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オランダ人の従軍慰安婦
オランダ人の従軍慰安婦という新聞記事を見ました。 ネットで検索しましたが、それらに信頼性があるのかないのか、よくわかりません。 実情がわかりませんので教えてください。
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質問者が選んだベストアンサー
http://mltr.ganriki.net/faq08k05.html#08829 に簡単に纏めております. 参考までにどうぞ.
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- oska
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>実情がわかりませんので教えてください。 人民日報日本語版と揶揄される大手新聞社の過去の記事を読むと理解出来ます。 また、日本政府及び東京裁判でも「従軍慰安婦は認めていない」のです。 然しながら、自由民主党所属・衆議院議長である河野洋平氏が「従軍慰安婦が存在した」と世界各国に公式表明しています。 与野党・各報道各社から「証拠をだして欲しい」と要望を出しましたが、未だに一行の証拠の提示もありません。 この親中派河野洋平衆議院議長の公式声明を根拠に、各国反日政府・団体は「プロパガンダ」に有効に利用しているのが現状です。 証拠も無く、衆議院議長が「従軍慰安婦が存在した」と海外メディアに公式発表をするわけがありませんから、河野洋平事務所に直接質問した方が確実な回答を得る事が出来ますよ。 河野洋平が質問を無視した場合、人民日報日本語版以外の大手新聞社に当初すれば(河野洋平の子供である)河野太郎が答えるでしよう。
お礼
ありがとうございます。 オヤジの河野一郎はそんなことなかったと思いますが。
- Hamida
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1944年2月、オランダ領東インド(インドネシア)で起りました。事件の首謀者として死刑となった岡田慶治少佐の「青壮日記」と題した獄中日記によれば、州庁で希望者を募って慰安所を作ろうという構想を聞いた熊崎中将が、宮野スラマン州長官に話をつけたと切り出す。熊崎中将がジャカルタの第16軍当局から本人の許諾を条件に構想の認可を得て計画を策定し、岡田は上官の池田大佐や大久保大佐に命じられ実施面を担当したのでした。。 岡田は、州庁が作成した希望者名簿を元に数ヵ所のオランダ人抑留所から35人の女性を連れだし、1944年3月1日、将校用の慰安所を開設した。岡田は、希望者を慰安婦にしたのであって強制連行したのではないと裁判において主張しています。。 しかし、裁判記録によれば、女性たちは「強制連行だった」と証言し、ある抑留所では、リーダーが抵抗して徴集を断念した事例が挙げられてもいます。また、自殺した大久保大佐が、岡田には「若干、強引な言動があった」と遺書に書き記しているのも決定的です。 岡田は、州庁の杜撰な希望名簿を信じて「手違い」が生じたのを、独断先行による「強引な言動」で埋め合わせたのかも知れない。しかし、オランダ人慰安婦たちが戦後、対日協力者のレッテルを張られるのを恐れて告発に回ったとも考えられます。 なお、この裁判は杜撰な点も多く、例えば、その「強制連行」があったとされる期間、東京に出張して不在だった池田省三大佐は、シオウテンという名の検察官らに拷問を加えられて発狂させられたあげく起訴されて、「懲役15年」の判決を受けている。この戦犯裁判は敗者に対する報復裁判の色合いが濃いと言えましょう。 この慰安所はわずか2ヶ月後、第16軍当局の命令で閉鎖となっています。この理由を、94年のオランダ政府報告書は、「娘を取られた抑留所の親が視察に来た陸軍省の大佐に直訴したため」と説明しています。しかし、当時第16軍当局で勤務していた鈴木博史大尉は、「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本第16軍参謀長へ伝えると、山本は『まずい、すぐ止めさせろ』と怒り、翌日に閉鎖命令が出た」と回想しています。 どちらにしても、すでに裁判は終結しており、関係者は処罰されています。オランダ人の告発は、二重審理の禁止に該当し、明らかな政治的なプロパガンダに利用されているといえます。
お礼
詳しいご説明感謝いたします。
お礼
参考にさせていただきます。 ありがとうございました。