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障害というものに対する時代意識
昔の映画では、ときたま、障害者の自然な描写とか、あるいはその特徴的なところを「わさび的」に使うということがあります。もちろん社会全体にもあったのではないでしょうか。昔のほうが、その事実そのものをプレーンに受け入れる容量があったのではないかと感じます。 そういうものが、なにかモラルとかいうものに曇らされてしまって、やれ言葉を改めるとかそういう方向に言ってしまうというのはどういうことなのでしょうか。 障害者のことは一例として、世の中全般として、「穏便に」そして「表現の自由の抑圧」「モラルの強制」のような方向に流れている気がする。これは、いったいどういう必然から起こってくるのでしょうか?決して逆方向に歴史は進まないのでしょうか(差別?語の復活とか障害者へのプレーンな気持ち) それとも、何か私の考えが破綻していて、前提からして間違っているでしょうか?
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追記 健全でないことは、健常者にとって、恐怖なのですよ。 自分が巻き込まれそうな不安。病気がその典型で、伝染するんじゃないかという 恐怖。 でも、なぜそういう恐怖が目の前に現れる必要があるのかというと、自分が己の生に 対して、もっと真剣に生きることを自覚するためなんですよ。 にもかかわらず、他人事にとらえ、もっとプレーンに考えろなどということ自体、まったく 自分と他者の問題をまるで考えずにきた未熟な大人の考えとしかいいようがない。 社会というのは、自分が他人になにを施せるかという次元で考えるべきで、自分が やりたいことができないから変だとおかしいとか批判するものじゃない。 自分は何なんだということをあきらかにしていけば、社会と自分との位置関係も見えてくる。
>昔の映画では、ときたま、障害者の自然な描写とか、あるいはその特徴的なところを「わさび的」に使うということがあります。 そんなものはねぇよ。 そういう見方自体が映画に対する冒涜だよ。バベルは伝わらない気持ちを伝えるというテーマがあった。 障害者が出てくる必然は表現としてあったのだよ。 >もちろん社会全体にもあったのではないでしょうか。 あるはずはない。五体満足という価値に対して不足する人を蔑むか、自分はましだと思う気持ちで 安心する。さもしい根性。恥ずべき根性はあった。人は「競争意識」で周囲を見るとき、自分より優れた ものをやっかみ羨み、劣るものを見て安心する。 でも、優れた人間は「競争意識」ではなく「自分の個性、自分の生きる価値観、自分の求めるもの」を 生きる物差しにする。 >昔のほうが、その事実そのものをプレーンに受け入れる容量があったのではないかと感じます。 だいたいが、その「プレーンに受け入れる」という概念が曖昧だね。 本当に他者をあるがままに受け入れるというのなら、差別もクソも無いだろうよ。 むしろ「差別が常識」だったから、存在に一定のすわりのよさ・・・あぁ、あれは××だから、親の因果が なんたらとか「安直な整理学」で片付けられていたんだと思うよ。 ところが、そうじゃない。キミらも同じ地平に立つべきだと障害者の側から主張されると健常者はなんだか 不安にかられたりする。 >そういうものが、なにかモラルとかいうものに曇らされてしまって、やれ言葉を改めるとか >そういう方向に言ってしまうというのはどういうことなのでしょうか。 そういう方向って要するに言葉狩りの一面だけじゃない。あなたが違和感を持つのは。 >障害者のことは一例として、世の中全般として、「穏便に」そして「表現の自由の抑圧」「モラルの強制」の >ような方向に流れている気がする。 なんというか、めちゃくちゃな論理の飛躍ですね。 穏便にというのでなく、むしろ障害者の社会参加など、いままでできなかった部分に皆でもっと 意識を高めていく時代になっているわけですよ。 表現の自由の抑圧って、あなたのいう表現の自由ってものが、どの水準の話をしているのか 障害者が聞いて心が痛むような言葉を平気で言いたいという程度の自由なのか。その辺が問題ですね。 >これは、いったいどういう必然から起こってくるのでしょうか?決して逆方向に歴史は進まないのでしょうか 障害を持って生まれてくる人、障害を後天的に抱えた人をみてあなたはどんな気持ちになりますか? 私は、お気の毒だな。という気持ちです。それと同時に、私にないハンディキャップを負いながら、あの人は 希望を失わずに与えられた生を全うしようと、明るく振舞っている。凄いことだ。そう思います。 あの人に困難なことが、自分は簡単にできる。それは恵まれたことだ。だから本当に感謝の気持ちを持たねば ならない。そう思います。 この問題は、世の中がどうのこうの、他人がどうのこうのという前に、人としての慎みや優しさの問題でしょう。 あなたが、謙虚な気持ちで人に接するならば、その相手が健常者であれ障害者であれ何か必ず学ぶものが あると思われます。
- kigurumi
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うーん。 映画では、トリックスターが登場することで、なんてことない映画にスパイスを与えて、いい映画ってなったりしますよね。 例えばうだつの上がらないとされていた人が、世界を救うヒーローになったり。 物語もそう。 人々がまやかしの世界に酔いしれていて虚構の世界を現実と同一視しているところに、子供がやってきて「王様は裸だ」とスパイスを撒く。 それで夢は終わり、大人は現実の世界に戻る。 映画を観たあと、しばらくその別世界に心の半分は留まっていたりして、ヤクザ映画を観た人は、映画館から出てくるとき、肩で風切ったりしますよね。 どんどん現実の世界に戻っていくと、肩で風切る現象は小さくなっていく。 あなたが見た障害者がスパイスとなった映画がどの映画なのかわかりませんが、例えば レインマン。 レイモンドだったと思いますが、高次脳自閉症だったと思います。 彼がスパイスとなり、傲慢で人を愛することを知らなかった男が、人を愛することはどういうことか知るって内容だったと思います。 ちなみに、このレイモンドを演じたダスティン・ホフマン、有名な俳優で健常者です。 友人はビデオでこの映画を観て、ダスティン・ホフマンが誰か知らず、本物の障害者だと思ったそうです。 それくらい演技がすごかったってことですね。 で、私がいいたいのは、レイモンドは作られた障害者。 確かにレイモンドの元になった人物は実在するが、彼は外に出ていない。 テレビで見ましたが、とても愉快そうに笑い、歌っていました。 その架空の実在しないレイモンドを演じたのは健常者のダスティン・ホフマン。 彼は自閉症とはそういうものだというイメージの元に、愉快で楽しそうに歌う実在の人物とは違う、彼のイメージする自閉症を演じた。 監督も自閉症をそういうイメージで捉えていたのだと思います。 その製作者がイメージする自閉症を、映画の中でスパイスとして使ったってことですね。 映画バベルが公開され、障害者から批判を受けたらしいですね。 細かいところで、実際の障害者と違い、視聴者は偽のものを障害者だと勘違いするからやめろ とか抗議したらしいです。 この映画で障害者を演じた人は、健常者ですから、実際の障害者とは違うことをやっても仕方ないとは思いますが、もし これが実際障害者だったら、同じことをやったとしても、抗議されなかったのかもしれないですね。 >世の中全般として、「穏便に」そして「表現の自由の抑圧」「モラルの強制」のような方向に流れている気がする。これは、いったいどういう必然から起こってくるのでしょうか? 日本の魂が和だからじゃないでしょうか。 アメリカはマックで買ったコーヒーをこぼしてやけどをしたとして、何億と損害賠償が取れる国です。 どんな屁理屈でもかまして、自分が悪いと知っていることすら、自分じゃなく相手を悪者にしたてあげることに長けている国。 日本の痛み分けの精神を理解できない国。 日本は連合国家というか、いろいろ集団がいて、争い、結局 大国主命が国を明け渡して引退したことでにスパイスを与えるとう手法を使いますよね。 和の元に統一されたとされています。 実際は負けたから引退したのかもしれませんが、譲ってくれた とした方が穏便に運ぶじゃないですか。 ここが西洋と違うところ。 西洋なら、自分達が正義だったから買った。 負けたほうは悪者だったから負けた。 となる。 もし 大国主命が譲ってくれたとしなかったら、イギリスとアイルランドのように1つの島に2つの国ができていて、抗争を続けていたかもしれない。 表現の自由の抑圧ですか? 日本は表現の自由は許されています。 ただ、障害者には優しくしましょう とちゃんとした根拠を提示せず、問答無用にやれ と教育しているところに問題はあると思います。 モラルの強制ですか? うーん 警察官の不祥事とか教師の破廉恥行為とか、本来はモラルを守れという人が率先して破っているわけで、、、、モラルを守る というものはただの意味の無い記号にしかなってないってのが現状。 ただ、日本は和の精神がありますので、法律とか校則とかに関係なく、不文律ってものが存在する。 例えば、借りたアパートの設備が壊れてしまった場合、貸している側が修繕費を出すべきか、使用者が出すべきか、 どっちが出すべきか 裁判でもめるのはアメリカ。 日本の場合、痛みわけで、半分づつ折半することで解決しようとする。 どっちも泣くことで、和とする。 どっちかが倒れるまで戦って、勝ったものが生き残る じゃあなく、どっちも損をすることで、両者が生き残る という不文律というか慣習がある。 これ 法律には載ってません。 やらなくてもいいんですが、日本人は頻繁に使い、共存を望む。 その痛みわけは和の精神から出ている。 で、モラルを守れという人は、日本の和の精神が流れていない日本人じゃない人じゃないか と。 穏便にってのは和の精神から出ていると思います。 表現の自由の抑圧も、和の精神から出ているんじゃないかと。 でも、モラルの強制は和の精神じゃないですので、西洋の宗教関係者が持ち込んだ、異種だと思います。 当然 日本人の魂とは違うので、違和感があり、なんでも法律で解決したがる西洋人と、法律にのっとらなくて解決してきた日本人とで違いがあるんじゃないかと。 と書いていったら、気づいたのですが、質問の上と下は種類が別ですね。 一瞬似ている 関連がある と思えたのですが、わさび を わびさび と読んでいたため、繋がっていると私が勘違いしたみたいです。 わびさび これも日本人しかわからないものなんですよね。
お礼
穏便にの精神の出所はそのとおりだと思いました。しかし、その穏便が近年加速しているようなんですよ。2,30年前は、今より西洋化したような気もしますし、今がもっと不必要な穏便に傾いているのではないかと。
このご質問への回答(や考察)は複数有ると思いますが、私がとりあえず思いついたことを書きます。 それは平凡な考察ですが、「情報化社会の発達」が要因ではないかと。 昨今のネット普及に伴う問題からもわかることですが……芸能人のちょっとした発言が日本中でバッシングになり謝罪会見にまで発展したり……情報が瞬時に共有されるようになったことで、国民すべての権利が増大したからではないでしょうか。 つまり言論の自由が増大したのと同時に、発せられた言論に反論する自由も増大したのです。 障害者の例でいえば、 それを否定的に表現する映画やテレビ自体が普及していなかった時代は、反論する人口も少ないということです。 現在でもテレビ番組は地上波、衛星放送、また放送時間帯によって表現の許容範囲が変わります。 それは視聴者の数と層に寄って与える影響が違うからですよね。 心身の障害そのものも医学的に解明されて未知の部分が少なくなるにつれ(これも情報化)、権利の主張も増大するのではないでしょうか。
お礼
たいへんよくわかります。 考えてみれば、江戸時代の情報量、あるいは平安時代、明治大正昭和現代と、まったくマスコミ的なありようは違うわけですから、そこを考慮しなくてはなりませんでした。ゆえに2030年前もずいぶんと違った様相だったのでしょうかね。やはり、ネット社会が大きいでしょうか。そうすると、それを受ける側の質量が変わってきて、問題にならなかったものを問題にするという要素は確かにあるでしょうね。企業が冒険できないとか、文化事業にあまり投資できなくなったようなことも言われているようですが、受けての質量の変化も大きいのでしょうね。 表現の許容範囲が変わるというのも、なんともややこしい様相ですね。 この問題についていえば、穏便な表現意外は許さんという層が増えたということになるようですが、これはどういう層と考えたらいいのか?と思います。
お礼
そのとおりなのですがね。ただ、昔の映画と今の映画はどうも穏便さとか、自由度が違うんですよ。