- ベストアンサー
モンゴル襲来の時もし・・・
モンゴル襲来の1281年の弘安の役の時、もし台風が来てなかったらあの時の日本はどのようになっていたと思いますか??また今の日本にも影響は出ていたのでしょうか?また、もし時宗がモンゴルと戦うという結論ではなくて国を開くと決断していたら・・・今の日本はどうなっていたのですか?みなさんの考えを教えて下さい
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
No.2の方の意見とほぼ同じですが、(削除しないでね) 元が、九州北部と今の山口県程度を占領するところまでは、戦力の差から 考えると容易だったと思います。 ですが…。 元軍は内部に問題をかかえていました。 ●軍団が、異民族により構成されていた。 元に占領された地域の民族を日本攻略の先鋒に起用したため、それら 民族自身には、日本を占領するメリットが無い。(やる気がない) 複数の民族により構成された軍団のため、1枚岩でない。 (足の引っ張り合いをする恐れ在り) さらに、元は当時占領した地域の反乱に手を焼いていました。 ●国内情勢が不安定。(金と人をつぎこむ日本攻略などやっていて良いのか) そして日本は、当時未開の異国です。(野蛮な国といっていいかも) ●得体のしれない場所を攻めることは、不安、恐怖につながる。 さらに、大陸での戦さを得意とする元軍は、船による戦さは苦手で、また日本 を占領する理由が、元(フビライ・ハン)の威信によるものだとすれば、 これは、現場(戦場で働く者達)には、ばかげた戦さでしょう。 (勝利によって得られるものは少ない。満たされるのは、元のプライドのみ?) 従って、元軍は日本の一部を占領するが、鎌倉武士によるゲリラ戦と未知の 土地に陣を張る不安から自然崩壊し、本国で騒乱が起きればそれを理由に さっさと引き上げたと思います。
その他の回答 (4)
- bonnnou
- ベストアンサー率36% (146/395)
よく、「元寇の時、神風が吹いた」と言われていますが、当時の日本側の資料では、「野分(=台風)」の記載がなく、元は、その日の戦いを優勢におえると、船に引き上げてゆき、その晩があけると、多くの船が大破し、主力が、引き上げていたようです。 いわば、日本側が、「野分け」や、「大風」と認識しない程度の「風」で、船は、破損したようです。 これは、当然、占領した朝鮮半島で、にわかに、「造船」させた船で、進軍してきたわけですから、恒常的な占領は不可能で、一過性の行軍進軍で、北九州近辺の殺戮と略奪は、行われたでしょうが、それ以上のものではなかったでしょう。 事実、途中の平戸では、とらえられた島民が、船の縁に、手を、クギで打ち付けてとらえた記録が残っていたと思います。 私としては、 当時、「元と講和」を行うという、考えは、全く無く、発想もなかったと思います。 したがって、たとえ、当時、「元」に負けていても、歴史の大きな流れに、変更はないと、想像されますよ。
- nobunojo
- ベストアンサー率29% (122/407)
元そのものが大した期間続いた国ではないので、 さほど後々に影響を残すことはなかったでしょう。 それでなくとも四方を海に囲まれ、縦に長く、 しかも山深い日本のこと、あの当時の元・高麗連合軍が 制圧することは、やはり無理だったのではないかと思います。 なお、あの情勢下では開国と言っても戦わずに服従することでしか 無いので、もし時宗が不戦を選択していれば、その時点で鎌倉幕府が 崩壊したのではないでしょうかね。
- nakaichi
- ベストアンサー率18% (36/191)
こんにちは。 たとえ一時的に蒙古に征服されたとしても、すぐに奪回できるでしょうね。蒙古本国からの補給線が弱い事、日本の武士の精神力と能力が高い事などが理由に挙げられると思います。よって、今の日本にほとんど影響はないでしょう。 それよりも、もっと後の時代で家康でなく信長が政権を維持していたら日本は大きく変わっていたと思います。鎖国はなかったはずですから。
- hirokki-
- ベストアンサー率16% (4/24)
まあ、多分そのときに「元」に吸収されて今は日本じゃなかったと思いますよ。 でも、日本も2回も台風に助けられるなんて運がいいですなぁ