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天津のイギリス租界封鎖事件
ネット検索したのですが出てきませんでした・・・ 1939年天津のイギリス租界封鎖事件についてご存知の方、事件の経緯、経過など教えていただけないでしょうか。 あるいは、この事件について記述のある本の紹介でも構いません(←廃盤になっていない本でお願いいたします)
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もともと、天津の英租界は租界の特権を利用し、国民党、共産党、藍衣社などの抗日ゲリラ・テロリストの潜伏を黙認し、さらに租界内の銀行には国民党の多額の軍資金を蓄えさせるなど、日本の北支那方面軍や日本人居留民の強い反感を買っていました。 といった状況下の英租界内で親日華北政権の関税委員・程錫庚が抗日ゲリラに暗殺されます(1939年4月9日)。4人の犯人は英側に即逮捕されましたが、日本の身柄引渡し要求を英は拒否したため日本の対英感情はさらに悪化してしまいます。 その後、外交交渉が続けられたもののお互いの主張は平行線をたどるばかりでした。この状況に業を煮やした北支那方面軍参謀長山下奉文中将は独断で英租界に対し、6月7日までに容疑者を引き渡せ、との最後通牒を突きつけ、6月14日に英租界を封鎖するという強硬手段にでます。租界の周囲を電流を流した有刺鉄線で取り囲み、数箇所の検問所では日本兵が出入りする英国人を厳重に取り調べる徹底振りで、時には公衆の面前で全裸にして調べ上げることもあったようです。 これに慌てた英国側は、犯人引渡しの用意があると打診してきましたが、北支那方面軍はこれをはねつけます。 山下中将としては、これを機に英租界の体質改善をやってしまおうという腹積もりでした。 この北支那方面軍の高慢で理不尽な態度には英国側も面子にかけて激しく反駁します。さらに米国も日米通商航海条約の破棄をちらつかせ始めるなど、天津事件をめぐる外交交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。 7月17日東京で天津事件に関する第一回日英会談が行われます。有田外相、クレーギー駐日英大使との会談は難航しましたが、最終的には、租界内の抗日共産分子の取り締まりを認めるなど英国側がかなり譲歩した形で決着します(7月22日)。 「イギリスが日本に降伏した」と浮かれていたのもつかの間の7月27日、米国が日米通商航海条約の破棄を通告してきます。。。 参考文献:「ノモンハンの夏」半藤一利
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- shoyosi
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再補足します。 殺された高官というのは(日本軍の)占領地域に作られた中華民国臨時政府の天津地区関税責任者です。この臨時政府は後に南京に作られた維新政府と合併して中華民国国民政府(首班汪兆銘・南京政府)となりました。日本軍はこれらの政府と協定を結び、包括的な軍事行動権がありましたので、外国である中国大陸内を自由に行動することができました。
お礼
何度も有難うございます。 URL参考になりました。 事件の概要が概ねつかめました。
- shoyosi
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補足します。 この事件については日英との間で有田・クレーギー協定でイギリスの譲歩という形で解決が図られ、封鎖は解除されました。しかし、アメリカが反発し、日米通商航海条約の廃棄を通告してきました。
お礼
二度の回答ありがとうございました。 事件の概要がよく分かりました。 日本と英米が次第に対立していく過程を追っていまして、 目に付いたのがこの英租界封鎖事件でした。
- shoyosi
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イギリス租界で親日派の天津の高官が殺され、日本軍が引渡しを求めたが、イギリス側が拒否したので、租界を封鎖した事件とのことです。 当時の新聞を見られたらどうですか。
お礼
ご回答有難うございました。 大変分かりやすかったです。 事件の概要が概ねつかめました。