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犬の適応拡散の多様性と、それに比肩する種は?
お世話になります。 「適応拡散」という用語の使い方が、生物学的に正しい使い方かどうか? 素人の身で、判断はつきかねるのですが、ご質問させていただきます。 犬の多様性については、いつも、本当に不思議な気持ちにさせられます。 セントバーナードとチワワの、体重比は、100:1程度でしょうし グレートデンとトイプードルの身長比も、10:1に近いでしょう。 そして、なによりも、それぞれ、形態が違いすぎます。 しかも、この適応拡散が、人間に飼われた、この1万年間?ぐらいに生じ しかも、そのほとんどは、この数100年で人為的になされたという 事実には、驚嘆してしまいます。 この拡散力は、犬という種自体の特徴なのでしょうか? それとも、生物全体に共通する能力なのでしょうか? というのが、疑問です。 たとえば、今からはじめれば、50世代もすれば 「手乗り白熊」や「金魚鉢に入るイルカ」が生まれるものなのでしょうか? 質問をまとめますと 1)犬の、種としての拡散性の源泉は何なんでしょう? 2)その拡散性は、犬固有のものなのでしょうか?それとも 犬の多様性に比肩するような生物が、他にいるのでしょうか? 以上です。よろしくお願いいたします。
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一応獣医師です。進化論は単にたくさんの本を読んでいるだけの素人ですが、犬や動物そのものには少し詳しいかも。 犬の場合は人為的に「育種」されてきたものですから、「適応拡散」(適応放散)という言葉は当てはまらないでしょう。 適応拡散とは、「同一の生物種が様々な環境に適応し、形態や行動などを変化させて最終的には別の種として固定されること」ですから、現象としては同じようなものですが、自然選択ではなく人為選択による育種の場合には馴染まない言葉です。 ただ、現象としては確かに「拡散」していますよね。犬は1つの種だから「拡散」はまだしていない、という反論もありそうですが、「種」の定義はかなり曖昧なものなので、純粋に生物学的に見ると犬は既に複数の種に分岐している、という見方もできないことはないでしょう。 少なくともチワワとセントバーナード等はもはや交配不可能(交尾そのものが物理的に不可能)ですから、種分類の1つの基準である「生殖的隔離」は満たしている、と言えます。 犬を全て同一の「種」に分類しているのは、家畜としての人間の都合に過ぎません。もし数万年後にチワワとセントバーナードの化石を発掘した考古学者がいたとして、彼らがこれらを同種に分類するとも思えませんし。 で、この「拡散」能力は犬固有のものか生物共通のものか、という点については、私は素直に「生物共通」と考えています。 育種(人為選択)は、自然選択より極めて効率的に強い「選択圧」をかけることができます。 自然選択でよく誤解してしまうのが、「適応的でない個体は子孫を残せない」と表現してしまいがちなのですが、実際はそうではなく、適応的でない個体も生き延びて子孫を残すことができます。ただ、適応的な個体の方が適応的でない個体より「平均すると子孫を多く残せる」だけのことなのです。まあそれは「どれくらい適応的でないか」にも寄るわけですが。 ですから自然選択による形質の選択は、長い世代数をかけてゆっくりと進んでいくわけです。 ところが人為選択による育種は、繁殖をヒトが管理しているわけですから、「望まない形質を持つ個体」の子孫数をゼロにすることすら可能ですし、「望ましい形質を持つ個体」の子孫を極めて恣意的に選択することができます。 なので、自然選択では数十万年あるいは数百万年をかけないと達成できない形質の変化を、数百年あるいはせいぜい数千年といった"一瞬のうちに"達成することが可能です。 また、育種は「人為選択」ですから、自然選択ではあり得ない形質を"選択"することができます。環境への適応性よりヒトの都合が優先されるわけですから。 ですから、自然選択ではあり得ないような形質を持った群を作出することができますし、起源となった種から自然選択より遙かに多くの"種"を分化させることができるでしょう。 かくしてチワワからセントバーナードまで、ありとあらゆる形質を持った「犬」ができたわけです。その犬の育種の歴史の大半が、ヒトがまだ「遺伝子」や「進化」を知らなかった時期に為された、という点が興味深いところです。進化論や遺伝子を学問として知らなくても、ヒトは太古からそれらを知っていた、ということでしょう。 育種の過程で「望ましくない遺伝子」も選択されてしまってきています。一部のレトリーバー種の股関節形成不全やコリー種の血液脳関門の機能不全などは、自然環境下であれば淘汰されていたはずの"適応的でない"形質ですが、ヒトにとって望ましい形質が選択された時に一緒に選択されてしまったものです。 これほど幅広い用途に拡散育種された動物は犬だけですが、これは犬がそれだけヒトにとって扱いやすい動物だったということでしょう。 それはヒトに馴れやすい、という性質と(もちろんその性質は真っ先に"育種"の対象となってさらに磨き抜かれてきたわけです)、もうひとつ大きいのはヒトと同じ食生活に対応できる、という点だったのでは、と思います。完全な草食でも肉食でもなく、ヒトと同じように何でも食物にできる動物だったため、家畜化が容易でヒトと密着した生活を送ることができ、さらにヒトに馴れる個体を選抜しやすく、多様性がある用途に使役できる可能性が広がった、というわけです。 他の家畜化された動物は、犬ほどの「多様性」を持っているわけではありませんが、「専門化」にかけては犬に負けていません。 牛は自分ではたかだか40kg程度の子牛しか産まないくせに、ピーク時には実に1日60kgもの乳を出すものがいます。ヒトの女性が1日に3kgとか4kgの母乳を出すことを想像すれば、その異様さが判ると思います。それもこのたった40-50年ほどの期間で、乳牛の泌乳能力は倍以上になっています。 原種がたかが400kgほどの体重だったのに、100年ほどの間に僅か2年半で700kg以上まで太る能力を身に付けた和牛もいます。この和牛は、普通では考えられない「筋肉組織の間に脂肪を蓄積させる能力」も備えています。普通はどんなに太っても皮下脂肪と内臓脂肪が溜まるだけなんですけど。 繁殖戦略的には不利そのものなのに毎日卵を産む産卵鶏も、自然環境下ではあり得ない動物ですし、鶏はまたけっこう多様性に富む育種をされています。闘鶏のための軍鶏とか形態的な特徴を求めて育種された烏骨鶏とか。 育種は最近になって集団遺伝学やゲノム等の理論的背景を駆使して行うようになってきましたが、何千年とヒトは経験と勘だけでここまで多様な動物を「拡散」させてきたわけです。 育種は言ってみれば、進化論の実地演習の実地演習みたいなものですね。
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再びJagar39です。 前の回答では、「形態」と「形質」を別のモノであるかのような書き方をしましたが、本来は形態は形質に含まれる言葉です。形態的な特徴も内分泌的な特徴も全てひっくるめて「形質」と言うのが正しい言葉の使い方です。ちょっと不適切な用語の使い方でした。「形質」だけで済ませるか、「形態や性質」とでも書いておけば良かったですね。 >いつもわからなくなってしまうのは、ほぼ中立的な突然変異が >積み重なって、ある日突然「違う種」と呼ばれてしまうこと >でしたが・・・ ま、「違う種」と呼ぶのは人間ですから。どの時点でそう呼ぶのかも明確な基準はありませんし。そういう意味では確かに「人の解釈の問題」です。 一般的には地理的に隔離されていて形態に差異が見られれば、「違う種」と分類することが多いようです。ただ、その形態の差がどの程度あれば、というのは主観でしかないので、ここに明確な基準があるわけではありません。 隔離説で言う種分化の流れとは、まず同一地域で生活していた同一種が地理的に隔離されます。この地理的隔離とは、大陸移動によって生息地域が分断されたり、気候の変化によって地続きだったところが海になったり砂漠になったり、間に山があればその山が寒冷化によってその動物種が越えることができなくなったり、ということです。 そうすると同一種が2つの個体群に分かれるわけです。 隔離が起きると、片方の群で起きた突然変異による新しい遺伝子は、もう片方の群には伝わらなくなります。それは互いにそうなりますから、ある程度長い世代数が経過すると、もともと1つの遺伝子プールだった2つの遺伝子プールは、構成する遺伝子の頻度が互いに異なったものとなってきます。 その遺伝子頻度の差が形態的に見えるようになると、ヒトは「これらは違う種だ」と分類するわけです。 例えばニホンザルとタイワンザルの場合は顔つきなどはそっくりだけど、尾の長さが違う、という具合です。 日本も台湾もほんの数万年前まで大陸と地続きでしたから、この2種は隔離されてから地質学的にはまだ「ほんの一瞬」しか経っていません。 それが大陸移動になると、数億年のスケールになるわけですから、種分化ももっと大きく多種に渡るというわけです。 ニホンカモシカと韓国のカモシカも、外見ではほとんど見分けが付きません。韓国カモシカは尾の付け根に白い斑点があるのですが、相違点はそれくらいです。 サルの場合は日本と台湾が直接地続きになっていたわけではないので、彼らが分岐したのは対馬海峡ができるさらに数万年前まで遡るのかも知れませんが、カモシカの場合は対馬海峡ができて日本と朝鮮半島が海で隔てられたまさにその時が「隔離」された時だろうと想像できます。 動物ではありませんが、高山植物も高山帯でしか生息できないので、陸の中に孤立している状態です。なので山域毎の固有種は多いです。 その隔離が取り払われた場合、例えば気候が再び変化して地続きになったり山脈を越えられるようになったり、という場合ですが、種分化して間がないものは、また混じり合って同一の種に分化するでしょう。 でも、交配が可能であったとしても、繁殖行動の様式等が互いに異なっていて、互いにほとんど交流しなくなっている可能性もないわけではありません。つまり地理的隔離が解除されても生殖的隔離は継続している状態です。 この場合は、同一地域の1つのニッチ(生態的地位)を巡って2つの種が争うことになるでしょう。 たとえばの話ですが、ヒトが全てホモ・サピエンス・サピエンスという同一種の同一亜種に分類されているのも、純粋に生物学的な理由でなく人道的あるいは政治的な理由がある、と私は思っています。分岐して数万年は経過してますし、少なくともニホンザルとタイワンザル、ニホンカモシカと韓国カモシカよりは形態的に異なっているとも思いますし。 他の星の生物学者がアフリカの黒人とアラスカのエスキモーを研究すれば、異なる種に分類するかもしれません。 というわけで、「種」という分類そのものは人為的あるいは恣意的なものなので、生物学的あるいは進化論的に大切なのは「どのような経過によって何が異なっているか」ということでしょう。 そういう目で見れば、犬に限らず家畜の品種というものは、全て純粋に生物学的には「種」に分類しても良い遺伝的背景(生殖的隔離の歴史)と形質的な相違点を持っている、と思います。
お礼
更なる補充、どうもありがとうございます。 日本のトキの最後の1羽が死んだとき、トキは滅んだ!悲しい!! と思ったのに、中国には、交配可能だったトキがけっこう沢山いる! ということを知った時、 「いったい何が滅んだんだろう?」 と不思議な思いにとらわれました。 実は、お話を伺うまで、 種≒生殖可能性な遺伝子の差異に納まる範囲 ぐらいに思ってたんですが、そうとも言えないという 種の「哲学」を知ることができました。 今回はどうもありがとうございました。 そろそろ締め切らせていただきます。 失礼いたしました。
Jagar39です。ちょっと補足します。 「生殖的隔離」とは、2つの個体群の間で生殖が行われない状況を指します。狭い意味ではその個体群が同一地域に生息していることを条件にすることもありますが、広い意味では個体群の生息地域は問いません。 すなわち広義の生殖的隔離では、2つの個体群が同一地域に生息すれば容易に雑種を作るのに、生息地域が隔離されているため生殖以前に接触がない、という場合にも「生殖的に隔離されている」という言い方をします。 後者はニホンザルとタイワンザルがよく例に挙げられます。 これらは形態的にもよく似ていて、同じ場所で飼育すると容易に雑種を作りますが、自然の状態でこれらが雑種を作ることはあり得ません。ですので、これらは「生殖的に隔離されている」と考えられ、現に別種に分類されています。同様の例はニホンカモシカと韓国のカモシカ、ツキノワグマとアメリカクロクマなど、枚挙に暇がありません。 これらの例を「生殖的隔離」と言わずに「地理的隔離」と言う場合もあるのですが(この場合「生殖的隔離」は狭義の意味で用いられているわけです)、いずにれしても本質的に重要なのは「生殖的に隔離されている」ということなのです。 というわけで、本質的に生殖的隔離という言葉の意味は、「この2つの個体群をそれぞれ独立した遺伝子プールと見なせるか」ということにあるわけで、人工的な条件で雑種を作出可能か否かはあまり問題にはされません。 そういう定義付けで考えると、チワワとセントバーナードの2品種は、そもそも身体と生殖器のサイズが大きく異なるので、交尾行動そのものが不可能です。セントバーナードの陰茎は大きすぎてチワワの膣には挿入不可能でしょうし、セントバーナードの雌にチワワの雄が交尾することも「膣の位置が高すぎてチワワの雄には届かない」という極めて物理的単純な原因によって不可能でしょう。 つまり自然状態でチワワとセントバーナードの雑種ができる、すなわち遺伝子のやりとりが起きることは"ほとんど"あり得ません。これは「生殖的隔離」を満たしている、と言えます。 誤解しがちなのは、生殖的隔離は種分類の唯一かつ絶対的な条件ではない、ということです。形態や遺伝子の差異など、種分類には多くの条件があり、それらが"適当かつ恣意的に"用いられて種の分類がされている状況です。なのでジャイアントパンダがかつてはアライグマ科に属していたのがパンダ科が新設されたり、種はおろか科の段階ですら、時に大きく分類が変わったりするわけです。 チワワとセントバーナードは生殖的に隔離されているだけでなく、形態も大きく異なります。なのでこれらを「別種」とみなす、という議論には一考の価値があるわけです。少なくとも「チワワとセントバーナードは間違いなく同一種」と考えるのは先入観に過ぎません。 よく考えてみれば、チワワとセントバーナードのような極端な例を持ち出さなくても、ラブラドールとゴールデンレトリーバー、牛なら黒毛和種とホルスタイン種のように、自然状態であればあっという間に雑種が大多数を占めてしまうような品種であっても、これらはそれぞれヒトの手によって長い間"生殖的に隔離"されてきたからこそ、現在のような形態と形質の差異が生じているわけです。 これは、 1.最初同一種であった個体群が生殖的に隔離される 2.それぞれの個体群で生じた突然変異は個体群間を移動しない 3.世代を重ねるとそれぞれの遺伝子プールの遺伝子頻度に大きな差が生じる 4.それによって形態や形質に差異が生じ、それぞれが別種として分化する という、種分化における隔離説で述べられている現象そのものなのです。 育種は進化論の実地演習、と述べたのはそういう意味合いです。 ヒトはこのような「人為的に種分化させた動物」を「品種」と呼んでいますが、純粋に生物学的には自然選択の結果生じたことと本質的に区別はできませんから、品種を全て別種に分類しても、別に生物学的な矛盾は生じないでしょう。 これらの多くは「人為的な生殖的隔離」を解除する(自然状態で自由に交配させる)と、あっという間に雑種が集団の大多数を占め、その雑種が「新しい種」になるでしょう。 ですが、犬の場合は、少なくともチワワとセントバーナードの雑種は生まれそうにありません。 ただ、犬全体で考えるとそれぞれ少しずつサイズの違う犬種同士で交配して雑種を造り、ある程度長い世代数を経ると、やはり犬全体が雑種化して「新しい犬」という種を作ることになるかもしれません。 ま、気候適性が犬種毎に大きく異なりますから、犬が単一の同一種に収縮していくと言うことは考えにくいですが。世界の地域ごとにかなり形態が異なった「犬を共通祖先とする複数の種」に分化しそうな気がします。 いずれにしろ、種分類では「過去の経緯と現在の形質差」を重視して「将来どうなるか」は問いませんから、「人為的な生殖的隔離を解除したらどうなるか」は分類を考える上では関係ないでしょう。 ニホンザルとタイワンザルも、地殻変動によって日本と台湾が地続きになれば容易に雑種化して1つの種になるでしょうが、そんなことは現在の分類上は考慮しないのと同じです。 つまり簡単にまとめると、ヒトの手によって育種されてきた動物集団は、それぞれ独立して互いに差異がある遺伝子プールを持ち、形態的にも形質的にも独立している。よって純粋に生物学的にはこれらを「別種」として分類する議論には一定の正当性がある。 だが、ヒトはヒトの都合でこれらを種の下の「品種」として分類定義している、ということです。それぞれの品種は同一種として分類されていますが、それは生物学的な理由というよりヒトの都合によるもの、あるいは自然選択の結果と人為選択の結果を分類しているに過ぎないわけです。
お礼
再びの、詳細なご説明、本当にありがとうございます。 素人にとっては、まったく別物に見える「地理的隔離」などと 「種の分離」が、実は不可分であり、種分化は、隔離に 原因づけられている、というご説明、とてもよくわかりました。 (わかったツモリですが・・・) いつもわからなくなってしまうのは、ほぼ中立的な突然変異が 積み重なって、ある日突然「違う種」と呼ばれてしまうこと でしたが・・・ そのいくばくかの理由は、人為的(人の解釈の問題)である というふうに理解をさせていただきました。 とてもわかり易い(誤解かもしれませんが)ご説明、本当に ありがとうございました。
- geneticist12
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>小学校とかで、ショウジョウバエは、「突然変異」がおきやすいから >遺伝実験に使うとか、説明されたので、哺乳類くらいの高等動物でも >変異のおきやすい種とか、おきにくい種とかあるのかな?なんて >漠然とおもってました。 ショウジョウバエが突然変異が特に高いということはありません。すべての生物種で突然変異率はそれほど大きくは違わないです。自然突然変異であれば一世代で一遺伝子につき数百万分の一くらいだったと記憶します。実験的に放射線や薬剤で突然変異を誘発しても数万分の一くらいです(それ以上だと致死率が上がってかえって突然変異体が取れにくくなります)。 ショウジョウバエは卵から生殖可能な成虫まで2週間くらいと短く、一匹の親から数百匹の子が取れます。数万分の一の頻度でしか起こらない突然変異でも、多数の子を調べることで見つけることができます。かけ合わせも自在で、姉妹兄弟交配などで純系を作るのも容易です。突然変異が起こりやすいというより、突然変異を見つけやすい、突然変異を純系にして固定しやすいということだと思います。 > 素人は、チワワの母がセントバーナードの子を宿したらどうなるの だろうか?などとゲスな想像までしてしまいます 子宮が破裂してしまうかも。 チワワとセントバーナードは直接は交配できませんが、いろいろな品種の犬が自然な条件で自由に交配できるようにすれば、中間の大きさの品種との交配を介して、チワワのゲノムとセントバーナードのゲノムは自由に交じり合い、子孫に伝わります。種の定義のひとつとして交配可能で生殖可能な子を残せるということがありますが、これは交配によって遺伝子のやり取りが可能な集団であるということです。この意味でも、チワワとセントバーナードは間違いなく同種です。仮にチワワもセントバーナードも絶滅して育種の記録もなく、化石しかなかったら別種と判断されるでしょうけれど。 一方、人工的な条件では交配可能で生殖可能な子孫を残せるものでも、別種とされている生物もいます。ダブルスタンダードのようですが、人為条件でなければ交配できないというものは同種にはされないようです。
お礼
再びのお答え、本当にありがとうございます。 ショウジョウバエも 世代×子供数が問題、 研究題材として扱いやすいという要素も大事、 というご教示よく理解できました。 「生殖可能交配ができるか」と「自然交配できるか」という 「種のダブルスタンダード」が考え方としてある、というのも とても参考になりました。 化石の話は夢がありますね・・・ 恐竜の中にも、まったく違った形なのに「同種」がたくさんいて 単に居住地域ごとに、適応拡散しているだけだった・・・ なんてことも・・・ないですか(^^) 今回は、どうもありがとうございました。
- geneticist12
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犬の品種は適応放散ではなく人為選択の結果です。 小さい犬がほしいとか、足の短い犬がほしいという目的で、人為的にそういう子を選んだ交配してきた結果であって、環境に適応するものが自然選択され進化してきた結果の適応放散に比べると、選択の強さや固定の確実さが比べ物にならないくらい強いです。 1)犬の、種としての拡散性の源泉は何なんでしょう? 人為的に選択をされてきたことです。 2)その拡散性は、犬固有のものなのでしょうか?それとも 犬の多様性に比肩するような生物が、他にいるのでしょうか? 人為選択されてきた作物や家畜をみれば、犬が特別ということはないでしょう。たとえばイネやブタ。 >「手乗り白熊」や「金魚鉢に入るイルカ」が生まれるものなのでしょうか? 人為選択をかけるには、人の手で育種ができるかどうかということがかかわってきます。多数の個体を飼育できること、産子数が多いこと(多くの仔の中から目的の性質を持つものを選ぶ必要がある)、人為的に交配が可能であること、交配から子が得られるまで、子が繁殖可能になるまでの期間が短いこと、などがあげられます。ホッキョクグマやイルカは不可能に近いと思います。
お礼
早速のお答え、ありがとうございます。 犬の多様性は、個体数×産子数によるという種の特性と 人為選択によるというご説明だと理解いたしました。 ご質問をした最初の動機が、実は、友達との会話の中で、 「北極熊が、チワワくらいだったら、10万頭くらい 保護して育てるのも、楽勝なのにな!」 などという、たわいもない発想でしたので、お恥ずかしい限りです。 小学校とかで、ショウジョウバエは、「突然変異」がおきやすいから 遺伝実験に使うとか、説明されたので、哺乳類くらいの高等動物でも 変異のおきやすい種とか、おきにくい種とかあるのかな?なんて 漠然とおもってました。 今回は、どうもありがとうございました。
お礼
長文で詳細なご説明、本当にありがとうございます。 レトリバーやコリーの固定の中で、遺伝病のような不適応な 形質まで獲得されてしまった・・・というお話には、まず、少し 心がチクチクしました。 専門の方が、「犬はひとつの種」だろうか?という疑問をお持ちだと いうのも新鮮な感じでした。 たしかに、チワワとセントバーナードの差は、アジア象とアフリカ象 の差より、はるかに量的にも、形態的にも大きいように素人には見え ます。 素人は、チワワの母がセントバーナードの子を宿したらどうなるの だろうか?などとゲスな想像までしてしまいます。 家畜の多様性に、人間の選択が寄与しているという考え方も 当然とは思えるのですが、過酷な現実だとも思います。 これも素人流の拡張を考えると 人間が、自身の子孫を選んでいく過程においても 「美形な子」ほど好まれたり 「体躯が強い者」ほど、好んで育てられたりするのも ある種、人間が人間自体の形態を選択しているような気もします。 そして、ご教示いただいたことで、「なるほど!」と、うなって しまいましたのは 「40kgの子牛しか産まない乳牛が、60kgも一日に乳を出すように つくりあげられている!」 というくだりでした。 確かに、そこに生物的な必然はまるでなく、まさに「乳を出す機能」 という存在でしかなくなっている・・・ということなんですね。 同じ牛という外見をしていても、違う存在になっているかもしれない という見方も必要なんでしょうね。 同様に「おいしい肉」の家畜というのも、外見からはわからない 人間の選択なわけですね~! 色々なご示唆に富むご回答、本当にありがとうございました。 一番大切なご教示内容は、 「人間が家畜や生物になす多様性の選択は、目に見える大きさや 形態だけではないんだよ・・・」 ということだ!という風に学ばせていただきました。
補足
どうもありがとうございます。 「適応拡散」という言葉の使い方は、「あやしいな!?」と思いながら 使ってみましたのは、実は、ぜんぜん違う分野の話なのですが 自動車が、エンジンとタイヤ、ギアとかいった基本構造は同じなのに 乗用車・消防車・タンクローリー、ゴーカートとまるで違う形態で 違う目的ものに「進化」していったことが、「適応拡散」に類似し ているな!と日ごろ思っていまして、その自動車の多様性と、 今回の犬の多様性がとてもよく似ているな!と思ったことによります。 素人考えで、すみません。