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色好みということ
光源氏がどうした、こうした。ということだけで源氏物語をみていた高校時代は、単に、貴族の男女の間の出来事に過ぎないということで意味性を認めては居ませんでした。 古希、もう男女のこともぎらつきが常にはなくなってきてから、自治体主催の高齢者向け講演会での勉強は違う印象を持つことができました。日本人性の一側面かなと、存じてきております。そのことに関連して、お教えとご示唆を賜りたいと存じます。 1. 当時の色好みとかその活動や行動は、江戸、明治、昭和と進んだ欧米などからの文明汚染以前での、欧米的な肉欲、sexualな性格とは距離がある、倫理や生き方、美学的要素のあるものではなかったかと、思うのですが。いかがなものでしょうか?正鵠を得ていないでしょうか? 2. 男女のことや色ということでのこういう気持ちは、文明汚染を経ても、私たち日本人には、単なる肉欲、sexualな性格ではないものが続いていると存じますが、つまり、光源氏にすごくsympathyというか一体感がもてるのですが、このことでのご注意と示唆などを頂きたいのですがよろしくお願いします。 * なお、こういう思いに対して対立させた<欧米的な肉欲、sexualな性格性>ということばも、その内容ももちろん私の側の主観的造成であることは自覚しております。
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あなたのおっしゃるとおりだと思います。 色好み、好き者、男女の色事、それらを風流な事と呼んでました。 風流というと自然の癒し空間(花鳥風月)を愛でることのみに使われているような感じが今ではしますが、それらもすべて男と女があってのことだったのではないでしょうか。 古来、和歌は相聞歌として発達したわけで、要するにラブレターであります。和歌は美学、美意識を先鋭的に表現したものといえます。芭蕉あたりの俳諧からわび・さびに傾いてしまった館がありますが、風流とは本来、男女の機微に使うものだったのかもしれません。色気とかいう語もセクシーと同義ではありますが、それは今の感覚でしょう。伊勢物語の「初冠」に出てくる「なまめいたる女はらから」は色っぽい姉妹という意味ではなく、初々しい優美な姉妹という意味です。言葉や美的感覚は我々とは随分違うと思います。 西洋の平等主義みたいなものが輸入されて、「吉原」とか恥ずべき文化のようにされていますが、江戸落語などを聞くとたいそうりっぱな文化だったのではないかと思いますけどねぇ。
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- jo-zen
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ご推察、正鵠を得ていると思います。もっとも、先人にも多く同様の思いを持たれた方も多いようで、様々な研究もなされてはいるようです。 専門的な研究はさておくとして、以下のURLを参考にしてみてください。 http://osaka.yomiuri.co.jp/kokoro/kj40726a.htm 源氏物語では、「色好み」を「思いくまなき心」だと言っているようです。行き届かないところがないほど相手の気持ちを配慮するという意味のようです。 無理やりにいろいろな思いを閉じ込めようとしてきた反動のようなもので、現在様々な犯罪の多発を招いているのではないかとも感じております。うまくガス抜きができていれば起こらないようなことが、頻発する状況を憂えます。人間関係のあり方が、変にねじ曲がってしまってきているのかな、と思います。
お礼
ありがとう御座います。 今頃、道学などがはやるわけはないのですが、みもふたもない即物的な実利・能率中心よりも、奥ゆかしいとか、情的なものでの表現と内容はやはり日本人としては、あまり忘却したくないですね。 【無理やりにいろいろな思いを閉じ込めようとしてきた反動のようなもので、現在様々な犯罪の多発を招いているのではないかとも感じております。】というご指摘は今次の私の関心のことではなかったのですが。 むしろ今はあまりに、野放図で、そして自己生活や能率が中心になっていますね。 通れば何でも通してしまう。 わがまま、無節度になってはいないでしょうか。 犯罪、残虐、前時代の軌道を外す。そして簒奪、戦争。これはどの時代にも、どこの国にもありましたが、比較的日本文化の基流は、そういうものにしっかりとした批判の基点を与えてくれるし、批判してきてくれたのではないでしょうか。
補足
音田昌子司会の山折哲雄氏、田中優子教授のお話は日本の心の想起にたいへん役立つものです。 ありがとう御座いました。今次、私の質問の目的は源氏の男女のことが意外と日本人の物事への対し方の基流となっていることの気付きの確認とその内容化を目的としておりました。 そんなことで、もし何かお気づきのことがありましたら、ご教示賜りたく存じます。 ありがとう御座いました。
お礼
そうですか、吉原も表現すると、遊郭文化といえるものであったわけですか。 欧米文化を誤解しているかもしれませんが、私に伝わり、理解するかぎりでの、あのザッハリッヒな観念で、私たちの先行文化を、今の言葉だけで理解するのは危険だなと感じております。 ありがとう御座いました。
補足
ご両所様 ありがとう御座いました。 私たちのような、コンクリートと能率、即物なる散文ではなく、和歌による、美の中での思想や哲学の表現に惹かれました。 しかし、やはり人間の作品、つくり、見せるものですね。 感動や何か人間のこの地上での目的があり、そのための作品であり、また感動や喜び、勉強などのために紐解くものですね。 そういう意味ではやはり、人間と地上が主・中心ですので、遊び、てなぐさみの面はあらざるを得ないことですね。 いまどきの、現代の東西の文学や演劇、ドラマとは格が違っても、それは限界があるのでしょうね。 これからも民族の心性、文化についていろんな方のお話を伺って生きたいと存じます。 ありがとう御座いました。