- ベストアンサー
臨床心理士ってダメなの?
私は臨床心理士を目指し、大学院の修士課程で勉強し始めた主婦です。 私の子どもは発達障害児で、ある発達障害の団体の支部に、その障害を持つ親を主体とした勉強会を立ち上げました。 私はその会の代表者の一人として数年間活動してきましたが、昨年1年ほどの間、親の介護と自分の大学院受験のため活動にあまり参加できませんでした。 今年度になって活動に戻ると、なんとなく他の代表者の態度に棘を感じるようになりました。 ”せっかく自分達がリーダーになれる番なのに、何しに戻ってきたの?”というところなのかもしれません。次期の会の代表のポジションを巡って次々のイベントを企画し自分の実績を立てようとしているような感じです。企画の打ち合わせも表面的に協力し合っているようですが、自分の有能さをアピールするように牽制し合っているように見えます。 たぶん、私が専門職としての資格をとるための一歩を踏み出したことも、彼女達の気持ちをイライラさせているのでしょう。自分達の聞きかじったような知識で「○○療法や△△教育については講習会にも出ていて自分の方が良く知っている。臨床心理士なんてなったって、発達障害児の支援になんか何の役にも立たないわよ。臨床心理士の資格なんて取ったってダメだと言ってくる人までいます。(その○○療法とか△△教育って臨床心理の分野なんだけどな・・・) 彼女達は確かに、障害者団体の支部のために莫大なエネルギーと時間を割き、献身的に活動をしています。(自分もかつてはそうでした)活動に対する金銭的な報酬はなく、ただ会員の感謝や協会のなかの表彰があるのみで、無償の奉仕をしています。 あまりそこに傾倒すると、その小さな世界で集団をコントロールできる万能感のような錯覚に陥ることが多く、代表者としての立場を手放せない無意識の依存のようなものが始まるようです。その小さな世界の中に留まっている限り、自分の「有能さ」と「正しさ」、みんなのために「無償で頑張っている自分」を実感でき都合が良いのです。 それでも、一度その小さな世界から一歩踏み出してみると、そうした活動は社会的になんら評価されないことに気づかされます。また、基礎的な理解が抜けている知識は、自分に都合の良い所だけを取り入れたいい加減なものです。彼女達も薄々は気が付いているのでしょう、絶対にこの団体以外の施設や法人でのボランティア・支援活動はしません。 私は、そうしたものから既に距離を置き始めていて、たぶん彼女達の無意識的「正しさ」や「万能感」を脅かす存在なんでしょう。それでも、そうした自分の都合の悪い現実を直視することに「抵抗」があるのでしょう。それが、私に対して「臨床心理士なんかになったってダメなんだから。臨床心理士なんて発達障害児の支援には役に立たない」という言動として現れているのであろうと解釈しています。 私は、臨床心理士になるのを止めるつもりはありませんが、彼女達といると、そのピリピリした空気を感じてあまり良い気持ちはしません。 こうした状態が続くと、本来は精神的に弱って困っている会を頼ってくる母親のために開いている会であるはずなのに、運営委員の自己実現の場のようになって会の雰囲気事態も悪くなるような気がします。 私は、会に参加しない方が良いのでしょうか。 私は会の運営者にこだわるつもりはありませんが、(資格を取得したら当事者家族であることとは距離をおきます)修士論文を書く際にフィールドを提供してほしいという気持ちもあって、関係を絶ちたく無いというのも本音にあります。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
補足
maremare様 御回答ありがとうございます。 鋭い御推察通り、院の授業の導入(授業というよりも、スクーリングでは体験を積むという方針)では、 分析系の指導者が心理的圧迫を加えた非構成的エンカウンターで、自分自身の無意識的な 性癖、思考・行動パターンに気付きを得るということを課題としたものでした。 自分の抑圧した感情、性癖、行動パターンと向き合って、 自身の心の奥にあるものを見るというのは厳しい体験であるものの、 喉の奥に刺さったままになっていた棘を抜く恐れと痛み、 その後感じられる「気付き」という意外感、開放感は、 次の自分の歩むべきステップへの第一歩となりました。 私自身は、発達障害児・者の支援と家族の心理教育や障害受容について、研究することを目的として大学院に進学したため、 どちらかといえば認知行動療法の方に興味があって、精神分析は興味の対象外、且つ少し批判的な考えさえ持っていました。 しかし、それは私自身の精神分析という分野に対する 圧倒的な理解不足であったと気付き、今は少し「分析にハマってしまっている」状況にあります。 学ぶということは、新しい自己の発見でもあるのですね。 新しく「学ぶ」「知る」ということは、maremare様の仰るとおり、 ある種の意識変容へのニーズを動機として、多かれ少なかれ何らかの価値観や行動の変化が生じるものでしょう。 自分自身の経験からも、そうした変化を受け入れようという気持ちにならない限り、学習に対する動機付けは低くなり、 今までと違う何かを学ぶということに向き合えなくなります。 >会の方々とは意識変容へのニーズ自体がもう違ってしまっていて、 >自分たちがその活動の中で積み上げてきた「経験」「アイデンティティ」が、 >あなたによって脅かされるのではないかという恐れがあると私は推測 たぶんそうだと感じています。 その人の「経験」は、その人の人生においては「正しい」在り方(だからこそ、その人の生活は成り立ち、満足している)であっても、 全ての人に一般化されるわけではなく、その人個人の「経験」を尺度として用いることはできない。 それでも、個人の在り方、或いは自分の価値観に共感的な集団の中しか見ようとしないと、 人は個人の物差しで相手を計ろうとしてしまう。 物差しは初めの頃は柔軟に尺度の変更が効いても、 長年使ううちに自身の使い勝手の良い尺度のみを用いるようになり、 その正しさを保障してくれる相手としか付き合わなくなるのですね。 それを改めて見直す作業をし始めると、その尺度の正しさを拠り所としている側との間に、認知的不協和が生じてしまう・・・ >変容や理解をあまり性急に求めない、という姿勢で最初はいくしかない そうですね。私の方にも少しせっかちな所があるのかもしれません。 彼等が私の方に生じている変化に慣れるのを「待つ」ことが必要なのですね。 御紹介いただいた文献は、支援の心理教育的側面を考える上で参考になるものと思われますので、参照したいと思います。 ありがとうございました。