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江戸時代迄の洗髪に関して
時代劇などを見ていると、女性・男性共に髪を結っていますが、 その髪を結いなおすなんて毎日やるようなことではないですよね? だとすれば今で言うところのシャンプー(洗髪)もその結いなおしの 時にしかできないのだと思うのですが、それだと3日もすれば髪の臭いが かなりひどくなると思うのです。 結いなおしをどの程度の間隔で行っていたのかはわからないのですが、 当時の人たちは臭い髪のまま普通に過ごしていたのでしょうか?
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 ご質問の件ですが、時代劇・・・ということから、江戸時代についてお話をさせていただきます。 まず、庶民に限って言えば、髪を洗うのは、大体1ケ月に1回位でした。 当然、あなたの言われるように、3日もすれば・・・ですが、そうした匂いを隠すために、裕福な家庭では「伽羅油(きゃらゆ)」で、一般的には「五味子(ごみし)」という匂いの強い整髪剤を使っていました。 五味子・・・マツブサ科の植物で赤い実を葡萄のようにつけます。酸味が非常に強く、また、苦い。実や葉、茎から、やや「ネバネバ」した汁が採れる。しかし、整髪剤にだけではなく、実は乾燥させて、肝臓や肺臓の薬としても用いられました。 また、シャンプーの代わりとして用いられたのは、「ふのり」「うどん粉」「卵の白味」「椿油の搾りかす」などでした。 男性の場合: すでに江戸時代初期から「髪結床」があり、橋のたもとや四辻(十字路)などの「露天」で商いをしていました。やがて、時代が安定してくると、自宅営業が主流となりましたが、「廻(まわ)り髪結」といって、出張営業する者もいました。この「廻り髪結」は大店の主人や割合経済状態の良い旗本などを「お得意様」として、2~3日に1回、または、かなりの「おしゃれ」な主人になると毎朝、髪結を呼んで整髪(月代=さかやきを剃ったり、髪型を整えたり)させました。 女性の場合: 昔からの慣わしで、髪を自分で結えて、初めて「一人前」と言われ、自分で鏡を見て結うのが「嗜み(たしなみ)」とされていました。しかし、いつの時代でもファッションには余念がなく、髪型は、100種類以上にものぼり、女性専用として「女髪結」も登場するようになりました。だが、幕府は「女髪結」は一種の「贅沢」とみなし、たびたび「禁止令」を出しています。従って、「女髪結」は、もっぱら、隠れての「廻り髪結」で、自宅営業はできませんでした。 (よもやま話) 1.風呂は、おおよそ、各町内に1軒はありました。江戸で火災が起きると、一気に広範囲に焼失しましたので、防火の観点から、自宅に風呂を造ることは禁じられており、かの有名な大店「三井越後屋(現:三越)」の店員でさえ、風呂屋に通いました。 2.また、江戸では「神田上水」などができると、まあまあ、水の便は良くなりましたが、「薪」は近隣の農家から買い付けるので途轍もなく高かった。 3.そこへいくと、風呂屋は、と、言うと、8文位で「蕎麦」の16文の半分だったので、ご隠居風情になると、朝夕に風呂通いをしました。 4.「女髪結」が唯一「黙認」されたのは、芸者の髪を結うことでした。「吉原芸者」や「深川芸者」などの髪を結うのは「女性」に限られていました。男性が芸者の髪を結うと、今度は逆に「風紀上よろしからず」との禁止令が出されていました。 5.女性のヘアスタイルを大きくかえるきっかけとなったのは、江戸時代初期に有名になった「出雲の阿国」だと言われてています。歌舞伎の前進といわれる「お国歌舞伎」を踊り、阿国が男役を演じ、夫の名古屋三郎が女役を演じました。この時の阿国が結った髷(まげ)を「若衆髷(わかしゅまげ)」と呼び、女性の間で大流行しました。やがて、「島田髷」などが出現し、寛永年間(1624~1643)ころには「兵庫髷」という、頭の上で「輪」を一つ作ったような髷が流行。元禄時代(1688~1703)ころには「元禄島田髷」。明和年間(1764~1771)ころには、浮世絵に出てくるような「春信風島田髷(はるのぶふうしまだまげ)」。江戸後期~明治初期には、芝居の「お染久松」でお染が結っていた「おそめ髷」などと変遷していきました。 6.髪結床は株仲間組織になっており、「株」がなければ営業はできなかった。しかし、天保の改革(1841~1843)により営業は自由となった。料金は28文が相場だった。 7.徒弟制度も厳しく、まず「小僧」が客の元結(もとゆい)を切り、髪を梳(す)く。次に「中床(なかどこ)」が月代(さかやき)と顔を剃り、髪を仮元結で結ぶ。最後に「親方」が仕上げをした。 8.おもしろいことに、町奉行所またはその近辺で火事があると、髪結床が「梅床」とか「亀床」などという提灯をかざして、「駆けつけ、駆けつけ」と叫んで奉行所に向かった。現代の消防車のようなもので、皆、道を空けたという。なぜ?・・・というと、男衆が何人もいる商売は髪結床しかなかったからです。でも、力仕事なら大工は・・・と、いうと、現場がバラバラで集まりにくかった。そして、奉行所の書類は常に箱に入れられ麻縄がかけられており、次々と運び出したという。 9.風呂屋での洗髪は「ご法度」でした。これは、湯をたくさん使うことから、男も女も禁止されていました。唯一、頭を洗えたのは坊主頭にした「あんま」くらいのものでした。 10.では、どこで洗髪を・・・と、言うと、自宅でお湯を沸かして洗髪しました。夏には盥(たらい)で行水をし、洗髪をしました。 まだまだ、おもしろそうな話はありますが、あなたの「答」になっていたでしょうか。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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五・六年前私も疑問に思いました。 髪結いさんや床屋さん、その養成の先生が詳しいですね。 洗うのに砂を使った。一定の洗い砂でしょう。 梳くのだそうです。あとはご回答の通りです。
「近世、江戸の婦女は、毎月一、二度必ず髪を洗ひて垢を去り、臭気を防ぐ」 「江戸も御殿女中は髪を洗うことも稀なり。京阪の婦女もこれを洗う者ははなはだ稀なり」 「おほよそ髪を洗わざる婦女は、唐櫛をもってこまかく梳り垢を去り、しかるのちに匂油を用いて臭気をふせぐ」 と江戸時代の書物に記してあるそうです。 「たまに洗った髪にすぐに油をつけて髷に結いたくなかったのであろうか、 江戸の女たちは洗い髪で近所を闊歩したらしいが、 京阪ではそういう風俗を見かけなかったという。 そんなしどけない姿でいるというのは、恥ずかしくもあるけれど、 またいっぽう仇な(艶っぽい)風俗でもあったわけである。 それにしても、昔の人は、男女とも、よくあんな油だらけの髷を乗っけて頭もろくに洗わずにいて平気だったものである」 とエッセイストの林望は感心したり呆れたり。
お礼
まさしく私の知りたかった回答を頂けました。ありがとうございます! 四方山話も面白く、個人的に回答者様に江戸時代の民衆文化についていろいろお聞きしたいくらいです(笑) ほかの方もありがとうございました。