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托鉢とはなんぞや
ある仏教塾のサイトを見ると、托鉢のことが出ていました。そこで疑問があります。 「相手の喜捨は財の布施であり、読経は法の布施。両方の布施は平等」だから、相手に感謝を述べる必要はないのだそうですが、托鉢というのは、仏教のどの宗派にもあり、どの宗派もこれと同じ考えなのでしょうか。 経を読む相手を選んだのは僧側の勝手ですから、悪く言えば「経の押し売り」であり、善意に表現すればそれも「縁」です。 また、そのサイトによれば托鉢をする人自身の心の中にも実は「ありがたそうにじっと手を合わせてお経を聞いてくれる姿に接するだけでこちらも感激してしまいます」という気持ちがあるわけですから、感謝の態度は合理的なものではないでしょうか。にもかかわらず、「対等なんだから礼などいらん」ということをしているうちに、僧は人の心や人の道と乖離した者になってしまうのではないでしょうか。 仏の道は人の道からだと思います。人の非常識が仏の常識としてまかり通るのは、まるでカルト教団のような感じさえします。
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曹洞宗の僧侶です。 「対等だから礼はいらない」というのは正しくありません。 そもそも托鉢に銭米を喜捨するような布施行は、礼を期待して行われるものではありません。相手の礼を期待するということは「自分が相手に何かしてやった」「自分が相手の面倒を見てやった」という優越感に基づいています。しかし、仏教で教える托鉢行の基本は「等三輪空寂」といって布施をする者、受ける者、布施されるモノの三つが等しく清浄で我執から解き放たれたものでなければならないのです。 豆を入れた長櫃を右に傾けると豆は左から右に向かって流れていきます。この時、長櫃の左側は右側よりもエライと言えるでしょうか。そうとは言えないでしょう。 布施は「そうする事が正しい」と知っているからするのであって、それを行った自分の自尊心を養うためにするのではありません。それに対して相手側から礼があっても無くても、なんら本質的なことではありません。 日常生活の中では当然、モノをもらったら礼をするものですが、それはどこかでお互いの関係の不公平さや、優劣の問題をはらんでいます。すべての行いを布施行のように行うことは無理としても、托鉢などの行持にであったら、その教えるところに寄って喜捨を行ってみてはいかがでしょうか。
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- magga
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テーラワーダ仏教に信を置くものです。 説法のお礼としての布施はお坊様は受け取られないことも多々有ると思いますし、失礼なことという考え方もあります。 仏陀自身も受け取られませんでした。 説法と布施は別々のことで、ともに喜捨によるものでしょう。 そして僕も感謝を「述べる」必要は特にないと思ってます。在家に機嫌取りしてしまうような心を守るために、あえてしない人もいるでしょう。布施の対価としての読経もこれにあたるように思います。 と言っても在家と出家の支えあうともに心配しあう関係は有るのです。それは他の形で成されれば良いと思います。出家も在家に対しての義務もありますしね。 パーリ語の仏法に信を置く方々は非宗教的で論理的で実証的な理性を重んずる方々と思います。 三拝にしても、「文化としてみんなと仲良くするためにやってるだけで、特にこうしなければならないとかそういうことはないですよ。」と「根拠のないことをこうしなければならないとか…。それをしたらカルトでしょw仏教は理性の教えなんだからねぇw」といった態度の方々を見ます。 このように行う行為などに、論理的道徳的実証的理性的な回答が出来ない上に押し付けるなら、「カルト」となるでしょうね。
- fuwapoyo
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chopanchiさんこんにちは。マリア・フワポヨです。 >「・・・両方の布施は平等」だから、・・・ この発想は正しくありません。なぜならお坊さん側は必ず読経という“法施”を行うわけではないからです。インド等の托鉢では、法施は無くても財施を行うことの方が多いくらいです。 だいたい、「平等だから・・・」なんて考えは、財施は法施の“対価”ってことになってしまい、布施行が成り立たなくなってしまいます。 財施する側は、純粋に「布施行をさせていただいてありがとうございます」という気持ちになってこそ、はじめて六波羅蜜行である“布施行”になるのです。 「経の押し売り」にはなりません。托鉢の場合、財施を行いたいという人を対象にします。というか、それがわかっていなかったり、その気持ちが無いと布施行にならないからです。 法を施すといっても読経とは限りません。必ず財施を受ける前提で法施するわけではないのです。そのような日常の法施があるからこそ托鉢も成り立つのです。嫌々財施するようなことの無いように法施しなければなりません。 >「対等なんだから礼などいらん」ということをしているうちに、僧は人の心や人の道と乖離した者になってしまうのではないでしょうか。 全くその通りです。財施を受ける側は御礼を言ってはいけないことになっていますが、「布施を受けさせていただいてありがたい」という謙虚な気持ちを持たなければなりません。 >仏の道は人の道からだと思います。人の非常識が仏の常識としてまかり通るのは、まるでカルト教団のような感じさえします。 ホントにまったくその通りですよね。「布施させてやってるんだ!!!」とか「勉強しろ!!!」って発想は、増上慢といってつよく戒めます。このような発想をしているからカルト化していくのです。
- ingensai
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宗教は観念の産物であり、現世のルールに合わせていたら実態がないことが明らかになってしまいます。ですから、そのような韜晦的な権威や矜持を決めておかなければならないのです。 落語など伝統芸能や相撲で、合理性を欠いた理不尽な因習が幅を利かせているのと同じことです。 理論で説明できないあやふやな闇は、議論による昇華や進歩を果たす合理的発展とは無縁のものですが、逆にだからこそ神秘性、特殊性をもつこともできるのです。 回答ですが、しょせん、客観的・合理的なものではないから、と思うしかありません。 我々の常識や道理や規範でははかれないものなのです。 それが何らかの犯罪行為に結びつくなら社会的糾弾は必要ですが、無視したり追い返したりすれば済むことですから、その程度なら、ほっといても構わないのではないでしょうか。 この世の中、本物の押し売りやキャッチセールス、振り込め詐欺など、明らかに悪質なものはもっとほかにあります。
- abiraunken
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>どの宗派もこれと同じ考えなのでしょうか たく鉢の僧は相手に謝意を表す必要はありません これは基本的にはどの宗派も同じで タイやインドの仏教でもそうです おしゃか様の戒律によるものですので どの宗派も同じ考え方です ただ、戒律も解釈の仕方などで 微妙に違うこともあるので それは宗派の解釈方法ということです >僧側の勝手ですから、悪く言えば「経の押し売り」であり 最近はやりの新興宗教とはちがい おし売りではありませんので ご縁のない方は たく鉢僧にお布施する必要はありません スーパーの出入り口や 歩道橋の真ん中 大寺院の門前で たく鉢をしている僧りょや 真似事をしている巡礼者がいますが 作法や戒律を知らない おし売りですね 感謝をする心 を忘れたら質問者さんの言うとおりです 「相互供養相互礼拝」 という言葉があり互いに感謝しなければいけません 「呪願」といって 施主のために祈ることはあります 財(お布施)を出す方も感謝です しかし、僧は礼を述べてはいけません 「ありがとう」は 喜捨する者の功徳を奪う行為とされています 功徳を積ませて上げているのです 世の「福田」とならなければいけないのです 袈裟はたんぼの形です タイなどではこのことを 一般の人もよく理解しているので 「ありがとう」という言葉を求める者などいませんし 喜捨する功徳を積まさせていただいて 「ありがとうございます」 なのです インドの風習、習慣、考え方なので 理解できなければ非常識のように思えますね しかし、一昔前の日本人も このことを承知していたのですよ 今の人は不勉強です ITの時代はこれからインド人が どんどん進出してきます インド的な発想が出来るように よく勉強しておいて下さいね