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何故宗教は必要ですか?
宗教を必要なのは心が不安だからだと思いますが 何故人間は人生が安心でなくてはいけないと決めるのでしょうか 人生は不安であると思ってしまえば宗教は必要ないのではないでしょうか そして争いも無くなる・・・。 事実人生は電車の乗ってる如く不安定です。
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質問の箱だけだと、質問者さんは宗教にあまりご造詣やご薀蓄がないかと存じておりましたら、やはりそうではなく、深いご思索や薀蓄のある方と存じ、お言葉の“不安だから”も決して生半可な意味内容ではないことが判りました。 そういうことでしたら、正に、人間という存在形式が不安だから以外に、宗教の生成と展開はなかったといえるかもしれません。つまり唯一の存在である、創造の意識が命じているからでしょう。真理を求めよ、それを自己に実現せよ。と。それが人間という存在に負わされている不安でしょう、宗教がそう命じていて、私達はそれに収斂していく運命でしょう。 人生に安心は不要ですか。そう、水簾洞斉天・孫悟空の一時を充足させているものがあるのですから、人はそんな不安は不要でしょう。 山賊の洞窟で、戦利品を前に、大あぐらを掻いて、酒盛りをしていて、日常が満足いる多くの私達は、多く、なかなか宗教を求めることができていないのが現状です。 人生は不安なのです。結局、被創造者としてしか意識してない、反射光の意識でない、私達は当然不安です。主体的であるとか、自由であるとか、思っていても、それは幻想でしかないし、その日常やこの創造の世界の中の反射の光しか知らない意識と存在では。 そういう人は宗教が不必要と思っています。 正に、水簾洞斉天・孫悟空や洞窟で戦利品を前に、大あぐらを掻いて、酒盛りをして山賊の身です。 ご満足の間は宜しいと存じます。 そこに意識があるだけですので。それをとやこういうことはないのではないですか? 通勤電車で、いっしょに詰め込まれ、ぞろぞろ下車して。 自動の人生、主体の、自由のひとかけらもない人生。 朝起きて、・・・そして寝て。また起きる。 そんなものですね。 人間の、ありようは。 高1の時に、尊敬する、年長の同級生が私にがんと冷や水をくれました。 二匹のかえるがいた。 一匹は向こう岸に渡ろうと思い、意志している。 もう一匹は、どうせ流されるだけさ、渡れっこないよ。渡って何になるんだ。というのです。 よく聞く寓話ですね。 どっちの蛙が、・・・。 そして私は、彼に降参したのです。 挫折と行き詰まりを乗り越えたのです。 小5、小6の時からの決意と思考を、そこで変更し、乗り越えたのです。 補足のご説明に感謝します。挨拶としてコメントを書き込みます 自分は古希、長男ですので皆が今日はもう集まりました。そんな思いを常に持して、また世の付き合いに階下に下りて70パーセント以上馬鹿になりながら、孫悟空の、山賊の役をやるのです。これから。
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不安は、蓄積されると心身に害を及ぼします。 不安定は、慣れます。上手にこなせるようになれます。 ふたつは根本的に別のものです。 不安は、安心の欠落であって、本来安心があるべき姿。 恋人と二人で疑いもなく幸福感に浸るのが真の姿か 相手に猜疑心を抱くのが本来なのか。 不安は、人間の弱さだという人もいます。 おそらく、本質は愛であって、すべての他人を信頼し ゆだねる心を持つことでしょう。 野島 伸司脚本の「薔薇のない花屋」を見ていて親の愛 を知らない子供と愛されない大人。宗教というより愛し信頼する」 ことが、「安心」の礎かなと ふと そんなことを思いました。
お礼
>不安は、蓄積されると心身に害を及ぼします そうかもしれませんね。 >すべての他人を信頼し ゆだねる心を持つことでしょう。 それは理想ですが人類がそうなれば争いは無くなくなり、多数の不安がなくなると思います、しかし心はそう簡単に他人を信頼し ゆだねられます、あなた様の心は、仮定の話になりますが、愛する人が他人奪われたとします、その人を愛し信頼できますかゆだねられますか? 心とコロコロ雲のようにと変わるという事実を認識し自分の心で有りながらコントールできないと自覚・認識したなら、幸福を求めようとか安心を得ようとか余りしなくて良いのではないでしょうかそれが「本当の意味の安心」じゃないでしょうか。 年間、日本で3万数千の人が自殺で亡くなられる方がおられますが、心は行き詰って良いんですよね、行き詰る人は行き詰りますから、生活をしていれば心は変わりますから。理想も感情も変わっていきますから。だから不安でもいいと思うのです。 あまりまとまりのない文章ですいません、ありがとうございました。
《人生は不安であると思ってしまえば宗教は必要ないのではないでしょうか そして争いも無くなる・・・。 / 事実人生は電車に乗ってる如く不安定です。》 ――宣長でしたか 身内にしろ近しい人にしろ 人が死ねば悲しむ ただ悲しむ これが神ながらの道だと言っていると思います。コッカシントウは その信仰を 集団としてのかたちに束ね そこに何やかや儀礼をつけ加えて 厄介ですが。 《宗教が必要なのは心が不安だからだと思いますが・・・》 ――とは わたしは考えません。《群れる》という習性から来ているとまづ思います。《人という字は 互いに支えあっているのだ》という大理論にまで発展しています。 そのあと この群れには 居心地の悪さという側面もあるはづですが それをも克服する道は こうです。つまり 金儲けという道への変身もさることながら やはり支配欲の充足が一番にあるのではないか。 世俗から離れた道徳を看板にして その内容を説くことによって 人を統率するという行為 ここには 《たとえ仲間の間に支配という関係があったとしても それは 聖なる支配であると弁明し得て 実質的に支配欲が満たされる》というところです。 《心や病気の不安》 これは 一つの筋として 大きな要因だと思いますが それをも吹っ飛ばすのは 人を動かすという自己充足行為であるのではないか。こう考えます。 宗教の批判は とっくに終わっています。あとは その組織の解体に向かうものと考えます。
お礼
読ませて頂きました、参考に成りました有り難うございます。
気づくと思いますが 安心や真の幸福、そういったものは 現状のものを否定します。 いきなり、何も役に立たないと言われてみてください。 論理上の強盗です。 愛や慈悲を説くことで自らを限りなく善人に仕立てて おきながら、言論上の暴力行為をはたらく。 これが宗教です。 注意深く見ると、宗教を擁護する言論の中には、脅迫的言動 たとえば、耐えられますか?などが数多く含まれています。 しかし、そのことを知って、 聖者になるべく、宗教の要求する、レベルの段階まで 苦難に耐えて目指すべきものを目指すと言うのであれば、話は別です。 時々、宗教がとてつもないもの生み出しています。 芸術にしろ、人間にしろ。 問題なのは、宗教を、騙しに騙して あなたの幸せを考えていると、商売することです。 大丈夫、あなたは救われます。 なんて詐欺行為でしょう。
- kensan39
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不幸があると また 不幸になると思う人は必要なのです ごく当たり前ですが自分に神が味方していると感じる人は 必要有りません これが自分の心の問題なのです 実際の幸不幸は関係なく 起こることなのです 一度その状態になると宗教でも信じないと生きて行けなくなります 大半の人はその様なことは考えません 今日も明日も同じと思うのです だって大多数人には今日も明日も同じです でも人には切れ目があります その切れ目を乗り切ると問題ないですが その時に失敗すると大事が起きます 一番の切れ目が学生から社会人になるときです 次が結婚することです 今結婚をいやがる人が多いいいです 明日が見えなくなるからです
お礼
色々参考のなりました有り難うございます。
- lv4u
- ベストアンサー率27% (1862/6715)
>>何故宗教は必要ですか? 健康で、生活が安定していれば「宗教なんていらねー」ってなるのが普通の人だと思います。でも、すべての人間は、確実に死んでいきます。健康だと思っていたのに、いきなりの「余命1年のガン宣告!」なんてのもあります。 さしあたって自分はしばらくは死なないとしても、両親や親友が死んだり、最愛の恋人や自分の子供が死ぬことがあります。 また、もっと多くの確率で死にめぐりあうことがあります。それは「ペットの死」です。ペットロス症候群っていうのもありますね。(ほんとに、猫はかわいいですからね。旦那よりも子供よりも猫が大切って方もいるようですし・・・) 「先祖のたたりじゃあ。この壺買わんと救われんぞ」って脅しではありませんが、「死の恐怖」や「最愛の人との別れの苦しみ」が誰にも確実に襲ってくるから、心の平安を得るためにも宗教が必要なんですね。 溺愛したニャンコが先に死のうと、長年の連れ合いが先に逝こうとも、「あの世で再会できる」って思えば、「しばしの別れ」ってことで、心は慰められます。でも、「あの世」の存在証明なんて、しばらくは科学的には不可能に思えるので、「信じる」しかなく、それは「宗教」の領域になるわけです。 ちなみに猫や犬も転生輪廻しますが、ペットとして買われた猫や犬は個性を持っていて、さらにほんとうに愛された猫や犬は、天国での飼い主との再会を待つために、「わたし転生しないで待っている」っていう子もいます。霊感ある友人は死んじゃった猫ちゃんとよく会話していますが、「転生しないで待っているからね」って言われているようです。なんか「早くこっちに来て」って言われているようで、ちょっとイヤな気もしますが(笑) 肉親、子供、ペットがどんなに死んでも、そして自分自身が「余命半年!」って医師に宣言されても、まったく平静にいられて、静かに死んでいけるなら、そういう方には宗教は不要かもしれません。(凄い人だと思います)
お礼
死は怖いですし、最愛の人との別れは苦しいです、その通りだと思います、人間は死が怖いように出来ていると思います、それが事実だと思います、その事実を宗教に触れる事で変えられますか?(安心を得られますか) 「先祖のたたりじゃあ。この壺買わんと救われんぞ」といわれれば不安だと思います、不安で良いんじゃないんでしょうか、安心に成ろうとするから引っ掛かるのではないのでしょうか? 少し生意気をいいましたがお許しください、ありがとうございました。
- hgp
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安心ではなくてはいけないと決める、というのはちょっとおかしくないでしょうか? 不快な事を避けようとするのは人間の当り前の行動です。 不安の中にたまに安心があるからこそ安心が心地よく感じるのではないしょうか。(宗教を信仰しているか否かに関わらず。) そして宗教を信仰している人達はその心地よさが、自分の信仰している宗教のおかげだと思っているんでしょうね。 そんな私も不必要だと思います。
お礼
色々勉強させて頂きました。 >そんな私も不必要だと思います。 何をおしゃいますやら、絶対必要です^^。有り難うございました。
お礼
遅くなら申し訳ありません。 そして私は、彼に降参したのです。 挫折と行き詰まりを乗り越えたのです。 >小5、小6の時からの決意と思考を、そこで変更し、乗り越えたのです。 降参して行き詰まりを乗り越えたその通りだと思います。 >また世の付き合いに階下に下りて70パーセント以上馬鹿になりながら、孫悟空の、山賊の役をやるのです。これから。 ごもっとも。 古希おめでとうございますまた何処かでお会いしましたらご指導ください。 有り難うございました。