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臨床心理士ってダメなの?

私は臨床心理士を目指し、大学院の修士課程で勉強し始めた主婦です。 私の子どもは発達障害児で、ある発達障害の団体の支部に、その障害を持つ親を主体とした勉強会を立ち上げました。 私はその会の代表者の一人として数年間活動してきましたが、昨年1年ほどの間、親の介護と自分の大学院受験のため活動にあまり参加できませんでした。 今年度になって活動に戻ると、なんとなく他の代表者の態度に棘を感じるようになりました。 ”せっかく自分達がリーダーになれる番なのに、何しに戻ってきたの?”というところなのかもしれません。次期の会の代表のポジションを巡って次々のイベントを企画し自分の実績を立てようとしているような感じです。企画の打ち合わせも表面的に協力し合っているようですが、自分の有能さをアピールするように牽制し合っているように見えます。 たぶん、私が専門職としての資格をとるための一歩を踏み出したことも、彼女達の気持ちをイライラさせているのでしょう。自分達の聞きかじったような知識で「○○療法や△△教育については講習会にも出ていて自分の方が良く知っている。臨床心理士なんてなったって、発達障害児の支援になんか何の役にも立たないわよ。臨床心理士の資格なんて取ったってダメだと言ってくる人までいます。(その○○療法とか△△教育って臨床心理の分野なんだけどな・・・) 彼女達は確かに、障害者団体の支部のために莫大なエネルギーと時間を割き、献身的に活動をしています。(自分もかつてはそうでした)活動に対する金銭的な報酬はなく、ただ会員の感謝や協会のなかの表彰があるのみで、無償の奉仕をしています。 あまりそこに傾倒すると、その小さな世界で集団をコントロールできる万能感のような錯覚に陥ることが多く、代表者としての立場を手放せない無意識の依存のようなものが始まるようです。その小さな世界の中に留まっている限り、自分の「有能さ」と「正しさ」、みんなのために「無償で頑張っている自分」を実感でき都合が良いのです。 それでも、一度その小さな世界から一歩踏み出してみると、そうした活動は社会的になんら評価されないことに気づかされます。また、基礎的な理解が抜けている知識は、自分に都合の良い所だけを取り入れたいい加減なものです。彼女達も薄々は気が付いているのでしょう、絶対にこの団体以外の施設や法人でのボランティア・支援活動はしません。 私は、そうしたものから既に距離を置き始めていて、たぶん彼女達の無意識的「正しさ」や「万能感」を脅かす存在なんでしょう。それでも、そうした自分の都合の悪い現実を直視することに「抵抗」があるのでしょう。それが、私に対して「臨床心理士なんかになったってダメなんだから。臨床心理士なんて発達障害児の支援には役に立たない」という言動として現れているのであろうと解釈しています。 私は、臨床心理士になるのを止めるつもりはありませんが、彼女達といると、そのピリピリした空気を感じてあまり良い気持ちはしません。 こうした状態が続くと、本来は精神的に弱って困っている会を頼ってくる母親のために開いている会であるはずなのに、運営委員の自己実現の場のようになって会の雰囲気事態も悪くなるような気がします。 私は、会に参加しない方が良いのでしょうか。 私は会の運営者にこだわるつもりはありませんが、(資格を取得したら当事者家族であることとは距離をおきます)修士論文を書く際にフィールドを提供してほしいという気持ちもあって、関係を絶ちたく無いというのも本音にあります。

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  • maremare
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回答No.4

産業カウンセラーを取得し、通信制大学で心理学を学んでいる 社会人大学生です。資格取得のために努力を続けていらっしゃる姿勢には 正直敬服いたします。私も大学院で研究したいテーマがあり、 それを想定して勉強していますが、臨床心理士資格取得まではまだ 考えていないです。ただ、知人に臨床心理士がいます。 会との関わり方を考え直すという方向性が見えてきたんですね? ご自身の会との関わり方も大きな課題だと思うんですが、 私が注目したのは、あなたにかみついてくる会の方々のことですね。 失礼ですが、ご専攻や指導教員は精神分析が主体なんでしょうか? 無意識と「抵抗」といった視点から会の方々のことを捉えて いらっしゃるようですが、私が着目したのは、アメリカの成人教育学者 マルカム・ノールズの「剛構造としての経験」です。 会員の方々は、当事者もしくは当事者の養育者としての「経験」を 活かしていきたいというお気持ちがあることは、ご自身もおわかりだと 思うんです。そして、その「経験」が必ずしも学術的に正しいとは 限らない、一般化できるとは限らないということも、私なんぞに 指摘されなくても十分おわかりだと思います。 ところが、やはりその方々にとって「経験」は、スキーマや “自分の知識”を形作っていて、そこから思考パターンや習癖が それぞれ生み出され、自己アイデンティティを引き出すものになって しまっているんですよね。アイデンティティに関わるほどになっていると ノールズも「開放的になれない」と指摘していますが、その経験が 否定されると自身を否定されることも同様になってしまいます。 これが「剛構造としての経験」です。 あなたご自身は「このままではいけない」「もっと学びたい」という 意識変容へのニーズがあり、それで受験も院での学びもスムーズに いったと思うんです。そして、これまでの学びの中で、自分自身の “経験”や価値観を解凍して問い直したり、捉え直すことができたと 思うんですよね。しかし、会の方々とは意識変容へのニーズ自体が もう違ってしまっていて、自分たちがその活動の中で積み上げてきた 「経験」「アイデンティティ」が、あなたによって脅かされるのでは ないかという恐れがあると私は推測しましたが、いかがでしょうか? 例えば、障害児・健常児に関わらず「子育て」一つをとっても、 子育て経験のない若い女性は発達心理学の理論を簡単に受け入れますが、 経験者は「うちの子は○歳のときはそうじゃなかった」 「うちの子はそんなことしなくても大丈夫だったのに」と 自身の経験とどうしても結びつけて考えてしまうと思うんです。 そして、理論のほうが絶対的に正しいと権威から指摘されても、 自身の経験と整合性がとれないと、よけいに理論を受け入れられずに 戸惑ってしまうんですよね。あなた自身がその「権威」のように 既に見られてしまっているのではないか?ということです。 もしこの勝手な推測が当たっていたと仮定して、会に何らかの形で 関わるとするなら、会の方々の「経験」や役立ちたいという感情は、 それはそれでいったん受け止める、“トゲ”のような言葉についても 変容や理解をあまり性急に求めない、という姿勢で最初はいくしかないと 思うんです。そして、もし何か働きかけをされるなら、会の方々が 自分たちの「経験」や“知識”を少しずつふり返ることから始めていく という、ゆっくりしたプロセスが必要だと考えたのですが、 いかがでしょうか? ふり返りをしたにもかかわらず人々が後ろ向きに なったとしても、意識変容は少しずつ生じている、と パトリシア・クラントンという学者は論じています。 どんな研究計画をお持ちかわかりませんが、論文執筆の際のフィールド として会に関わることについては、「元当事者」が研究者(および 実践研究の実践者)となることの是非も含めて指導教員と 相談していくのがベストだと思いますよ。 私が上記で述べたことは、心理学よりは教育学(生涯学習論・ 学習援助論)の分野ですが、意識変容へのニーズのきっかけとして、 ユングの「人生の正午」や発達課題にかかわる問題が指摘されています。 もしご興味がおありでしたら、ノールズの『成人教育の現代的実践』、 J.ロジャーズの『おとなを教える』、クラントンの『おとなの学びを 拓く』『おとなの学びを創る』といった文献がありますので、 ご参照いただけたらと思います。 ご質問内容から推測しただけですので、的外れだったら申し訳ないです。 大変だと思いますが、勉強頑張ってください。

pirika01
質問者

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maremare様 御回答ありがとうございます。 鋭い御推察通り、院の授業の導入(授業というよりも、スクーリングでは体験を積むという方針)では、 分析系の指導者が心理的圧迫を加えた非構成的エンカウンターで、自分自身の無意識的な 性癖、思考・行動パターンに気付きを得るということを課題としたものでした。 自分の抑圧した感情、性癖、行動パターンと向き合って、 自身の心の奥にあるものを見るというのは厳しい体験であるものの、 喉の奥に刺さったままになっていた棘を抜く恐れと痛み、 その後感じられる「気付き」という意外感、開放感は、 次の自分の歩むべきステップへの第一歩となりました。 私自身は、発達障害児・者の支援と家族の心理教育や障害受容について、研究することを目的として大学院に進学したため、 どちらかといえば認知行動療法の方に興味があって、精神分析は興味の対象外、且つ少し批判的な考えさえ持っていました。 しかし、それは私自身の精神分析という分野に対する 圧倒的な理解不足であったと気付き、今は少し「分析にハマってしまっている」状況にあります。 学ぶということは、新しい自己の発見でもあるのですね。 新しく「学ぶ」「知る」ということは、maremare様の仰るとおり、 ある種の意識変容へのニーズを動機として、多かれ少なかれ何らかの価値観や行動の変化が生じるものでしょう。 自分自身の経験からも、そうした変化を受け入れようという気持ちにならない限り、学習に対する動機付けは低くなり、 今までと違う何かを学ぶということに向き合えなくなります。 >会の方々とは意識変容へのニーズ自体がもう違ってしまっていて、 >自分たちがその活動の中で積み上げてきた「経験」「アイデンティティ」が、 >あなたによって脅かされるのではないかという恐れがあると私は推測 たぶんそうだと感じています。 その人の「経験」は、その人の人生においては「正しい」在り方(だからこそ、その人の生活は成り立ち、満足している)であっても、 全ての人に一般化されるわけではなく、その人個人の「経験」を尺度として用いることはできない。 それでも、個人の在り方、或いは自分の価値観に共感的な集団の中しか見ようとしないと、 人は個人の物差しで相手を計ろうとしてしまう。 物差しは初めの頃は柔軟に尺度の変更が効いても、 長年使ううちに自身の使い勝手の良い尺度のみを用いるようになり、 その正しさを保障してくれる相手としか付き合わなくなるのですね。 それを改めて見直す作業をし始めると、その尺度の正しさを拠り所としている側との間に、認知的不協和が生じてしまう・・・ >変容や理解をあまり性急に求めない、という姿勢で最初はいくしかない そうですね。私の方にも少しせっかちな所があるのかもしれません。 彼等が私の方に生じている変化に慣れるのを「待つ」ことが必要なのですね。 御紹介いただいた文献は、支援の心理教育的側面を考える上で参考になるものと思われますので、参照したいと思います。 ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • kigurumi
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回答No.3

あくまで、私から見える風景ですが、、、 集団から排除されそうになる子供の母親を援助する側が、あなたを異物とみなし排除する構図。 こういうのを、私は弱い集団と呼びます。 集団によっては、障害と区別しないで、共同体に受け入れ共に生きる社会もある。 これを私は強い集団とします。 先進国ほど、弱い社会。 ラベルをつけ命名したがるが、命名したことで、よけい差別化されちゃう。 例えば、同和教育も、同和問題に取り組むためやったけど、逆に差別を拡大する結果に終わった。 私が思うには、相手側は防衛機能が働いて、おびえが発生して、あなたを受け入れられないんじゃないか と。 私からあなたを見たら、あなたの特徴は前向き。 新しい考えに耳を傾け、いいと思えたら受け入れる柔軟性を持つ。 彼らはその逆。 変化を嫌う。 自分が作り上げた世界を外部によって変えられることに恐怖感を持つ。 今の考えを変える勇気が無い。 現状維持が楽だから。 でも、これ普通の考え。 年をとるほど、変化を嫌うようになる。 惰性で回したほうがエネルギーの消費量 少なくて済むでしょ? ある意味停滞しよどんだ水たまりは、やがて水が腐る。 だから、国は頻繁に選挙やって、水が腐らないようにするわけでしょ? >私は、会に参加しない方が良いのでしょうか。 はい。 でも、あなたにはキャリアあるじゃないですか。 しかもキャリア プラス 前向き志向。 どこでも やっていけると思います。 でも、彼らはそれが難しい。 それが彼らの特徴です。 それを理解してさしあげるとよいかと。 逆に変化を嫌うから 同じところにいついたわけです。 で、停滞するのを望む場所より、よりよい社会を目指す集団に入ったほうが、バシバシ刺激受けると思うんですね。 停滞する集団で10年活動した人と、バシバシ新しい息吹が入り込んでいる集団で3年活動した人。 どっちが、他者を排除しない社会を作る人材を輩出すると思います? NGOとかでそういう活動をしているグループ いくつかあるの見かけました。 他に社会福祉協議会でボランティア登録するか、社会福祉協議会に相談すれば、どっか紹介してもらえるかも。 いろいろ見て回り、援助の違いで、どうなるか 調査してもいいんじゃないかと。

pirika01
質問者

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kigurumi様 御回答ありがとうございます。 >集団から排除されそうになる子供の母親を援助する側が、 >あなたを異物とみなし排除する構図。 このパラドックスは、私自身が会を運営しながらこの数年ずっと感じ続けて来ました。 発達障害のある子自身も各々一様な在り方ではなく、それ以上にその子どもの家庭や親の社会的状況は多様なはずなのに、長く会に留まる親子の傾向は似たような人達になってくるのです。 つまり、会を形成する核となるもの(会の運営を主導している小集団の構成員)が参加者を選んでいて、自分達と”水”の合わないものは異物として排除していく・・・もともと、当事者の有志で動かされている集団である以上、それはしかたがないのかもしれないですが。 にも関わらず、この会の年長の代表者は会から情報を得て何らかの社会的援助を引き出した後に、会を離れて行った人を「人の恩や恥を知らない人間だ。(実際はもう少し婉曲な表現ですが・・・)」と当人がいなくなった後で他の人たちの前で言うのです。 暴走族や宗教団体ではないので、「制裁」はその程度で済みますが、要は、会を抜ける人を自分達の価値観や在り方を否定されたように感じ、それを直接自分の感情として認めるよりは、いなくなった人間を悪者にして気持ちのバランスをとっているのだろうな・・・と感じます。それに巻き込まれて同調していられる間は、たぶんそこは「居心地の良い場所」なんでしょう。 先日、会の親団体となる障害者団体が、地元の有料者を招いた大規模なパーティを開きました。 自分の置かれた状況を喩えるなら「宗教団体の大規模な祭典に紛れ込んだ異教徒」・・・自分だけ場に酔いしれることができず、違和感と居心地の悪さを感じてしまったのですね。 私は彼等が私を異物と思う以上に、自分自身が集団の中で異物なのだと感じているのかもしれません。 古井戸の中が安全で、最もすばらしい場所だと思い込むことで満足する蛙は、そこから一生出ることなく過ごすならば、井戸の中を彼等にとって最も住み心地の良い場所にさえすれば良い。それが、彼等にとっての「満足と繁栄」になるなら、否定するべきものではないのでしょう。 ただ、そこでは泳ぎ足りない蛙にとっては、井戸の内側からしか見ない空は物足りなく、一旦外側に出てしまうと体の色、臭いが変わってしまい双方仲間どうしと認識し合えなくなる。一旦外に出たら、やはり自分の居場所としての池や沼に移るしかないわけですね。 一旦外に出てしまった蛙は、その井戸の中にさえ入ることができない蛙の方が数も多く、井戸から排除される蛙さえいることを知ってしまう。 (「福祉」と言う考え方からは程遠いものと知る。) >でも、彼らはそれが難しい。 >それが彼らの特徴です。 >それを理解してさしあげるとよいかと。 >逆に変化を嫌うから 同じところにいついたわけです。 この会に限らず、何らかの支援を必要としている人達とは、そうした所から自分達で抜け出すことのできない人達なのですね。 それが、彼等にとって良い状態であれ、悪い状態であれ、そのままの状態を維持したい(これ以上悪くなりたくないから)というのは、人の弱さというものなのでしょう。 そこを超えて新しい状況に飛び込んでいくことには、エネルギーと自我の強さが必要で、支援する側に身を置くのであれば、前を向いて自分の力で進んでいくしかないのでしょう。 たぶん、私の身の処し方としては、古井戸の中を時々覗きに来ながら、そこを自分の居場所とはせず、自分の住処を探すために、色んな池で泳いでみるんでしょう。 >他に社会福祉協議会でボランティア登録するか、社会福祉協議会に相談すれば、どっか紹介してもらえるかも。 そうですね。行動の選択肢一つとして実行してみます。 ありがとうございました。元気が沸いてきました。

  • noname002
  • ベストアンサー率36% (97/264)
回答No.2

御家庭事情の厳しさにも負けず、お勉強に邁進してらっしゃることに感心しました。 障害者の端くれである私個人も、親がPTAやボランティア活動に熱心だったり芸能関連の習い事の教室を主宰していたりで、それらにまつわる問題に、人間関係のことが際立って多いことを早くから知っていましたし、自分の職場等でも人間関係の問題を実感することは多かったので、御相談のことは分かるような気がします。 >自分の実績を立てようとしているような感じ >自分の有能さをアピールするように牽制し合っているよう こうしたことは何らかの人の集まりにおいては起きてきがちのようですね。また >莫大なエネルギーと時間を割き、献身的に活動をしています。 >活動に対する金銭的な報酬はなく、ただ会員の感謝や協会のなかの表彰があるのみで無償の奉仕 このような場合ほど尚更、精神的な満足感や名誉心を求めてしまいがちで、とくに、かけた時間とエネルギーが莫大であるほどに、それに見合うだけのものを取り戻そうとするかのごとく執着的、支配的になり「コントロールできる万能感」というものを報酬代わりにしようとしてしまうのかもしれません。また、そうなると >その小さな世界から一歩踏み出してみると、そうした活動は社会的になんら評価されないことに気づかされ てしまって、せっかくの「万能感の錯覚」から覚めたくはないでしょう。 ただ、くだんの勉強会なるものの詳しい活動内容や具体的方針が、ちょっと分かり難いので、あまり突っ込んだ意見は申し上げられませんが >他の代表者の態度に棘を感じるようになりました。 ”せっかく自分達がリーダーになれる番なのに、何しに戻ってきたの?”というところなのかも これは1年ほどの間、会の活動から遠ざかりがちだったということですので、「何よ今さら」というような、よそよそしさなのかな?と一見思ったのですが >私が専門職としての資格をとるための一歩を踏み出したことも、彼女達の気持ちをイライラさせている >自分達の聞きかじったような知識で「○○療法や△△教育については講習会にも出ていて自分の方が良く知っている。臨床心理士なんてなったって、発達障害児の支援になんか何の役にも立たないわよ。臨床心理士の資格なんて取ったってダメだと言ってくる人までいます。 一歩も二歩も先に歩き出した人に対する嫉みや牽制などはあって不思議でないことかとも思いますけれど、臨床心理士資格について、いわばクサすようなことをアカラサマに言ってくるというのは、質問者さま御自身その資格が会のために有意義なものであり、実際、会に役立てるため、その資格を取得するのだという、お心づもりとアピールをなさってるわけなのでしょうか? >(その○○療法とか△△教育って臨床心理の分野なんだけどな・・・) であれば、そのように反論なさればよろしいのではと思いますけれども。。。 臨床心理士の各分野における実際的技量について私は自身の体験がありませんので何も申し上げられません。ただ現場での評価は心理士個々人の技量差も大きいのかもしれませんが賛否両論ではあるようですね。 >私は、会に参加しない方が良いのでしょうか。 というお尋ねですが >本来は精神的に弱って困っている会を頼ってくる母親のために開いている会であるはず なのですよね? >運営委員の自己実現の場のようになって会の雰囲気事態も悪くなるような気がします。 ということを、なんとか阻止し、本来の会の運営精神を取り戻そうという働きかけをしていく意欲をお持ちというわけでもなく >資格を取得したら当事者家族であることとは距離をおきます という御予定なのでしたらば >修士論文を書く際にフィールドを提供してほしいという気持ちもあって、関係を絶ちたく無いというのも本音 ということに過ぎず、御質問者さまにとって、会は、そこまでの存在価値でしかないということなのでしょうか。 >そのピリピリした空気を感じてあまり良い気持ちはしません。 それでも、御自分のお勉強上、利用価値があるなら、そこはガマンする と思えるかどうか、ということになりますね。或いは 臨床心理士資格取得が会と切り離せない目的なのか、会とは直接関係のない目的なのか 会本来の設立趣旨を取り戻すことは諦めて御自分の道をひとり進むことに専念されるのか、それとも一応どのようなスタンスになっても、会との関わりは続けていくのか 資格取得の勉強のために会が利用できそうな部分は利用させてもらうが、そのぶんイヤな雰囲気にも耐えるのか こういったあたりの質問者さまの御考えが回答側としては、よく見えてきません。 心理学徒としてのお立場からは会のかたがたの思惑を分析するのは、それなりに御興味と異議があることでしょうが、それ以上に御自身、会との関わりぐあいを将来的にどうもっていきたいのか、そのあたりを詰められるべきではないでしょうか。               

pirika01
質問者

補足

noname002様 御回答ありがとうございます。 前半の御推察は、その通りだと思います。 >一歩も二歩も先に歩き出した人に対する嫉みや牽制などはあって不思議でないことかとも思いますけれど、 はい。大学院合格後に、しばらくぶりに大学時代の同期の友人らと会うことがあり、「あなたが大学院に受かったことで、正直自分は嫌な気持ちになった。途中で挫折してくれたら自分はホッとする」とストレートに言われました。丁度40歳を過ぎたころで、人生も折り返し地点(会の代表格の彼女達も何故かほぼ同学年であり・・・)となり、自分はこのままで良いのか、もっとステップアップできるのではないか(要は自分の現状にけして満足しているわけではない)ということを、意識させられる年齢なのかもしれません。彼女が私に対しストレートに言えるのは、20年以上の永木に渡って細く長く付き合ってきた仲であり、日常生活では利害のない関係にあるから、彼女の気持ちを正直に言うことができたのだと思います。周りの人間はそのように感じるんだということが、はっきり解って、正直に自分の気持ちを言ってくれた彼女に対しありがたく思いました。 >質問者さま御自身その資格が会のために有意義なものであり、実際、会に役立てるため、その資格を取得するのだという、お心づもりとアピールをなさってるわけなのでしょうか? いいえ。たぶん、もともと「同じような立場」からスタートした人間が、改めて専門家という立場で関わることは難しいと思っているので「会のために役立てる」ために資格を取得するつもりはありません。 >>(その○○療法とか△△教育って臨床心理の分野なんだけどな・・・) >であれば、そのように反論なさればよろしいのではと思いますけれども。。。 それができたら楽なんですが・・・それをすると、反論した相手がそれ以外の人と影で色々言い合ってより牽制が強化されます。女性の集まりでは、ありがちな光景ですね。(こうして派閥が出来上がるみたいな。エスカレートするとスケープゴートを作って吊るし上げして、集団を維持するみたいな・・・) >会本来の設立趣旨を取り戻すことは諦めて御自分の道をひとり進むことに専念されるのか、それとも一応どのようなスタンスになっても、会との関わりは続けていくのか資格取得の勉強のために会が利用できそうな部分は利用させてもらうが、そのぶんイヤな雰囲気にも耐えるのか こういったあたりの質問者さまの御考えが回答側としては、よく見えてきません。 そうですね。たぶん、私自身の中で、その辺に優先順位が付け切れてないから、モヤモヤしているのかもしれません。 自分が心理系の仕事をするなら、多少の人間関係の摩擦くらいでメゲていてはやってられないと考えれば、彼女達がどう言おうと気にせずやり過ごす術を磨くことを目標として、ずうずうしく参加し続けるというのもありなのかもしれないと思います。 >会本来の設立趣旨を取り戻すことは諦めて御自分の道をひとり進むことに専念 しながら、自分のなりやり方で、 >一応どのようなスタンスになっても、会との関わりは続けていく 方法を模索するのが理想なのかもしれないです。 でも、現実は厳しいです。 もう少し、自分の気持ちを整理してみたいと思います。 ありがとうございました。

  • Tare_Toro
  • ベストアンサー率52% (27/51)
回答No.1

 本来、お子さんのために立ち上げられたであろう勉強会で、こういうことがあると、悲しいですよね。  さて、私は大人になってから[高機能]広汎性発達障害と診断された者です。その当事者の視点で、少々“たわごと”を…。  まず、大人になってから発達障害だと診断されると、このような“親の会”どころか当事者への支援さえ儘ならない地域が多く、会の存在そのものが羨ましく思えました。  とはいえ、どんな組織でも人間関係で成り立っていることには変わらないので、個々人同士や組織との相性はあると思います。まずはご自分の信念や目標が、どうしても周りの方と合わないと思えば、そういう親の様子はお子さんへ影響するかもしれませんよ。発達障害を抱えていると、親のちょっとした表情の変化も敏感に感じ取り、悪いほうに解釈することもありますから…。そういう点を踏まえて結論を出してみては如何でしょうか。  あと補足ですが、私の場合、発達障害だと診断される前に幾つかの精神障害名を誤診され、何人か臨床心理士のカウンセリングを何回かずつ受けたことがありますが、いずれもコミュニケーションが成立せず、すべて“失敗事例”に終わってしまいました。もしかしたら他の親御さんたちには、そういう状況も含んでの反応があるのかもしれませんね。

pirika01
質問者

補足

Tare_Toro様 御回答ありがとうございます。 質問の主旨と全く逸れてしまう余談ですが、私自身もアスペルガー症候群且つADHDです。正式に診断されてませんが、娘の通っている病院の医師の見立てで確実と言われています。諸々の事情で、かなり前に自分が自閉症圏に含まれていることに気付いており、そうした特性と上手く付き合って下さる人や、同じ傾向を持っていることに気付きのある人の私的なサポートを受け、上手く社会適応して今日に至っています。(自分の脳の特性を知り、使いこなしているというか・・・)たぶん、よほどこの障害に詳しい人でも、私がASであることは気付かないかもしれません。(ADHDの方は時々バレてしまいますが・・・泣) この脳の特性と付き合いつつ、社会適応をしようとし続けると、健常者が無意識の中で考えずに行なっている心理的操作を意識化して一旦考えてから行動する癖が付きます。自閉症特性が故の大容量の記憶力で、他者が本来無意識で行なっているはずの行動パターンや、他者の心理的操作のパターンを学習し続けることで、自身の社会適応的行動パターンを作り上げることができ一見多数派(健常者)と同様な奇異さのない行動が取れるようになると、Tare_Toro様の仰る、 >発達障害を抱えていると、親のちょっとした表情の変化も敏感に感じ>取り、悪いほうに解釈することもありますから…。 のような、過敏に身近な人の行動の変化や心理状況に反応するようになりますね。私自身もたぶん、この(他者の心理状態に過敏に反応している)状況にあるのかもしれません。 ”多数派(健常者)は、そんなの気にしすぎだよ~”という。 でも、少数派(ASD;自閉症スペクトラム障害)にとっては、多数派が無意識にできる暗黙のルールや、「そういうものだから・・・」とちょっとした疑問や不満を無意識に追いやる作業が自動的にできないので、「そんなの気にしすぎ」と割り切ったりすることができないのが辛いところです。それは必ずしも悪いことではなく、寧ろ長い間自分の特性と付き合っていると、多数派の人間が「そういうものだから・・・」という、彼らの言う常識に捉われずに物事を考えたり、行動できたりすることもできたりします。多数派との「常識(認知の枠組み)」の違いを意識せずには世の中で生活できませんから・・・ >私の場合、発達障害だと診断される前に幾つかの精神障害名を誤診され わかります。私達の会にもそうした状況で深刻な二次障害や必要のない投薬で痛めつけられた当事者の親が来ることがあります。 >何人か臨床心理士のカウンセリングを何回かずつ受けたことがありま>すが、いずれもコミュニケーションが成立せず、すべて“失敗事例”>に終わってしまいました。 そうそう。知的に能力が高くて、言語能力が一見高くても多数派の人が無意識に通じていると思い込んでいることが、上手く伝わっているかどうか微妙だったりします。 カウンセリングの技法にも色々なものがありますが、言語コミュニケーションのみに依った「ヒントを幾つか揚げるから、あとは自分で気付いてね。」っていうタイプのものは、自分の認知的問題やコミュニケーションスキルの問題を理解できずに苦しんでいるASDの人の精神的混乱をかえって大きくしてしまいます。 そう、Tare_Toro様は良いことを思い出させてくれました。 こうしたエラーを引き起こさない支援者側のほとんどは、自身にもこのASDやADHDの傾向が多分にあることに気が付いているんです。 (つまり、この障害を専門としている多くの専門家はこの障害を有している人達なのです。) 私は、ASDの人に歩み寄れる支援方法を模索して、理論的に確立できないかと思って大学院に進学したのでした。 Tare_Toro様の文を読んで自分の向かうべき道が再確認できたようなきがします。ありがとうございます。 >当事者への支援さえ儘ならない地域が多く、 は、地域差が大きいのが現状ですが、県の発達障害者支援センター(自身の住んでいる県になければ近隣の県)に、繋がりを持たれると情報を貰える可能性があります。キャパを上回る相談件数の多さで、直ぐに対応してもらえないかもしれませんが、対応してもらえると思います。