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キリスト教の救い
前に似たような質問をさせて頂いたのですが、もうひとつ判らなかったので質問をしたいと思います、確かその時は生贄・・・とのご意見が多かったですね。 新ためて、キリスト教の救いとは何ですか?(私は宗教、哲学には疎いものですから、特にキリスト教は、素人でも判り安く説明して頂ければありがたいです、短く、どうも難しいく、それらしい言葉を並べられ理屈で固められたものは判るにくいです) 盤珪永琢禅師は「不生で足りる」と判り安いですね。 私などの素人は、「信じる事がキリスト教の救いの要」ではと思ったりもします。いや確信を持ち始めてますが。 よろしく御願いします。
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- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
人にもよりますが、大人に成ってゆく過程で、悩み、苦しむ、という事 が、強く出る人がいます。盤珪なども、子供の頃から「不安」になりや すい、性格といえます。 どの時代の、宗教家も「不安」を抱きやすい性格です。お釈迦様に至っ ては、『一切皆苦』というほど、精神的に追い詰められていた。とも言 えます。それを、今風にいえば、『精神疾患』おそらく神経症、その中 でも『不安障害』になっていたと、推測できます。不安障害が強く出 て、それを、回避しようとすれば、不安が恐怖にまで、大きくなりま す。それが、パニック障害というものです。 洋の東西を問わず、人類の歴史は「不安の解決」を求めてきた、という 側面があります。アダムとイブが智慧のリンゴを食べた事が原因で「人 間は、苦しむ事になった」と、聖書には、書かれています。 人間は、悩み、苦しむ者という事は、脳の構造から、起こされていま す。原罪、とか、業という事は。人間の、頭の構造上避けられない事な のです。ただ、ひとによって、強く出る人と、全く出ない人がいます。 人間の、不安、悩みというものは、人間の心の構造に、機縁します。 これは、どういうことかと言いますと。自我が在って、子供から大人に 成ってゆく過程で、成長します。知識を得ます。この時に、「間違った 認識を」、植えつけられた場合等に、このままでは、いずれ、大変な事 になりますよ。と教えるものが在る事によります。 他の言い方をするならば。人間が生きてゆく上で、自我だけでは生きて ゆけない事によって、動物と同じように、人間の頭には、最初から、生 きてゆくために、必要な事が備わっています。これは「命の働き」とも 言えます、そして、その命の働きそのものにも、意思があって。人格が あります。 不安な感じ、或いは罪悪感?或いは深い悩みというものは、『自我の人 格』と『もう一つの人格』との対立と矛盾から生じています。その事で 「自我意識」に圧迫を加えています。従って、その矛盾の違いが大きい 程『悩み』は深くなります。 その、辛さのために「自我」が降参する事があります。その時に、もう 一つの意識に、出会うことになります。 この事が、キリスト信者であれば「神に会った」或いは「神と和解し た」という事になります。仏教徒で他力宗ならば「向こうから、お助け が来た」禅宗ならば、沢山の言い方がありますが「父母未生以前本来の 面目」という事が分かったと言う事になります。 キリスト者なら「神の思し召しのままに」 仏教徒なら「あるがままに」という事かと思います。 どちらも同じ事かと思います。自分の運命に対して「絶対肯定」という ことになります。これは「消極的なもの」ではありません。積極的な絶 対肯定という事になります。 運命は受け入れるが、運命さえも変えてゆこうとするほどの、積極さで す。心は平安そのものです。対立と矛盾が解消されているからです。 これは、救われていない人には、分かりません。宗教は体験の世界と言 えるからです。頭では無理です。人間の論理を超えた処に「救い」は在 ります。論理を超えた処に「禅問答」が在ると同じ事です
- hroronD
- ベストアンサー率34% (632/1827)
罪を許されるって事?天国(あれば)へ行ける?素人的にはそれしか思い浮かびません。 信じる者は救われる=信じない奴は地獄へおちる=異教徒は地獄へ落ちろと解釈してます。神ならみんな救えよって思いますが・・・。
お礼
>神ならみんな救えよって思いますが・・・。 そうかもしれないですね 御回答有り難うございました
眠狂四郎は言いました。 「神が人を造ったのではないっ!人が神を造ったのだ」 これ、けだし名言だと思います。
お礼
眠狂四郎はそういう事を言ってますか、面白いですね。 因みに宮本武蔵は決闘に行く寸前、神社に立ち寄りかけて事が有ったそうですが、途中で止めたそうです。たしか、神は尊いけれど神を頼らずと言って気がします。 御回答有り難うございました。
- takashi-99
- ベストアンサー率16% (44/263)
所詮キリスト教などは偽善者であり二重人格者であることはそれは歴史が証明しているところです。所詮仏教以外の教えは衆生を仏教に導くだけの簡易な仮の教えでしかありません。現在は末法という闘淨言訟・白法隠没の時代です。その正しい教えをしない限り誰人であろうと成仏は出来ません。既成仏教はすでに退廃し観光目的・葬式目的など自己保身の金の亡者に成り下がっています。あなたの意見の根本的な誤りは宗教の正邪に迷われてしまっているということです。不幸の根源は誤った宗教にあるということを忘れないでくださいね。
お礼
御回答有り難うございました。
- rauren
- ベストアンサー率17% (69/389)
こんばんは。 おおいなる、神とともにいる、という感覚が救いだと思います。
お礼
なるほどなと思いますね 「おおいなる、神とともにいる」これって宗教経験、宗教体験だと思います、聖書を勉強しただけでは経験できない、理屈でない宗教経験。 どうも宗教経験、宗教体験しないと本物ではないと。 人間には自我が有りますが、こいつが悪さをすると言いますか自分自身を苦しめる、自分が自分がの自我です、自己中心的が 自我の特徴です。此の自我が神と出遭った経験ではないかと思います違う言い方をすれば神と一体になった。それにより自我の愚かさを知る。 それにより聖人の様に自己中心的な行動をしなくなる。 仏教でもそうでしょうが自我が仏性と出遭う(悟)、超自我と出遭うと表現する人もいます。 ある人は仏がぶつかって来たと表現した人も居ます これは何れも宗教経験、体験だと思います。自我の愚かさを知る auren様はどういうシチュエーション 時に最初、おおいなる、神とともにいる、という感覚に成りました。是非ともお聞かせ頂ければ有り難いですが。
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補足
他でも質問させて頂いた折お礼文を書かなくて大変申し訳ありませんtumaritou1さんと私の考え方は殆んど同じですね、只大げさに言いと宗教経験、体験をtumaritou1さんはしたが私はしていないの違いだと思います お礼文を書かなかったのは聞きたいことが有るのですが・・・纏まりません。 その折にはご指導ください。