から指示を仰ぐこともあるんじゃないでしょうか。そんな場合でも親和力の強い霊との話し合いになりますが、結局ははるか彼方の神霊から流れてくる意識に感応して全ての下の霊は動いていると思います(それが喜びであるので)。 まぁ、私の解釈ではこんな感じですが・・ 同じものに触れても人によって解釈が違ってたらいけないので、一応そう言っておきます。
補足
ご回答ありがとうございます。 >現世では類魂の性質のうち、弱い部分、耐性のない部分、劣った部分を特に鍛えるような経験をするので、その部分が強調されて認識されてしまいますが、本来はみんなもっと素晴らしい人です。どの魂も本体は素晴らしい霊界という所にあるので。 このように考えられると、欠点の多い現在の自分でも、慰められますし、人の欠点にも寛容になれますね。ただ、現実的に考えると、ちょっとわからないことが出てきます。それは、人それぞれの個性というのは、必ずしも、長所と欠点という風に割り切れないところがあります。ひどく冷たい印象やわがままな人で、個人的に付き合うのは大変な人でも、社会の中である種の任務を担うと素晴らしい仕事ができることも少なくありません。あるいは、互いにぶつかり合って不愉快な思いを与えていた者同士でも、その経験が、人を成長させるということもあります。そう考えると、どういう人が素晴らしい人で、どういう人が素晴らしくない人なのか、現実的に考えると、かなり迷います。要するに、誰から見ても素晴らしい人というのは、難しい気がするのです。 >類魂の中で次の人生をどんなプランにするか話し合われる(類魂を一つと見れば“考える”)みたいです。 >自分自身の類魂(狭義の類魂)以外の他の上位の霊から指示を仰ぐこともあるんじゃないでしょうか。 これは、中間世での経験になると思うのですが、中間世が本来の世であるとすると、どうしてもわからないことがあります。それは、私から見ると、人生の主たる悩みや課題は「人間関係や社会関係」ではないかと思うのですが、中間世では、「人間関係や社会関係」がどうなっているのか、今ひとつはっきりしないということです。 中間世でも、「人間関係や社会関係」があるのでしょうか? 例えば、「類魂の中で次の人生をどんなプランにするか話し合われる」という表現だけみると、個人的な内的対話が中心で、他者の介入が希薄なような気がするのですが、中間世においても、中間世の住人間で、様々な対立関係、競争関係、愛情関係、協力関係、上下関係、家族関係、組織内部関係などはあるのでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございました。 ご回答を何度か読ませていただいたのですが、結論としては、sheep67さんのお考えは、私の頭で理解できる範囲を超えている。もし、理解しようと思ったら、多分、何時間も講義を受けないと無理だと感じました。それで、これ以上、質問をするのは諦めました。ただ、「主観・客観」については、私の最も関心のある領域の一つなので、最後に一言感想を述べさせていただきます。 「前世」があるかないかとか、いつどこにあるかとかを問題にするとき、物質と精神の関係を問題にせざるを得ないと私は思っています。そして、現在の大勢の認識は、「先ず、物質ありき。然る後に、生物が誕生し、人類が誕生し、その結果、心や精神が誕生した。」ということだろうと、私は思います。例えば、もし、人類だけに死をもたらすウィルスが発生して、人類が全滅してしまったとしたら、この地球や宇宙はどうなるのか? 人類が全滅しても、この宇宙や地球は、今あるように、そのまま、存在し続ける。青い空、青い海、緑の森、人類以外の多くの動植物、人類が残した廃墟。そういうものが全て、今あるように存続する。と言うのが大勢に認識だろうと思います。 この人類滅亡後にも「確実に存続しているであろうこの物質世界」、これ以上の「客観的世界」というのはないように思います。多くの人々は、このような意味の「客観的世界」の存在を信じていると思います。科学がこれを明示的に認めているかどうかは別として、暗黙の了解があると思います。 これが、私の基本的な認識です。 この視点から考えると、sheep67さんのおっしゃる「主観」「客観」は、今ひとつ、具体的に何を意味しているのか、ぴんと来ないというのが正直なところです。 長いことお付き合いいただきありがとうございました。 考えるヒントをたくさんいただきました。