• 締切済み

生きる意味を問う人は、他人のために生きられる人かも?

ふと思いました。 生きる意味を問う人(問う頻度が多い人)は、 根本的に、奉仕の精神が強いのではないか、と。 逆に、利己的な人間ほど、 生きる意味(精神的な問いかけ)はしないように(少ないように)思います。 気のせいでしょうか? 一くくりにするのは間違いですかね。 もし気のせいでないのなら、 (私は新宗教のために立ち上がるかも・・)

みんなの回答

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.18

テーラワーダ仏教を学んでいるものです。 心の利益(楽・平安)を視点に物事を見れば、多くの人がさかさまなことをやっているようにも見えますね。 自分に良かれと思って利己的に、自分の固定概念を正しいと、世間とけんかする人は、結局自分にも敵のように振る舞い、他人にも迷惑をかけている。しかも敵を多く作る。 そのように感じることがあります。 他人に奉仕することは自分にも他人にも必要なことでしょうね。 奉仕するほうは充実感もえられますし、自分の能力や財産に対する執着を手放すことにもつながり、されるほうは助かります。 しかしこの際、本当に役立つことか分析する能力が必要になりますよね。見当違いのことをすれば迷惑にもなりかねませんから。 そこで必要になってくるのは感情面の落ち着きと観察能力でしょう。 感情的な人や観察能力がない人はただそれだけで周りに迷惑をかけてしまう可能性が高くなりますよね。欲張ったり怒ってばっかりだったり、見当違いのことばかりやる人は…ね。 感情を落ち着かせるには、何かに集中するトレーニングしたり、道徳的な人間になるべく、言葉・行為・心のあり方を正し、人格向上をはからねばなりません。 それらの実践で、心が落ち着いてきたら、物事を理性的に観察するトレーニングをすることで観察能力を高めます。 そして徐々に自他共にやくに立つ正しい行為に近づいていく…。 これらの実践・訓練方法が「パーリ語仏法」には具体的に厳密に、逃げ道なく書かれている様に思います。 学ばれていないのであれば、一度触れてみてはいかがでしょうか? 新宗教のために立ち上がる必要もなくなるかもしれません。 自分の心を調御し、観察能力と慈悲の心を育て、自他共に役立つことを身口意の行為をとうして行なっていく。 これらを実践している人々も多くいます。 あなたが善き友を得られますように。 スマナサーラ長老の書籍や「テーラワーダ仏教の実践」今月中に出ると噂のサンガ出版「仏法」(タイトルはこれか解りませんが、厚い本です)なんかは、自費出版版を持っていますが、ため息ものです。お勧めいたします。 お役に立てれば幸いです。 それでは失礼いたします。

eienn
質問者

お礼

仏教は好きです。 ですから、もっと勉強したいと思います。 基本的には、 心の清い人や、また、善意のある団体を保護し、強くしていく、 そういう自衛組織であり、 不正に対しても厳しくある、 警察と政府に、対抗できるだけの組織にしないといけません。 思いと力が、平和を作るのです。 私は、それをつなげる役目をしたいと思っています。

  • ikiruimi
  • ベストアンサー率25% (2/8)
回答No.17

人は、生きることに苦痛を感じる時に、生きる意味を問う存在だと思います。 生きる意味や、何のために生きているのかといった「人生の根本問題」は、 宇宙の第一原因者たる神について知らなければ解くことができません。 本来人間は、神が人間に与えた祝福、すなわち喜びを実現するために生まれてきます。

回答No.16

自分で自分の心に絶えず問いかけている人は、もう悩んでいると言えます。苦しんでいると言えます。人に問うと言う事はしません。人は余り深追いしていないからです。誰にも相談できずに、苦悩している人は、その結果、何かに、気ずくかも知れません。その時にならなければ分からないでしょう。

  • otikovore
  • ベストアンサー率19% (11/57)
回答No.15

生きる意味を問う頻度が多い人は、具体的な行動に移していないことが多いような気がします。 生きる意味を問う頻度が多い人は内向的な要素が大きく、他人とあまり関わらない人物像が一般的には想像できます。 逆に、社交的で順風満帆な人生を送っている人は、あまり生きる意味を問う必要がないことからその機会はないかもしれませんが、人と関わって周りも楽しんでいると思います。 (その人が利己的であれば普通なら周りの人は去っていくはずですから) 利己的かどうかということと生きる意味を問うかどうかというのは、別の方向性を持っていると思います。 そもそもあの人は利己的だなどと言う時点で、実はそれを言った人が利己的だとも言えます。 なぜなら、人が利己的だと思うとき、自分が望むような行動を相手がしていないと感じているからです。 みなそれぞれ自分にとって都合が良くなる(気持ちの面も含めて利得が高くなる)ように行動しています。 利己的だと評価される人というのは、ただ相手のことを考えることが自分のためにもなると考えられない、考えるのが苦手というだけです。 または、自分のことだけを考えて行動するのが良いと考えられる状況だったりするのかもしれません。 それは、集団全体の空気によってもかわってくると思います。 偽装事件なども他社がやっているなら自分のところもやらないと競争に負けてしまうという考えがあったのかもしれません。 あと社会を変えるんだったら、新興宗教よりも政治家になったほうがいいんじゃないでしょうか。

eienn
質問者

お礼

私からすると、 「自分、もしくは自分の好きな人だけの幸せを望むのは利己的」 なのですが、それを言うと偽善者扱いされるので言いませんが。 だって、結局、Aさんが幸せになっても、Bさんが不幸になっていたら、それを私は、幸福と喜ぶのは、「いけない」気がしています。 確かに、個人の努力の量や、性格、日ごろの行いなど、 いろいろな問題があると思いますが 根幹には、やはり万人の幸せを望むべきだと思います。 しかしあなたのいうように、これは私の勝手な意志であって、 強制はしたくありません。 だからこそ、同じ意思をもつ人や、同じ傷を持つ人たちだけでも、 安らげるような聖域を作りたいのです。 新興宗教でも、会社でも、政党でも、 とりあえず、なにかの組織を結成したいと思います。 ありがとうございました。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.14

気のせいではないと思いますね。 生きる意味を問う人とは、つまり、「【善く】生きるために」その意味を問うているはずです。 「奉仕」というのは他者に対する善性の発揮ですから、「善く生きたい」と思わない人が携わろうという気になることは稀でしょう。 利己的な人間が、「生きる意味を問わない」傾向にあるということもまた事実だろうと思います。 ただ、この場合でも彼(あるいは彼女)は、自分の生きる意味【だけ】は問うていることでしょう。 前者は超自我的。後者は自我的人間と言えますが、現代の社会においては後者の自我的人間が大多数を占めているようです。 しかし、すでにご承知のこととは思いますが、どちらか一方だけの人間というものもまた稀であって、どちらの要素も人は兼ね備えています。 後は、バランスの問題になってきます。 それぞれの環境をどのように咀嚼してきたのか、ということによって、バランスの取り方に差が出てくるでしょう。 つまらぬことに散財はするのに、困っている人を助けようともしない、という人がいたとしましょう。 本人にとっては「つまらぬこと」では決してないわけです。 つまり、「お金を使える」ことがその人にとっての自己実現になっている。 その人にとって、困っている人にお金を施すということは、自分が飢え死にすることと同義と捉えられていると思います。 その人にとってお金は力の象徴であり、その力を行使することによってしか自らの人生における充足感を得られないわけでしょう。 かといって、困っている人に援助すればいいか、というと必ずしもそうとばかりは言えません。 いや、正確に言うと、施しだけでは根本的な解決にはつながりません。 なぜなら、本当の援助とはその人が自分の力で自己実現を目指せるようにすることだからです。(少なくとも私はそう思っています) 無論、そのためだけにでもお金は必要になります。 しかし、それ以上に必要なのは、そのような人々を作り出さないような社会的背景が醸成されることでしょう。 お金持ちだけが他者を救えるわけではない、ということです。 そしてそれは、とても地道な行動の集積によってしか成し遂げられない。 「>新宗教」とは、あくまでそういった集積の結果として、必然的に形成されるものかもしれませんね。 無論、そのためにはeiennさんのように意志するということは必要です。 しかし、最初の一歩は、ほんの身近な人間に対して真摯に向き合うこと、つまり、地に足のついたものであることが必須ではないかな、という気もします。 大いに快を求め、得も追い、しかし、善を為すことを忘れない。 こういったバランスを失うと長続きしませんし、結果として共倒れになります。 とは言うものの、今の日本は明らかに異常です。 根本的な解決に少しでも近づけるためには、着実で冷静な心の動きが必要とされるでしょう。  

回答No.13

暇なので考えてみました中流の場合ですね何を以って中流とするのかはっきりしませんけどね経済的に中流なのか社会的イメージとしての中流なのか、知能なのか健康面とか時間とかいろいろありますけども、 中流にあって生きる意味を問う人というのは悩みを持っているひとですよね 例えば亭主が浮気をしたとすると妻は当然悩み始めますよね 私が悪かったのかしらいいえやっぱり亭主が悪い子どももいるのに・・・と考えますね  いくら言っても浮気癖が直らない、私はどうしたら私らしく生きていけるかしらと思考が進んで哲学まで発展するわけですよね それが更に進むと、同じような悩みを持つ人間といたわりあい始めるんですよねそれが奉仕活動の第一歩ですね そういうことで、健康で時間も金もほどほどにあり、先々の不安もないという人は他人と傷を舐め合う必要もない。ということで奉仕隊員の人から見れば利己的に見えるんでしょうね

eienn
質問者

お礼

>健康で時間も金もほどほどにあり、先々の不安もないという人は他人と傷を舐め合う必要もない。ということで奉仕隊員の人から見れば利己的に見えるんでしょうね そんなところです。 でも、ひとくくりにするのはやはりだめなようですね。 回答ありがとうございました。

  • mi-dog
  • ベストアンサー率6% (92/1479)
回答No.12

NO.9さんの回答を読みました。 大。。。 自分が後 小。。。 自分が精進する。 まい進する。 両方できればいいですね。 バランスの問題ですが。 先頭を切って、自粛して、行くとか。 自問自答ですね。

回答No.11

新興宗教なんてやっても意味ないと思うけど。 言われつくされ今更新しい教えなどというものはなく 温故知新ということだけなのではないですか。 怪しい新興宗教などにはまらないようにと思っています。 やるべきは実際の生活のための生産活動でしょう。 その中でも精神的な問いかけはできますし 生きる意味ということもだんだん分かってくるのではないでしょうか。 実践哲学として

  • acuna
  • ベストアンサー率14% (319/2259)
回答No.10

他の回答者も、おっしゃっていますが、こういうことは、日頃から自問自答していると思います。 壁にぶち当たったら、だだもがくだけの段階を、経験して、自分なりのもがき方をある程度身に着けてくると、どんな人の生き様が参考になるか、本を読んで他人の人生を学びます。 専門書も含めると、たぶん2,000冊ぐらい読んでいると思います。 一年で50~70冊ぐらいだから、決して多い方だとは思いません。 ここのQ&Aの回答者様のご回答が、すっと心に響いてこないとしたら、まだ、自分の学習がひょっとして上手く出来ているかどうか、自分に問う事も、大事だと思います。 あと、人生の先輩と思える人の生き方や、考え方などを参考にして、自分でトライしてみたりします。 苦しくても、これは身に着けないと生き抜けないと考えた場合は、まねて見ます。学ぶの語源はまねぶ(まねる)から来ていると良く言われます。 サントリーの創業者の「やってみなはれ」の言葉をふっと思い出しながら、自分の勇気を奮い立たせているサラリーマン戦士は多いと思いますし。 松下幸之助氏の、「私どもの会社は、人を作っている会社です。モノをつくる会社ではありません。」 との言葉を思い出して、リーダーシップを実践する時、自分を律したりします。 普段は「人を動かすは、人の心を動かす。」 童話「北風と太陽」を思い出して、反省してみたり。 こんな内省しながら、胃薬呑みながら、普段は馬鹿みたいな冗談言い合って、生きている人が大多数かと思いますよ。

回答No.9

仏教には大乗仏教と小乗仏教があります。 大乗仏教では、僧侶は自分が悟りの世界へ入る前に 衆生を悟らせようとします。自分は最後でいいと。 小乗仏教では、まず自分が悟りを開こうとします。 自分を救えないで、どうして人々を救えようかという 考え方です。 どちらが優れているとかではなく、違った道から 頂上を目指すということです。 生きる意味を問い、求道の生涯を歩むひとでも さまざまな生き方があります。 奉仕の精神だけに限らないということです。

eienn
質問者

お礼

なるほど。 いろんなアプローチがあるんですね。 回答ありがとうございました。