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文明批判テーマの現代美術の観点
私の観た限り、現代美術の主流は、文明批判的なもののような気がします。社会的な妥協、こじつけ、都合あわせ、迎合、ことなかり主義などを、痛烈に皮肉る、あるいは、純粋な観点で切り取るというもののように思います。 それらの観点は、成熟した人間の態度なのか、未成熟なそれなのか、よくわからなくなります。そもそも、現代芸術そのものが、そのような「にごり」に対する挑戦とか警鐘とか、そういう方向をとることに、一般的な理解共感がえられるという感じなのでしょうか。それとも、あくまで異端的なのでしょうか? またなぜ、芸術というのは(特にこの現代芸術の主流は)、「にごり」に対する「純粋」という形を取るのでしょうか?なにか美しいものへの憧れなのでしょうか?美しいものを願うのは、未成熟なのか成熟なのか、高知性なのか低脳なのか? どういうことなのでしょうか?
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単純に、宗教からの解放(脱術化)が成され(科学の発達)、人間を描く様に成った(ヒューマニズム運動)。 今では新たな試みとして、夢等と言った、非現実的なものを崇拝しているだけ。 今後の動きとしては、形骸化(無機物)なものが価値を見出す気がします(世間的な評価として)。 >芸術というのは(特にこの現代芸術の主流は)、「にごり」に対する「純粋」という形を取るのでしょうか? 真理を求めている(科学の影響では?)。
- almar
- ベストアンサー率33% (1/3)
「純粋」と「にごり」というのは 「科学」と「芸術」という関係で考えると 質問者さんとは逆の図式になります。 現代美術の対立軸に物理学や数学を置いて考えてみます。 たとえば数学的定理は一行で世界を表しますが、 人間が世界の有りようを記述した表現として これほど「純粋」な表現はない。 そういった「純粋」さをもとめるものが科学です。 その科学の集大成が現代文明だと考えてみる。 そうすると、 「純粋」にものごとを整理しようとする現代文明に対して 「にごり」を発見し、対抗しようとするものが現代美術だと いえないでしょうか。 芸術=「純粋」という図式は、 宗教画として芸術が機能していた時代の図式で、 現代美術はむしろその図式を反転するところから始まったはずです。 この反転をうながしたのが産業革命にはじまる「科学」の台頭です。 現代美術はつねに科学的文明の鏡になるように 最初からセットされていると考える事もできると思います。 未成熟か成熟かという疑問は、 科学的なもの=「成熟」 非科学的なもの=「未成熟」 という枠組みの中では未成熟だと考える事ができます。 しかし、現代美術にはこの枠組みそのものを疑うことも 含まれる訳ですから、その意味では 成熟していると考える事ができます。 「美しさ」という尺度で もしもその作品の価値を計りうるならば それは現代美術ではないと思います。
お礼
多面的な価値観を持たないといけないと思いました。不純粋さに気づくからかえって「にごり」に近いものかもしれませんね。
- zephyrus
- ベストアンサー率41% (181/433)
現代美術には文明批判的な側面が確かにあります。しかしそれが主流かどうかはにわかには判じがたい。 なぜならそれはわれわれの見方の結果としてそう見えるだけかもしれないからです。 『芸術に関することで自明なことは、もはやなにひとつないことが自明になった』 とは、おそらく1960年代に書かれたテオドール・アドルノの言だそうで、 印象主義以降おびただしく生起・交替していったアヴァンギャルド、モダニズムの系譜、 すなわち総合主義、新印象主義、フォーヴィズム、キュビズム、表現主義、未来主義、オルフィスム、シュプレマティズム、構成主義、新造形主義、純粋主義、シュルレアリスム、抽象表現主義 の「イズム」の時代から、1960年代以降顕著となる傾向、 すなわちポップ・アート、ライト・アート、オプ・アート、ミニマル・アート、コンセプチュアル・アート、ランド・アート、アルテ・ポーヴェラといった「アート」、 もはや「イズム」ではなく、とりあえず漠然と「アート」と呼んでおくしかないもの(現象)への様相の変化が起ったことは確かなようで、そこのところをハロルド・ローゼンバーグは、 『絵画のかわりに空間を、舞踏のかわりに運動を、音楽のかわりに音を事挙げするような事態、もはや傑作かジャンク=がらくたかわからない事態、要するに芸術作品の何たるかが曖昧になり「気がかりな物体」an anxious objectとしか言いようのないものが跳梁する事態』と言ったそうです。(1972年) いま私はおもに谷川渥氏の論考に全面的に寄りかかるというか、そのあちこちから引き写しているだけなんですが、あつかましくもそれを続けますと、 その60年代以降の「アート」の多くが先駆者ないし師と仰いだのがマルセル・デュシャンで、 『彼は、絵画という芸術ジャンルのひとつを放棄すると同時に、「芸術」概念そのものを手玉にと』った『ダダの申し子』でした。 それはやがて『物語的に構造化された芸術の歴史、目的論的に方向づけられた芸術の物語が終焉した』というアーサー・C・ダントなどの「芸術終焉論」の登場を招くこととなりました。 これはリオタールの「大きな物語の終焉」というポストモダン論と通底するもので、 『もはや芸術にひとつの方向などないというわけだ。芸術における「小さな物語」たちの氾濫……』と谷川渥氏は言っています。 そこにあるのは多様な切り口を可能にし許容する多彩なオブジェないしはインスタレーション、われわれはその一つ一つに個々に当たるしかないというわけです。(もともと芸術とは個々に当たるしかなく、○○主義とか言っても作家をそこで四捨五入しているわけで、学者や分類好きのご都合にすぎないわけですけれども) そこには文明の批判もあれば、まったく新しい美の追求もあるでしょう。またそれらに関りない別のものもあるでしょう。 芸術形式についての考察の過程としての作品、視覚的認識への叛逆、わざと通俗的見地に立つこと、20世紀に顕著となった流行という現象、美術館や商業主義との関わり、サブカルチャーへの接近、CGなど新しいメディアとの整合性の問題、ベンヤミンのいわゆる複製芸術ということとの関係、あるいはパロディ、シミュレーショニズムということ、時間性の導入、作品の完成度ということへの蔑視(さすがに作品ゼロのアーティストというのは成立しないでしょうから)、などなど。 そうしてもうひとつ厄介なことは、芸術を単なる暇つぶしの対象というより、もう少しだけ深く知りたい、もう少しだけ広くかかわれないかと思っている享受者がわ(質問者さんや、不肖私など)が経験的に知っているある重大な事実、すなわち良いものにめぐりあい、それに気づくにはそれなりの時間がかかること、それなりの知見・見識が必要だということ、すぐに分る良さなどたいていは底が知れたものであるという経験的事実です。 このために、よくは分らないもの、よいと思えないものも、すぐさま切って捨てるわけにいきません。 終わり、上がり、がないんです。関わり続け、考え続け、触れてみ続けるしかない。 精一杯偉そうなことを並べました。 時々に、少しだけ興味がある者からの、これはその経過報告であると受け取ってもらえればさいわいです。 ご参考になればと思います。
お礼
たいへん多面的になってきたのだということが改めて分かりました。たしかに、純粋さを追うというのも、一形式に過ぎないですね。ただ、そのパターンが結構多数派のように思ったしだいです。全体傾向として、芸術家の純粋さと価値観の多様化というシフトでこうなっているんでしょうかね。
ほとんどが企業へのインスタレーションだからコンセプトが 必要なんでしょ? 企業は倫理に敏感だからねえ。 あなたのように何で作ったの?の回答が明確でないと企業がお金 出してくれないでしょ?それも優等生で純粋なメッセージは どこの企業でも必要としてるよ。 美術といっても半分は商売ですから。
お礼
そうなんですか!その観点はトンと抜けていました。純粋なメッセージは企業が好むところなのでしょうかね。やっぱりイメージいいんですね。意外でした。
- harepanda
- ベストアンサー率30% (760/2474)
結論を先に言ってしまえば、現代美術は、写実からの脱却、人間の理性に対する懐疑心からスタートし、芸術=哲学という状況が生まれてきたのだとまとめることができるような気がします。現代美術は決して異端ではなく、現代においては必然的に登場してくるものです。ただし、現代美術の中には、文明批判の要素を持つものも、持たないものも存在します。現代芸術はべつに、「にごり」に対する「純粋」ではありません。美の定義自体が分からなくなってしまっている以上、絵画が美など目指していないケースもあるからです。 現代芸術の始まりをどこに定義するのかという問題もあるでしょうが、私であれば、新古典派のアングルから現代芸術の始まりであると言うでしょう。 アングルという画家は、本来の古典派と同様に、人体に関する解剖学知識を持っており、どういう体勢の時にはどこの筋肉が盛り上がるだとか、どこの関節はどこまでなら曲がるが、それ以上曲げると脱臼するだとかを良く知っていたわけです。にもかかわらず、アングルは、肖像画を描くにあたって、その人物が持っている内面的要素を重要視し、「こっちのほうがこの人物の内面性を表現するには説得力がある」という理由で、意図的に解剖学的にはありえない不可能な絵を描くという技を使いこなしていました。例えば、あるエネルギッシュな老人を描く際、どのようにすればこの人物の力強さを表現できるか考え、結局、採用したのは、この老人がいすに座って、両ひざを手でがっちりつかんでいるという構図でした。腕は意図的に、うなるような形に湾曲させてあり、それによりダイナミックな印象を与えるようにしてあるのです。アングルがデッサンの天才と言われるのは、この、虚構性を交えた古典派という文脈の中で理解しなくてはなりません。 時代がさらに進むと、カメラが登場したことにより単なる写実画には全く意味がなくなってしまい、絵画には写実を超えた何かが求められるようになります。この傾向は、人間の内面性を絵にするというシュールレアリズムやドイツ表現主義という潮流を生みました。これらの人間の内面描写を重視する流派は、明らかにフロイトの心理学や、統合失調症の人が描いた絵から影響を受けており、絵画は人間の内面性を表現するものとなったのです。 しかし、時代が進むにつれ、人間の内面性を重視する流派をさらに乗り越えたグループが登場してくることになります。そもそも、人間の自我や深層心理を信頼しても良いのかという方向性に議論が紛糾し始めると、思索的・実験的な絵画が増えてきます。この文脈で一番重要な芸術家は、マルセル・デュシャンであり、彼は目に見えて心地よいだけの芸術は「網膜的」なものでしかないと指摘し、深い思索的作品を作るようになります。代表作「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁すらも」(通称:大ガラス」は、ガラスに描いた作品です。彼は、絵描きは現代では絵の具の消費者にまで堕落していると批判して、オリジナルの手法を開発、ガラスに絵を描きました。この作品は、絵だけを見ても全く意味不明なものであり、彼が残した文章をあわせて初めて理解できるものです。彼はこの絵の意味と作成方法を残した資料を残しており、日本には東大に、この絵を再現したものがあります。ここにおいて、芸術は哲学のレベルに達し、もはや美など求めなくなったのです。なお、原作版はガラスが割れていますが、東大バージョンでは割れていません。 現代美術は、この状況から必然的に生まれてきたものであり、決して異端ではありません。そして、芸術に対する評価は、歴史的・文化的条件によって規定されるものであり、過去の名作が再発見されることもあれば、今は評価が低い芸術家が将来、再評価されることもあるでしょう。
お礼
歴史的なものを再確認させていただきました。ありがとうございます。
お礼
no4の方とは反転的なお考えですね。しかし、同じことなんだとも思います。流行ということで捉えるべきなのかもしれません。