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壬午軍乱の時の大院君と日清戦争後の大院君
日本史の教科書(山川出版)の日清戦争あたりの話でよく分からない ところがあります。壬午軍乱とは1882年に日本への接近を進める国王高宗の外戚閔氏一族に反対する大院君を支持する軍隊が漢城で反乱を起こした事件ですよね。 この文章は引用したものですが、これは閔氏一族が日本よりで、このときの大院君は反対だったということですよね。 義和団事件も終わって、そのあとの大韓帝国誕生の前のところのせつめいでは、親露政権が誕生して、その理由は、「大院君の親日政権は三国干渉後まもなく閔妃らの親露派に倒された。日本の駐韓公使三浦梧楼が大院君を再び擁立しようと公使館守備兵に王宮を占拠させ、閔妃殺害事件を起こした。」 でした。 この説明だと大院君が日本よりと言うことになっています。 いったいいつ変わったのでしょうか。いろいろ大院君について調べてみてもそういうことが書いていなかったので困っています。 ところで閔妃とは閔氏と同じなのですか。 よくご存知の方、よろしく御願いいたいます。
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やはり歴史特に中国朝鮮系になると語るのもかなり抵抗がありようですね。私もそうです。 ===== 抵抗があるのではなく、「そんなこと、疑問にも思わなかったので、幕末の日本と同じように、権力闘争で右往左往していたに違いない!」という前提で、WIKIPEDIAを読み齧ってまとめただけです。 同時代の日中朝の歴史を比較して思うのは、「家康、いい感じで死んじゃったな」ということです。幕藩体制という封建制度あるいは、地方自治制度みたいなのが成立したのはヨーロッパと日本だけだという説があります。ヨーロッパは別種の権力であるキリスト教が、中央集権を妨げた。日本は家康が豊臣家というライバルを倒したところで息絶えた。もっと長命、あるいは秀忠あたりに武家としての力があれば、中国の皇帝のように激しく中央集権国家にしていたと思うのです。権力欲は制限がないですから。 家康がいい感じで死んだので、体制内野党として薩長土肥が生き残れました。中国史では、体制内野党が政権を奪取したのは、短いなら前漢に対する新、隋に対する唐くらいのようにおもいます。体制内野党がないので、反乱という形で帝国は崩壊し、統治体系が「ご破算」になります。清で言えば太平天国の乱であり、朝鮮では東学党の乱などです。 反乱体系になると外部勢力を内部に連れ込みやすくなる。明がつぶれたのも、李自成の乱で、呉三桂が満州族を関内に入れちゃったためだったりします。
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- asahiseime
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閔氏とは閔妃の一族です。 国王が幼かったので父親の大院君が政権をとってました。 彼は大の西洋嫌いだったので、開国した日本をさんざん馬鹿にします。 で、「ふざけんなゴルァ」となったのがいわゆる征韓論です。 国王が成人になったので大院君が引退して、かわりに閔氏一族が 政権をとり、日本とも仲良くなります。 日本を通じて西洋のものがだんだん朝鮮にも入ってきます。 でも閔氏の一人が兵士の給料をネコババしてたことをきっかけに 反乱がおき、大院君があおります。 閔氏のやつらをやっちまえ!西洋かぶれの日本人もやっちまえ! こうして再び大院君が政権をとりますが、清国が介入して 大院君をつかまえて中国に軟禁し、閔氏政権に戻ります。 やっぱり宗主国は頼りになると、閔氏は清国と仲良くなります。 しかし清国は朝鮮にいろいろ口出ししてきます。 閔氏の中には、清国ウゼェ!と思う人が出てきて、ロシアに近づきます。 清国は対抗するため、西洋嫌いの大院君を送り返します。 それでも清国よりの閔氏政権が続くのですが、 日清戦争前の日本軍王宮占拠事件で閔氏から大院君政権になります。 でも、かならずしも親日なわけではなく、大院君は日清戦争の最中に 清国と内通してたり、東学党の残党に日本軍を攻めるよう 密書を送ったりしてます。 日本としても、他に人がいないから仕方なく大院君を担ぎ出したわけです。 日清戦争で清国が負けたので、閔氏一族はロシアに近づきます。 これに対し、三浦梧楼公使と大院君派が起こしたのが閔妃殺害事件でしょう。 なお、機会があれば歴史の先生に 「先生!禹長春の父親の禹範善って誰ですか?」 と質問してみましょう。たぶん、あなたは先生に嫌われるでしょう。
お礼
詳しいご説明をありがとうございます。 >なお、機会があれば歴史の先生に 「先生!禹長春の父親の禹範善って誰ですか?」 と質問してみましょう。たぶん、あなたは先生に嫌われるでしょう。 これはどういうことなのですか。教えていただけませんか。
- tanuki4u
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尊皇攘夷!とか言っていた連中が開国を進めた幕府を倒してから「明治維新」では開国を進めましたね。欧米と下関戦争や薩英戦争を行った薩長が、イギリスとくっついて、フランスとつながった幕府と戦った。 それくらいの、変化が当時の朝鮮でもあった。と、まず覚悟しましょう。 朝鮮国宮廷を中心に考えると、閔妃の産んだ子を次の王にしたい閔一族と、他の所産の王子を次の王にしようという大院君の後継者争い。 そして、その時海外のどこの勢力と結ぶのが優位になるかという選択の問題です。 1882年段階では 親日は 閔一族 壬午事変で、閔一族は、清の袁世凱を頼った(日本勢力が壬午事変で排除されていたので、頼れる外部勢力、清を頼ったと言うことになります) で、大院君は、清に連行された。 これによって、閔一族は、袁世凱の保護下に入ったとも言えます。 1884年 甲申事変 日本は失地回復のため「現政権」である、閔一族を排除します。その代替として大院君を据える。それが 1885年の大院君帰国。 で、1895年の日清戦争までは、大院君が首班で、閔一族が野党的に立つというのが基本形。 日清の綱引きの上で、大院君がキャスティングボートを握ったという感じです。 日清戦争で、朝鮮半島の政治から清が撤退すると、代わって進出するのがロシア。 ロシアのスタンスで考えると、現政権(大院君)が日本とくっついているのであれば、その対抗勢力である閔一族にくっつのは当たり前の話。 それで、大院君=日本 VS 閔一族=ロシア という構造になります。
お礼
はあ、素晴らしくよく分かりました。 ありがとうございます。 ところで文章を見る限り、やはり歴史特に中国朝鮮系になると語るのもかなり抵抗がありようですね。私もそうです。 私は高校生ですが、今使っている日本史の教科書も読んでいてむかむかすることがよくありますから。 嫌な感じですが、とりあえず受験のためということで、流れだけ理解しておきましょう、ということです。ありがとうございました。
補足
ご丁寧にありがとうございました。