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救ってください。
日本だけでもここ数年痛ましい事ですが3万数千の方々が自ら命を絶ちますが。もがき苦しんでいる人を救ってください。
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《もがき苦しんでいる》場合は その現状を見つめ続けてください。 《自ら命を絶》つ場合には 直接 面と向かっているか 何らかのかたちで知り合いであって 特定の人として 接していることが必要だと考えます。 不特定の人たちに向けて 何か言葉をかけるということでしたら たとえばこの質疑応答を読んでくださるよう 願いたいと思います。すでに救われていると考えてください。
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死後に自殺した人が痛ましい現状が続くとか、生前より悲しむということはないと思います。 人生のトラブルは病気、暑さ寒さから逃れること、食べ物がないという致死的なことから、借金や人間関係という外的な共食いによって起こる【人災】に変貌したが、これらの解決には欲望を満たそうとする総体的にしか見れない、相対的な余地が残された土台があるにも関わらず絶対の目的としていることが死を身近に感じるようにもなって、その解決に死の選択も入っているのです。いわば死は人間に備わった魂の情景であり、動物と人間に一線を引く魂の救済なのです。 「精神とは魂とは拒否の力である。人間にいかなるときでも現状で満足することを許さない完璧への要求であるから、人間がまさに動物以外のものでありたいと願って自分を導きたいと願って、自分を導きたいと願うほどしか人間ではないからだ」/アラン 人間が死について知り得るのは三点だけで ・死は運命次第だということ。 不条理は期待どうりに事が運ばなかったことだけに使われて 不運は相手を選んではいないということ。 ・死が悲しいのは気にかけている人間だけであるということ。 ・死を悲しむのは本能を充足させているからで、 真理をわざわざ悲しんでいる人に告げることはしなくてもいいこと。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ これについてはツルゲーネフの「父と子」より 生きたくて生きれない人もいる 生きたくて生きれる人は幸いである。 死にたくても死ねない人もいる 死にたくて死ねる人は幸いである。 生きるに値する人間であるか否かは当人だけに決定権がある。 殺戮者であろうと生きたいのであれば充分生きるに値する。 かくいう私は生きるに値しない人間である。 何となれば人生を生きるに値しないものとみなすからである。 まだ人生の奥義を垣間見るにつけ 何故私ではなく、彼なのかと不条理を見出す。 死を弄び(もてあそび)生に飽満する哲学者にのみ北斗門は開かれたらん! ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 哲学者でも老齢でもないのに死を弄ぼうという人がいれば、未熟故のことですので、「立派な大人になってから自殺しなさい」と自殺を止めるのはいいことだと思います。 自殺する人より役立たなさがありながら、なせか偉い人、知識や経験で人を救わないで虐めの道具に堕落させている人。というのは一杯いて、よく眠り食べてるのが現状ですからね。
お礼
自殺を肯定している様でしたら止めてくださいね、勘違いだったらすいません。 中々難しくて私には理解しにくいですね、哲学のカテゴリーでお聞きしながら申し訳ありません、4,5回は読ませて頂きました。 有り難うございました。
No.5です。 私へはお礼ではなく補足のお返事を頂いたので、また書き込みをしていいのでしょうか。 私が言いたかったのは、師の指導が無ければ救われなかったのは確かですが、それ以上に自分が努力しなければ師に出会うところにも至らなかったということです。 >自殺した人は師が見つからなかった >努力だけではどうすることもできない と言いますが、それはどの時点での結論ですか? 見つかる前に自殺すれば、「見つからなかった」ということになります。今の時点で自殺して「すべてやり尽くした」とは言えないでしょう。 つまり生きているということはチャンスがあるということで、死んだ時点でチャンスは放棄するということです。 私は哲学的にお答えしています。 死ぬことがいい悪いではなく、のん気なのがいい悪いということではありません。 私は幼少期から年を取るまでずっと自殺願望がありました。 どう考えても自分の問題を解決する方法はないと思っていました。 ただ死ねないなら、生きていくしかない。 生きていく以上、救われたい。と模索する努力は続けました。 生きてさえいれば、自分を取り巻く状況は変わります。 その中で師(心理療法家です)に出会い、自分の問題を解決する方法を知ったのです。 私にとって解決の鍵となったのは、No.5で書いた「人間は皆平等に孤独である」という考えです。 人が人を救うのではなく、自分が自分を救うことに気づいた時、私は救われました。 だから「救ってください」という問いかけへの回答としてご紹介させて頂いたのです。 今の時点で自分の知っていることが世界のすべてではありません。 一秒後には新しい情報を知ることになります。 だからとりあえず生きていることが努力です。
お礼
>No.5です。 私へはお礼ではなく補足のお返事を頂いたので、また書き込みをしていいのでしょうか。 書き込んで頂いてかまわないですよ、私の質問文、回答者方々の回答文、私のお礼分・感想文を見た、追い詰めれた方の少しでも良い機縁になればと思い質問文としました。 あなた様、他の回答者の回答文が少しでも良い機縁になればと存じます。 有り難うございました。
たとえば、 解脱しない限りは何度、死んでも輪廻転生するのだから 今生において、解脱を達成しなくては何の根本的な解決とはならない。 だから自殺は何の解決もならない。 これは自殺を止めるという意味では倫理的だと思います。 仏教というか、バラモン教にしろ、ヒンドゥー教にしろ、 ジャイナ教にしろ。 輪廻の世界観を持った宗教ならば。 ところが、とても解脱はできそうにない。 来世に期待しよう。たとえば極楽に往生しよう。 そんな人たちが現れました。 そしていいました。 大丈夫、死んでもあなたは極楽にいけるでしょう。と。 今生において幸せになれなかった人々に対して 死んだら幸せなところにいけるよ。という。 さて、それは救いでしょうか? もしくはもうすでに悟っているという人々は 何か問題を解決したことになるのでしょうか? もしくは実は今生は全てが素晴らしい。 しかしそれに気づかず、ただ心の問題であった。 そういうひとたちはアウシュビッツ収容所の毒ガス室の中も すばらしいというのでしょうか? さて、心頭滅却すれば火も亦た涼し そういって、焼身自殺した人がいました。 救われたんでしょうか?
お礼
「理屈を離れ嘘をはなれ」 私は馬鹿ですから、これしか持ち合わせておりません。 ありがとうございした。
- nabayosh
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ここにない救いというものはどこを探してもないものと考えて下さい。 生きるということはもがき苦しむことも受け入れることである。 (もがき苦しんでいる死人はいない) ならば、もがき苦しんでいる人を救うとは、生をやめさせるか、もがき苦しむことを受け入れるようにするか、どちらかである。 生をやめさせることは殺人であるが、自殺はその中でも安易な「救い」の部類に入る。 ではその安易な救いのことを「痛ましい」などという必要があるだろうか。 一番安易な救いなのに、それを痛ましいというのはおかしくないだろうか。 自殺以外の方法で救うとすれば、その人を殺すか、もがき苦しみを受け入れる(耐える)ことを諭すかである。 質問者は殺人を推奨しているものではないと仮定すると、もがき苦しみ生きることを忍耐のうちに受け入れることを教え諭すしか方法はない。 ならば私もそのようにする。 自殺は質問者にとって痛ましいことであるかもしれない。 痛ましいことというのはまた苦しみの一種である。 しかしその痛ましさにも耐えることが生きることなのである。 だからそれを痛ましいと思ったり、救ってくださいと請うたりしても無駄なことだと悟るのが救いである。 質問者が殺人を推奨していると仮定する時は、私は緘黙するだけである。 私はそのようにはしないつもりである。
お礼
>質問者が殺人を推奨していると仮定する時は、私は緘黙するだけである そんなことは言っていません、nabayoshさん考え過ぎです。 有り難うございました。
No.2です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 私みたいに悩み多き人間に生まれ、因業をもって生まれますと縁が良くても不安・苦悶に変わることが多いですね。のん気な因業に生まれたかったですね(悲)(笑い) たまに絶望に襲われますが、死のうとは思いません絶望を頂くだけですねそのまま生活をしていますと何時とわなしに心とは移り変わりますから、心の問題が自力で解決つくと思うのは愚かだと思います。禅も自力が折れ他力でしょうが、あくまで心も問題が他力ですが外の自分の生活は絶望・苦痛・幸福・楽でも何とか行なう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 最後の一文がわかりづらいですが 全体として 苦楽を繰り返しているというところでしょうか。 ほかのお礼欄も読みましたが ri-zyuさんは すでに救われていますよ。ただ 文には句点を打ってください。読みづらいです。 人には いくつかの傾向があるようです。 (A) 救いを求める(または 自己救済の)途上にある。 (B) 救われた(救いを見出した)というとき (B-1) これを そのまま受け容れる。 (B-2) 疑う。疑いつづける。 (B-3) 妥当だと思っても 拒む。求めていたのに 拒む。 (A)と(B-1)とは 同じだと考えます。《救われている》人です。 (B-2 / B-3)は 互いに同じく 《救われたくない》という人です。 後者の人たちに対して わたしたちは 何ができるか。何ができるでしょう。 前者の人びとは 後者の人たちと相い対して交わるとき その人格の交換にだけは 注意してください。かれらが それを仕掛けて来ます。《救われ》と《ひねくれ》との――情念あるいは念力をつうじての――交換のことです。ひねくれのほうも やはり 妬んでいるようです。 (A)および(B-1)の人びとは 外から中へ入って来たものを――たとえ愛情とよぶものでも 美しいもの・汚れたものをひっくるめて 外からのものは―― 棄ててください。要らないものです。美しいものでもです。その美しさを支えている生命(または 力 または それは むしろ 弱さ)が 互いに あるはづですから そちらのほうを むしろ 自分自身だと思うようにしてください。
お礼
他の方への回答文を少しだけ拝見しましたがキリスト教から入られたのですね、私の場合は真宗・禅ですがbragelone様のアドバイス文が素直に心に入ってきますね、私などは大したものではないですが、仏教もキリスト教も底(本質)は同じかもわかりませんね。 >文には句点を打ってください。読みづらいです。 すいません、学生時代勉強など、ほとんど、しなかったものですから文章力がなく、今頃後悔してます。 貴重なご意見有り難うございました、また機会が有りましたらご指導ください。
- markx01
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心の疲労 この1点かと思います。 万を越える数字ですから自殺の理由は無数にあるでしょう。 極論で言うと 生まれてから大人になるまで、【我慢】することが少なくなっているからです。 昔の人は朝から晩まで我慢だったな と思います。 暑い寒い 空腹 腹痛頭痛 怪我 厳しい上下関係 などなど 今では考えられない我慢を繰り返して生きていたのです。 結果論ですが、自殺者統計は優遇された社会である現在の方が多いですよね。 一人一人が脆弱な精神力になっているので、子供のうちから 我慢教育を施し、大人もまた我慢生活に慣れる事。 特に大人は娯楽快楽を制限し、精神面で強くなる。 これは精神疲労がピークに達する前に行われなければなりません。 精神面で疲労がピークに達したら うつ病は随分進行してしまってるでしょうが うつ病の最大回復術は【笑う】事(医学的に実証済み) 最終的な局面になれば、あらゆる手段を使って死のうとしますが その前であれば【つくり笑い】は可能です。このつくり笑いだけでも効果はあるのです。 自殺は重たい≪心のため息≫。気分転換できる場所をみつけ、普段生活している人たちとは全く違う空間で生きている人たちなら、軽い空気で笑えるはず。 思いつかなければ人の付くショールームや博物館でもいいでしょう バラエティ番組でもいいでしょう。とにかく 笑顔をつくる努力 本人も周辺も、頑張らなくてはいけません
お礼
大変参考の成ります。 >結果論ですが、自殺者統計は優遇された社会である現在の方が多いですよね。 これは聞いたことが有るように思います、どうしても優遇された社会で考える時間が多過ぎますとよくないでですよね。 笑う事これも、御もっともだと思います、軽いうつ状態の人には良いじゃないかと思いますね、そして外に出ること。歩く事なども良いかも知れません。歩く事により血の巡りが良くなり良い解決方が見つかる可能性が増えるように思います。 今日のニュースで家族を殺害した事件が報じられていますが、大変痛ましい事で亡くなられた方々にお悔やみを申し上げたいですが、こいう事件ですが家族を殺害した本人とっては大変な絶望か不安孤独だったんでしょうが 客観的に物事見られていたら絶望で有ろうが不安で有ろうが孤独で有ろうが生活さへ手探りでいいですから行なっていれが、5年後10年後には小さな幸福が訪れていたと察するのです。時には絶望に落とされる人生も有るでしょうが全く先が暗闇でも生活さえしていれば、心は変わって行くものだと認識をして頂きたいものです。荒っぽい言い方をしますと絶望で有ろうが幸福で有ろうがどちらでも良いという心境で必死で働いていればと思ったりもします。 貴重なご意見有り難うございました。
昔、某寺の前に、ホームレスがいた。 その寺は観光寺だったので拝観料がいる。 坊主の身なりは綺麗だった。 そこは他力をウリにしているところだった。 私は思いましたね。 ああ。宗教など何の役にも立たないとね。 人を救うとしたら宗教以外の方法によってですね。
お礼
そう言う事があったんですか、なるほど他力と言う事は浄土真宗ですね 真宗を擁護するわけではないですが、仏教は自覚するものだと思います。 私の認識では簡単に言いますと、宗祖の親鸞の自覚は心も問題は他力ですが自分の生活は自分でしなければならないと言う自覚だと思います。もちろん余裕があればホームレスのお方にサービスをしなければいけませんが。(実際それに似た社会奉仕はしていると思います) その場面だけを見、判断を下さないで頂ければ幸いです。もちろんお坊さん生身の人間です、ですから自覚がたりないお坊さんもいるのかも知れません残念です。 有り難うございました。
- shift-2007
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ここでもQAという形で救っているじゃないですか。 現在進行形ですよ。
お礼
あなた様は理知的な頭の言い方ですね他の方の回答文を少し拝見しましたが。 有り難うございます。
まず、 >救ってください ということですが、 なぜ人が人を救わなければならないのでしょうか。 人が人を救えるのでしょうか。 私は素晴らしい師によって救われ、生きる意味を見いだしましたが、その師に出会えたのは自分の努力の賜物と思います。 師の指導を理解し、実行したのも自分です。 人の力で救われるという発想が、永遠に救われない絶望を作り出していると思います。 質問者さまはご自身を「悩み多き人間に生まれた」「のん気に生まれたかった」と言われますが、自分以外の人間がどれくらい悩んでいるか、どれくらいのん気であるか、わかりますか。 誰も人の心の中は知ることができません。 人間は独りで生まれて、独りで生きて、独りで死んでゆきます。 全人類が平等に孤独なのです。 自分だけが孤独で、自分だけが悩んでいて、誰かが救ってくれるのを待っている以上、その人は永遠に孤独です。 救ってくれる人は現れないからです。
補足
>人が人を救えるのでしょうか。 と、おしゃって、私は素晴らしい師によって救われ、意味が判りません、?師とは何かの教えですか?何かの教えなら教えで言いと思いますあなた様が救われたのなら本当に良かったと思います、自殺された方がたも必死で求め努力したと思いますが努力だけではどうする事も出来ない壁にぶち当たるのです、あなた様のお言葉を借りますと師が見つからなかったのです、自殺した人々の責任ですか? 努力(智)(分別)だけでは解決できないことが有るのです。 「救ってください」とは深い意味での問いかけでも有ります。哲学カテゴリーですから。 「のん気に生まれたかった」が気にいならいのでしたらあやまります、ただ悩みやすい人そうでない人がいるのは事実だと思います。
- adaypajimy
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自殺者の内訳は、若年者の自殺も増えているようですが、その多くは老いて職を失い疾病が原因などで、やむをえなく自ら命を絶つ人です。もがき苦しんでいるかどうかは分りませんが、生きる希望を失った人を説得することはできません。あなた個人が彼らの命を背負う必要はありません。基本的にもがき苦しむ人を救うのは難しいことです。 もし救いたいのであれば、まず、あなた自身が社会に対して、不幸な人が増えない関わり方をすることにすればよいのではないか、と思います。私も仕事を通して人が幸せになる社会への関わり方とは何か、なるべく問うことにしています。
お礼
貴重なご意見有り難うございました。
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お礼
>すでに救われていると考えてください。 この言葉に本当の意味が理解できれば自殺者は激減すると思うのですが。 私みたいに悩み多き人間に生まれ、因業をもって生まれますと縁が良くても不安・苦悶に変わることが多いですね。のん気な因業に生まれたかったですね(悲)(笑い) たまに絶望に襲われますが、死のうとは思いません絶望を頂くだけですねそのまま生活をしていますと何時とわなしに心とは移り変わりますから、心の問題が自力で解決つくと思うのは愚かだと思います。禅も自力が折れ他力でしょうが、あくまで心も問題が他力ですが外の自分の生活は絶望・苦痛・幸福・楽でも何とか行なう。 すこしおしゃべり(自己主張)が過ぎたようで失礼しました 貴重なご意見有り難うございました。