- ベストアンサー
昔の工業製品について
カテ違いかもしれませんが、いちおう歴史的観点もあると思うのでこちらで質問します。 工業製品に限ったことではありませんが、昔に作られたもの(土木事業的なものから工芸品まで)には、独特のこだわり、雰囲気があります。たとえば、橋の欄干の装飾とか、ビルの階段壁面装飾とか、家屋の天井彫刻(そんな高級住宅でなくても)とか、鉄道車両の室内灯の形状の美的感覚とか、いろいろきりがなくあります。 これらが、現在はほとんど失われているといっても過言ではないです。ただ、機能機能ばかりで(その機能性が美的でもあるのだという議論もあるのでしょうが、それはどうもこじつけに聞こえる)、製品への美的センスということについてこだわりがない。コストを抑えることだけにこだわってるように思える。 このことは経済原則のようなことで、仕方ないと思います。 しかし、翻って考えると、昔だって同様の経済原則はあったわけで、機能が果たせれば、別に車両の室内灯なんてもっと簡素な形状だってよかったし、家屋の天井彫刻なんて要らない、橋やトンネルやダムの形状などこだわらなくてもよかった。それがなんで、あえて、装飾的形状的こだわりを重視していたのでしょうか?とっくに、機能重視の捜索だって採用できたと思うのです。それが、コルビジェやらの新感覚デザインが台頭してきた後も、かなり長きに渡って装飾形状を重んじていた。これはなぜなのでしょうか? もしかすると、伝統的な考え(工業製品は装飾的であるべきだ)というものが薄れていくのに、半世紀くらいかかって、最近ようやく成し遂げられたということでしょうか?
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
「機能追及」というものが「精神性」を駆逐してしまったからではないでしょうか。 「機能」というものが「大量生産」というラインに乗っかって動き始めた歴史は、実はごく最近の話です。 それまでは「機能」というものは重要視されては来ましたが、それは「高価」と言うものとも対になっていて、簡単に求められるものではありませんでした。 携帯電話を見ればわかりますが、昔の携帯は「馬鹿でかい受話器のお化け」のようなもので、機能的とはお世辞にもいえないし、それに高価でした。 現在の携帯のように「なんでもあり」で、0円で買える?ようなものが出来たのはつい最近のことです。 つまり「機能」と「値段」が初めて「対」になったのは、本当に最近のことなのです。 これは昔から脈々と受け継がれてきた「良い物は高い」という概念を吹き飛ばしました。 昔の製品は「高い、と言うのは機能的にも優れているのだから、それに見合うデザインが必要だ」という概念の元、作られてきたのです。 そこには人間が「本質的に持っている」精神性というものが存在していたし、それ無くしては成り立たないものだったと思います。 ル・コルビジェのデザインにも「精神性」はあります。 ゆえに高価であっても人は怒り出さないのです。 大昔の縄文土器を見るとき、また、ギリシアの彫刻美を感じるとき、その姿形は違いますが共通した「人間の精神」というものの形態の存在を意識します。 それらが生活の中に根付いていたからこそ、人は「装飾的」ということを自覚でき、その製品を「誇りに」思うことが出来たのでしょう。 現在の製品にはそれが希薄です。 私に言わせれば「精神性の衰退」と言いたいくらいですが…それは言い過ぎかも知れないですね。 つまり精神性の「退化」であり「進化」ではない…進化してきたのは「機能」というものが最も必要なことだ、と認識し出している現代人の「感覚」なのでしょう。 「心から頭に」デザインは進んでいるのでしょうね。
その他の回答 (4)
昔=装飾美、今=機能美・・・こういう傾向は多少あると思いますが、これを極端に受け取ると間違えると思います。 昔も装飾をしない機能だけの安物の製品はイッパイありました。こういうものは、あんまり残っていません。 建物、橋の欄干、道具、家具、なんでもそうです。安物は残っていず、装飾を凝らし、お金をかけた立派なものが残り、骨董品、アンチーク商品、文化財的建築物になっています。(装飾を凝らしていても、センスの悪いものは大事にされませんので、消えて行く運命にあります。) ですから、古いものは装飾的なものが多いという風にとれるのじゃないかと思います。 ただ、近代に入ってくると、効率の追求ということで、機能を重視し、ゴテゴテの装飾は少なくなってきたことはありますが、そういうことは若干あるにしても、昔のものが装飾の多いように見えるのは、お金のかかったセンスの良い、立派なものが残っているからなんだと思います。 昔のもの・・・いいものしか残っていません(古道具屋にいけば昔の安物は少しあります)。 今のもの・・・いいもの、安物、全てあります。 (骨董好き、アンチーク好きの人間ヨリ)
お礼
確かにそのとおりだともいます。 でも、どうでしょうか、その安物の中にもなにか意匠的なものが多かったような。なにかものづくりのセンスというものが変わってしまったような気がします。
- tanuki4u
- ベストアンサー率33% (2764/8360)
なんで 2000年頃の日本のノートパソコンは銀色をしているのだろう?機能から考えると銀色である必要は何もない。 と、後世の人は、現代の日本のノートパソコンを見て思うことでしょう。 装飾というか流行というものはそういうものです。 その当時のヒトにとっては重要でも、価値観が違う人間にとっては意味がない。
お礼
流行は大きいですね。 ただ、それを超えて、もっと大きく、衣装性というものがもっとあったように思います。
- do-deshow
- ベストアンサー率25% (54/211)
新感覚デザインが台頭してきた後も、かなり長きに渡って装飾形状を重んじていた。これはなぜなのでしょうか? No.1さんの回答に賛同いたします。 「人はパンのみにて生きるにあらず」「でも、パンだけじゃいや。」 との繰り返しの歴史が、故宮博物館にも、並んでいます。 緻密な計算と実験を繰り返し、 強固なアーチ建築を完成させたガウディの設計図はぜひご覧になってください。
お礼
パンだけではいやだということが、最近なくなってきた気がします。パンだけでいい、後は面倒だからいらないと。
- Lupinus2
- ベストアンサー率26% (1802/6710)
当時はそれが最先端の技術だったからでしょう。 鉄道ができた。夢の乗り物。なので、それに見合った装飾をする。 今では当たり前の乗り物なので、華美な装飾は逆に安っぽく見える。 なので、質素になる。 石作りの建築にしたって、木造建築主流の日本では珍しいものでした。 その木造建築にしたって、家一軒が何世代にわたっても使えました。 今は、誰でもマイホームが買えます。(ちょっと異論もあるでしょうが) 生産技術向上、大量生産により価値が下がったのです。 なので、誰もステイタスを求めなくなったので、簡素化されていった。 私はそう考えています。
お礼
昔のものに対する価値、あるいは製造費用というものは、今とはだいぶ違った、なので、そこに思い入れるものも違った。これは人間の表裏というか、矛盾というか。難しいですね。あっちを立てればこっちがたたず。
お礼
たいへんよくわかりました。 「高い」ものというのは、やはり思い入れを入れざるを得ないという人間的な事情がありますかね。それが精神性ということとほぼイコールなのかもしれません。 経済観念の変化、それが必然的にものへの崇拝力を奪ってしまった、それはありますね。