• ベストアンサー

原爆秘話?

私の祖父はおととしの8月6日に亡くなりました。 最後は重度の認知症にかかってましたが、 死ぬ少し前に言ったことがすごく気がかりになってます。 終戦まで紫電改に乗っていたようです。 8月6日の朝、四国上空でB-29に遭遇。 エンジンの調子が悪いのか速度が上がらすヨタヨタと飛行していたようです。 いつもなら雨あられと機関銃を撃ってくるのにほとんど撃ってこず、 そのため容易に紫電改の照準の真ん中でB-29を補足でき、機関砲の 引き金を引いたのですが、機関砲発射不能に陥り通過、体制をととのえ 2たび照準に捕らえるもまたも発射不能に陥り、逃してしまった。 それはまさしくエノラ・ゲイだった。 あの時体当たりしてでも撃墜しておけば良かった。悔やんでも悔やみきれないと言ってました。 祖父は今まで一度もそんなことは言ったことはなかったです。 認知症の祖父が死ぬ前に見た夢か幻でしょうか? それともエノラ・ゲイは本当にあの日、紫電改に迎撃を受けたのでしょうか? 原爆の特集は良く組まれていますが一度も迎撃を受けたという話は 聞いたことは無いので。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • sagiri_g
  • ベストアンサー率35% (41/116)
回答No.1

下記サイト(終戦前後2年間の新聞切り抜き帳)からの引用 http://www.asahi-net.or.jp/~uu3s-situ/00/50nen8.html 0730、パーソンズは爆弾の準備を完了した。直後、エノラ・ゲイの電波モニターに、日本側のレーダー反応が現れた。低高度飛行をしていたエノラ・ゲイは日本に近づくと高度をあげ、0830には8800メートルに上昇した。  四国を通過した頃、1機の日本軍戦闘機がエノラ・ゲイに接近してきた。クルーは緊張した。戦闘機が発砲したがエノラ・ゲイに被弾はなかった。日本の戦闘機の性能では、高高度を飛ぶB-29に2撃をかけることはきわめて困難だった。ティベッツは執拗に追尾するこの日本機を振り切った。日本軍のレーダーがエノラ・ゲイを捕捉していたことは、日本側の資料からも確認できる。一方、この戦闘機がどの部隊の所属だったのか、乗っていたのは誰なのかはまったく 不明である。 下記リンクはWikipedia記事検索 「広島市への原子爆弾投下」 http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/wiki/309220/%8DL%93%87%8Es%82%D6%82%CC%8C%B4%8Eq%94%9A%92e%93%8A%89%BA/4/ 引用:さらに四国上空を通過中に日本軍のレーダー照射を受け、単機の日本軍戦闘機が第一航過で射撃してきたが、被弾はなかった。この日本軍戦闘機(所属不明)はハーフターンして第二航過で射撃を試みたが、射撃位置の占有に失敗した 四国上空や単機である事、二度に射撃体勢に入った事、エノラゲイに被弾が無かった事など貴方の祖父の言葉が真実である可能性はありえます。 可能なら多少骨を折っても当時の資料を調べたり、戦友の方に話を聞かれる価値は十分にある言葉だと感じます。

noname#65040
質問者

お礼

このお盆に祖父の墓参りに行って来て本日帰ってきました。 祖母はまだ健在でしたので話を聞いてみると、祖父は戦争中のことを 話すのを大変嫌がって、ほとんど戦争中の話を聞いたことが無いということでした。 海軍で戦闘機に乗ってたことは確からしいですが、生前そんなことは 聞いたことが無かったといってました。 無くなる1年前くらいから認知症とそれに伴う妄想を良く見てたそうですから、それかもしれないと思ってます。

その他の回答 (3)

  • KITAIKKI
  • ベストアンサー率55% (462/838)
回答No.4

おじいさまが無念を心に抱いたままお亡くなりになったことは、とても残念だったとお察し申し上げますが、残念ながら広島に原爆を投下したエノラ・ゲイが往路と復路のいずれにおいても、日本側から戦闘機の迎撃を受けたという公式記録はありません。  当時の原爆投下部隊の編制は、原爆搭載機1機、随行機2機(観測機器投下機1・撮影機1)、気象観測機3(広島・小倉・長崎各1機)、予備機1機(テニアンにて待機)の7機でした。このうち四国上空を飛行したのは原爆搭載機、随行機、広島を担当した気象観測機の4機でした。つまり当時四国上空で迎撃された可能性があるのはこのうちの4機ですが、アメリカ側の原爆投下に関するほとんどの公式記録には、そのどれもが迎撃を受けたという報告をしていません。  迎撃されたことをあえて秘匿する必要性はどこにもないので、この公式記録はかなりの信憑性があるといえます。なんといってもお話しの内容を読めば、エノラ・ゲイを迎撃されたのは往路であることが読み取れますが、そうであれば高度を取れないほどエンジンが不調なら、そのまま飛びつづけて原爆投下を実行するほど無鉄砲なことはまずやらないはずです。万が一迎撃されて撃墜されたり、あるいはそのままエンジン不調が原因で日本国内に不時着して原爆を日本の手に渡すなど、まさにアメリカにとっては悪夢以外のなにものでもありません。  普段なら気にしない程度の故障でも、この任務に限っては慎重に慎重を重ねた行動をしていたはずです。現実にこのような事態に陥れば迷わずUターンして硫黄島に着陸していたはずです。  また日本側にもこの小さな編隊を、攻撃していなかったはずだという状況証拠があります。終戦間際の日本航空部隊においては、B29の巡航高度である30000フィートまで昇って僅か数分であっても戦闘が出来る残り少ない優秀な迎撃機と、燃料、それになんといって搭乗員の温存が最優先でした。そこで各基地にはB29であっても2,3機の小編隊には敢えて手を出すな。つまり飛んでいって無駄な燃料や部品を消耗させるなという通達が出ていたのです。  エノラ・ゲイは1時間先行した気象観測機を除けば、随行機とあわせても3機でした。これはアメリカ側がその辺りの日本の苦しい台所事情を、数多くの出撃で感じ取っていたからともいえます。  とはいえ、一つだけ気になるのはおじいさまが迎撃したB29が50口径をほとんど撃ってこなかったという点です。実はその3機は任務上機体上部の50口径を除いてすべての機銃を降ろしていたので、まともに反撃できるはずもなかったからです。  しかしやはり残念ながら、おじいさまに限らず他の戦闘機によって、当時エノラ・ゲイおよびその随行機が迎撃されたという事実はありません。もし実際にあったとすれば、これほどのエピソードが放って置かれるはずが無く、これまでに多くのメディアに様々な形でそのドキュメントやドラマが再現されていたと考えるのですが。  私は、おじいさまや他のパイロット達がそのような思いを持たれたのは、広島長崎の惨状と敗戦という現実を見て、ほかの軍人あるいは政治家などよりもはるかに大きな責任感と、愛国心を持っていたからこそではないだろうかと考えます。  長々と書いてしまいましたことをお許しください。

noname#65040
質問者

お礼

やはりそうですね。 今年のテレビ等でみた原爆に関する特集でも迎撃を受けたという 話はまったく無かったですね。公式記録にも無いのですね。 祖父は生前、何故か戦争のことを聞かれると拒絶的に嫌がってました。 国のために実戦にまで参加したのだから決して恥ずかしいことでは 無いのに何でそんなに嫌がるのだろうと思ってました。 日本の防空を任せられてたのにB29の襲撃を食い止められなかった ということが心に残り最後の妄想として現れたのかも知れませんね。

回答No.3

ひとつのトピックになるでしょうか。 それにしても回答者さんの#1と#2では海軍と陸軍の違いがありますが、少なくとも質問者さんの説明の「紫電改」が正しければ当然海軍ということになりますが、この点、なくなられたおじいさまの話ではどうだったのでしょうか。 で、推理ですが、一般的にも知られていますが「四国の紫電改」と言うことでしたら有名な源田大佐の松山の343空ということになります。 この時期は主力は九州に行っていたかと思いますが松山の残置兵力か、または徳島の残置部隊になりますかね。 陸軍ですと二式複戦は近いところでは山口・小月の4戦隊が知られていますね。 今のところではおじいさまの「紫電改」の証言からでは海軍説に「分」がある感じですが質問者さんの追加の情報を期待します。

noname#65040
質問者

お礼

墓参りに行って本日帰ってきました。 祖父は戦争中のことを話すのをすごく嫌がって家族はみんな ほとんど戦争中の話を聞いたことはありません。 海軍にいて戦闘機に乗っていたことは確かなようです。 8月15日終戦の日は九州にいたようです。 もう死んでいるし、認知症も進んでいたので詳しいことは それ以上わかりません。

回答No.2

一次資料ではありませんが、No.1の方の回答の『四国付近』に思い当たるものがあったので、参考URLからの引用を載せます。 紫電改では無いです。隊員もはっきりしているようです。 1945年8月6日、四国上空でエノラ・ゲイの捕捉に成功した一機の陸軍航空隊機・二式複座戦闘機屠龍。  同機はすれ違い様に、エノラ・ゲイに向けて20mm機関砲の一連射を行う。  銃撃は逸れ、反転して再び掃射を加えようとする屠龍。しかし高高度、更に物資不足からオクタン価の低い燃料を用いていた事もあってか失速、攻撃位置を逸し降下してエノラ・ゲイは遠ざかって行った…。  基地から「先行した単機も爆撃せず離脱、恐らくは偵察目的と認む。追撃の必要なし」の通信を受けた同機は燃料の不足も危惧されるため帰還。そして帰還した基地で聞かされたのは、「廣島への新型爆弾投下」。同機の搭乗員に日を追って、その余りに悲惨な被害が伝えられる…それは戦後、そして搭乗員が一般市民として復員してからも続いた。 「何故あの時、体当たりしてでも止めなかったのか」  そうした自責が、この搭乗員氏にとって数分間の会敵時間に凝縮された「あの戦争」の全てになり、そしてそれを思い続ける意味での余りにも長い「戦後」はその最期の瞬間迄続いたと云う。以下蛇足ながら…出来過ぎた話の様で、どこかで話が織り交ぜられたかも知れないので。  晩年まで、同氏は1945年8月6日早暁の出撃から会敵・離脱迄を繰り返して夢に見たと言う…しかし。最後の年の「あの日」に近づく日毎により鮮明な夢の形をとり始め、具体的に先に没していた基地隊員達が「今度こそ」等と声を掛ける様になっていたと云う。そして死の床にも同じ夢を見ているらしい同氏の、没時の顔立ちは非常に穏やかなものになっていた。  1945年8月6日午前七時半頃、テニアン北飛行場を出撃した米第20航空軍509CG所属のB-29”エノラ・ゲイ”は、人類史上初の核兵器の実戦使用…この場合は都市爆撃による大虐殺の一種…を敢行すべく、四国上空を広島方面へと飛行中であった。偵察目的の先行機が存在した事が、この爆撃意図を晦ませ、陸海軍共にその防空網に探知しつつも「本土決戦の為の燃料温存」策もあってか邀撃戦闘を行わなかった…とされる。しかし、実際には一機の陸軍機が迎撃に向かっていた。  所属部隊を伏せた手記、更にその伝聞だがこの「たった一機の迎撃」はB29側の公式記録や手記にも残っている。迎撃に上がったのは二式複座戦闘機キ45改・屠龍、低速ながらも機首に備えた大口径機関砲、そして双発による高出力からこの連射に耐える頑丈さ。こうした理由から主に防空・爆撃機迎撃の任に充てられていた機体である。

参考URL:
http://www5.diary.ne.jp/user/530459/
noname#65040
質問者

お礼

すごく話が似てますね。 陸軍機で搭乗員もわかってるんですか? エノラゲイが補足されたのは本当なんですか? 今年も原爆に関する特集はテレビ等でたくさんありましたが迎撃を受けたという話はまったく無かったので。 祖父もそういう話を聞いて、自分のことと思い込んでたのかも知れませんね。 だいぶん認知症が進行してたので。

関連するQ&A