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形而上学

こんにちは。 形而上学に興味を持った高校一年の男子です。 そもそも形而上学っていうのは 「何で人が存在するのか」 「神は存在するのか」 「魂は存在するのか」 等の、存在そのものに疑問を持ち探求する学問ってことで あってますよね? ウィキペディアの説明だと分かりにくかったので、 皆さんに答えていただきたいです。 僕が前から疑問に思ってたことそのままなので、 もし形而上学が上のような例を探求する学問だとしたら 僕の将来の夢は「形而上学者」に決定します(こんな細かい部類の学者 が認められるのかどうか不安ですが…) 支離滅裂な文で申し訳ないですが、 5月の面談のときに担任に将来の夢を言わないといけないので 早めの回答をお願いしますm(__)m

みんなの回答

noname#91529
noname#91529
回答No.4

>5月の面談のときに担任に将来の夢を言わないといけないので  上記のストレスがなくなったという前提で   話をすすめます。  長い目で見ると技師等「理系の職業」をめざし、現代社会をみすえ   達観した上で、「形而上学」をふかめたほうが、    (生活向上という観点からみても、)       失敗がないやりかただと思います。 人間というもの つねに、「自分の人生はこれまで有意義だったか」という 設問に立ち戻ることを迫られるからです。  (AmericanHistoryXという映画を見てみてください。)  形而上学からはじめても、得るものはありません。     自分で哲学的だと思い込んでいる質問を、素人さん方に投げつけ、   自己満足を得るような「加齢臭擬似青年」の人生は、                やめたほうがいいでしょう。

  • tyr134
  • ベストアンサー率51% (851/1656)
回答No.3

#2さんが指摘されていますが、「形而上学・形而下学」というのは、哲学上の概念の一つで、その定義も哲学者・思想家によって様々です。 これらを上手く使って探求するのは、研究者レベルにでもならないと難しいですね。 それよりも、今は「哲学の基礎・学問の基礎」を身につける事を念頭に置いて勉強に励むのが吉ですね。 当然、「形而上学者」なんて分類も職業もありません。 (※まぁ、哲学者・思想家も職業名ではないですけど。多くは、大学教授、研究者、作家、宗教家が多いです。) >5月の面談のときに担任に将来の夢を言わないといけないので 進路の事について、私見を。 参考になれば幸いです。 上記の疑問(神の存在・非存在、心の問題など)を探求するのは、主に二つのアプローチの仕方があります。 一つは哲学です。 そして、大学の学問分野でいえば哲学科・史学科・宗教学科などです。 ただ、ココで言う「哲学」とは「哲学史・思想史を研究史、新たな哲学・思想を見つける」事と言い換えることが出来ます。 つまり、過去の哲学者や思想家などの思想とその思想が世界に与えた影響などを考察しながら、上記の問題を考えることです。 二つ目は認知科学・脳科学分野です。 哲学の一つの問題意識である、「心身問題」から発展して、自然科学などの視点・研究手法を取り入れながら、上記の問題を明らかにしようという分野です。 今、世界でも日本でも盛んに研究されている分野でもあります。 参考Q&Aです↓ http://okwave.jp/qa3818292.html http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C さて、ここで進路決定に当たって非常に重要な選択が迫られます。 というのは、「1哲学分野」は文系、「2認知科学・脳科学」は理系だからです。 まぁ、厳密な分け方というより、日本の大学では、そちらの系統の学部に学科が置かれることが多いという事なんですが。 ただ、そこに向かっての受験勉強の仕方が変ってきますので、どちらが良いかをじっくり考えてから選んでください。

coffee625
質問者

お礼

僕は哲学分野に進みたいですね。 形而上学から枝分かれした、 様々な哲学に触れて行きたいと思っています。

  • harepanda
  • ベストアンサー率30% (760/2474)
回答No.2

大学で哲学を学んだ者です。 一般論から言えば、形而上・形而下の概念を正しく使いこなして議論をするには、高校1年生という年齢は、早すぎると思います。それほどまでに早熟な人がいたら驚きますし、逆に、形而上と形而下を、形式的なまでに厳密に切り分けるという発想しか出来ない、頭の固い人間である可能性すらあります。 ドイツ観念論と言われる哲学者たちの中で、シェリングとヘーゲルという人物たちがいます。当初は、早熟で天才肌で直観を重視するシェリングの方が先行していたのですが、やがて大器晩成型で愚直で直観よりも理性や概念による把握を重視するヘーゲルが逆転し、最終的には大学内での論争において、ヘーゲル一派のほうが完全な勝利をおさめる結果に終わったのです。このように、哲学の習得には時間がかかるものであり、ヘーゲルも時期によって、かなり考え方を変えています。 また、ブッダが出家をしたのは29歳の時であり、デカルトが哲学を始めたのは30歳の時です。現代の寿命に換算すると、2人とも30代後半から40代になって始めて本格的な勉強を始めたのだと言うことが出来ます。coffee625様が、社会哲学的な分野には興味がないというのであれば、今から勉強を始めても良いでしょう。しかし、社会哲学的な発想も重要だと思っているのなら、現代社会はブッダやデカルトの時とは比べ物にならないほど複雑化しており、まずは新聞を完全に理解できるレベルの社会科的知識を身につけてからでないと、哲学を学んでも、付け焼刃の知識で終わってしまいます。 哲学といっても色々な考え方があって、「形而上学者」などというジャンルは存在しません。また、将来、coffee625様の思考様式が変わり、形而上・形而下の概念を重視しなかったり、間違った思考法だとして批判するようになったりする可能性もあります。したがって現段階では、「哲学科に進学したい」で十分でしょう。 現状を見る限りでは、あまり社会哲学的な傾向は感じられず、どちらかと言えば、認識論、現象学、イデア論といったタイプの哲学者に近いようです。また、哲学者には色々なタイプがいて、自分の思考スタイルに合わない哲学者がいても、一向に変ではありません。全てのメジャーな哲学者をいっぺんに理解するのは不可能で、そんなことをやろうとしたら、10年以上、かかります。それよりも、今やるべきことは、自分の思考様式や問題意識に合致する哲学者を探すことです。具体的には、新書や入門書を色々と読んでみて、「これだ!」と思う人を見つけることです。現段階ではとりあえず、ヴィトゲンシュタイン、カール・ポパー、フッサールをお奨めしておきます。本当は、カントを読んだほうが良いと思うのですが、困ったことに、彼の世代だと、時々、ラテン語の論文が出てくるのです。代表作と言われる文書はほとんどドイツ語なのですが、小さな論文が持っている重要性を指摘しようとすると、ラテン語を読めないと、厳密な研究を進めることはできないのです。 ここでひとつ、簡単なテストをさせていただきます。カントが、こんなことを言っているのです。「経験とは全く無関係な、純粋な理論というものは存在するだろうか。私は、存在すると考える」。もし、この意見に賛成であれば、coffee625様はカントと相性の良い思考方式を持っているのです。そして、上記の認識論、現象学、イデア論にも、相性が良いということになります。逆に、私のように、「は?経験とは全く無関係な理論?んなものあるわけね~だろ」という発想をする人は、根本的にカントとは信念が違うのか、もしくはカントの問題意識を理解できるレベルに達していないのです。 coffee625様の場合は、おそらく宗教性はなさそうなので、普通に文学部哲学科に進めば良いと思います。哲学科と言っても、例えばカトリック系の大学で神学部まである上智の場合、どうしても宗教性が強くなってしまうので、要注意です。また、仏教系の大学も存在するのですが、これを避けるべきか進路候補に含めるべきかも、検討したほうが良いでしょう。仏教の論理学は非常に興味深いものがあり、形而上学に近いとも遠いとも言えそうなアプローチをしているのですが、通常、この仏教の論理学は、仏教といえばお墓と葬式のことしか考えない大多数の日本人にとっては、未知の世界です。仏教系大学を選ぶのであれば、日本の仏教を学ぶより、原始仏教か上座部仏教の学べる大学を選ぶべきと考えます。ただ、仏教研究者は、大学での教職を探すのに苦労しそうなので、生活のことを考えると、西洋哲学のほうが望ましいと思います。 重要なのは、大学が求めているのは哲学者ではなく、哲学研究者であるということです。つまり、自分自身の哲学を述べるのは、年配になってからでよいのであって、若いうちは、ある特定の哲学者の分析であるとか、その哲学者が時期によってどのように考え方を変えていったかとか、どの哲学者には実はだれそれが影響を与えているだとか、誰それと誰それは同士だと思われているが、実は超えられない壁を持っていたとか、そういった議論を出来る人材を、大学や学会は、求めているのです。 私の場合、ヘーゲルが円熟期に入り、ハイデルベルク大学からベルリン大学に移るにあたり、ハイデルベルクで友人としてつき合ったティボーという法学者の影響を指摘、後期の社会思想を表した本である「法の哲学 自然法と国家学」の前提として、ティボーと同じく自然法理論の立場をとりローマ法勢力に対して否定的だったことを紹介したうえで、さらには、ほとんどの研究者が目にもとめない、いわゆる「民会論文」の重要性を論じたほか、1817年から1831にいたるまでの円熟期の思想を、単に出版された書物から読み解くだけではなく、当時の学生が必死になって書き取った講義録まで読み、その時期に彼がどのように考え方を変えていったかという点を解きほぐして説明したのです。さらには、カントとヘーゲルの決定的な共通項目として、ルソーの一般意志の概念を受容していることを重視し、この意志の概念をヘーゲルはローマ法用語のanimusと結びつけて用いていること、さらには、ヘーゲルの弟子であるガンスは本職が哲学者ではなく法学であったため、ガンスはヘーゲルよりも法学的にはローマ法用語の使い方が正確であること、また、ヘーゲルは若い頃に自然法の経験的扱いについての批判という趣旨の文章を書いているのですが、実はこれは、ルソーに先例があることの見落としであった可能性が高いことなどを語っております。 こういった態度が、哲学の教授を目指す人間に求められるポイントであり、しかもその競争率は、非常に高いものです。なにしろ、哲学教師の募集枠は増えていないのに、大学院の入学者の枠は増やしており、そのため、大学で講師や教授としての地位を得るのは困難になる一方なのです。 こういった事態に対応するため、哲学研究者を目指す多くの人が、「第2専門」という、別分野で強みを発揮できるという能力を確保しておくという戦略をとっています。例えば、私はヘーゲルが専門ですが、その気になれば西洋近代絵画史を語る能力を持っています。大学院の入試の時に、マルセル・デュシャンという芸術家の意義についての作文をしたのですが、面接の時、「レベルの高い議論をしているのは分かるが、研究計画書と、全く関係がないではないか」という苦言を食らっています。いずれにせよ、哲学の講師として大学での職を見つけるに、少々、本来の道とは離れた場所で、第2専門を身につけている人は多いのです。 参考になれば幸いです。

coffee625
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございます。 流石にこの年代で形而上学が何かを理解するのは 難しいのですね; 頭の中には「哲学科に進みたい」といれておきます。 いまは哲学を志す準備段階。 カントの意見には賛成ですね。 昔から、経験がすべて的な教え方をする先生が嫌いで 自らの思考でも補えるのではないかとは思っていましたから。 形而上学を学ぶ上で、宗教関連を一応通るつもりではいました。 宗教にもかなり興味があるので。 主観をいれず、客観的に宗教をみるのがすきなんです。 第2専門として宗教を語れるようにしてみようかと思います。

noname#59983
noname#59983
回答No.1

 形而上学は、目に見えない存在と考えた方が分かり易いですね。  形而下学は、目に見える存在。

coffee625
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 人間の存在意義を問うのは形而下学になってしまうのでしょうか。。?