死後に自殺した人が痛ましい現状が続くとか、生前より悲しむということはないと思います。
人生のトラブルは病気、暑さ寒さから逃れること、食べ物がないという致死的なことから、借金や人間関係という外的な共食いによって起こる【人災】に変貌したが、これらの解決には欲望を満たそうとする総体的にしか見れない、相対的な余地が残された土台があるにも関わらず絶対の目的としていることが死を身近に感じるようにもなって、その解決に死の選択も入っているのです。いわば死は人間に備わった魂の情景であり、動物と人間に一線を引く魂の救済なのです。
「精神とは魂とは拒否の力である。人間にいかなるときでも現状で満足することを許さない完璧への要求であるから、人間がまさに動物以外のものでありたいと願って自分を導きたいと願って、自分を導きたいと願うほどしか人間ではないからだ」/アラン
人間が死について知り得るのは三点だけで
・死は運命次第だということ。
不条理は期待どうりに事が運ばなかったことだけに使われて
不運は相手を選んではいないということ。
・死が悲しいのは気にかけている人間だけであるということ。
・死を悲しむのは本能を充足させているからで、
真理をわざわざ悲しんでいる人に告げることはしなくてもいいこと。
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これについてはツルゲーネフの「父と子」より
生きたくて生きれない人もいる
生きたくて生きれる人は幸いである。
死にたくても死ねない人もいる
死にたくて死ねる人は幸いである。
生きるに値する人間であるか否かは当人だけに決定権がある。
殺戮者であろうと生きたいのであれば充分生きるに値する。
かくいう私は生きるに値しない人間である。
何となれば人生を生きるに値しないものとみなすからである。
まだ人生の奥義を垣間見るにつけ
何故私ではなく、彼なのかと不条理を見出す。
死を弄び(もてあそび)生に飽満する哲学者にのみ北斗門は開かれたらん!
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哲学者でも老齢でもないのに死を弄ぼうという人がいれば、未熟故のことですので、「立派な大人になってから自殺しなさい」と自殺を止めるのはいいことだと思います。
自殺する人より役立たなさがありながら、なせか偉い人、知識や経験で人を救わないで虐めの道具に堕落させている人。というのは一杯いて、よく眠り食べてるのが現状ですからね。
お礼
>すでに救われていると考えてください。 この言葉に本当の意味が理解できれば自殺者は激減すると思うのですが。 私みたいに悩み多き人間に生まれ、因業をもって生まれますと縁が良くても不安・苦悶に変わることが多いですね。のん気な因業に生まれたかったですね(悲)(笑い) たまに絶望に襲われますが、死のうとは思いません絶望を頂くだけですねそのまま生活をしていますと何時とわなしに心とは移り変わりますから、心の問題が自力で解決つくと思うのは愚かだと思います。禅も自力が折れ他力でしょうが、あくまで心も問題が他力ですが外の自分の生活は絶望・苦痛・幸福・楽でも何とか行なう。 すこしおしゃべり(自己主張)が過ぎたようで失礼しました 貴重なご意見有り難うございました。