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ナポレオン ロシア遠征
ナポレオンによるロシア遠征が失敗した大きな理由は何か
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そのテーマは、聞くのは簡単ですが、答えるのは以外と難しい問題です。 というのも、いろいろな観点があるからです。 もちろん単純に兵站面に失敗の原因を見るのは簡単なのですが、 それは逆に言えば、最初から分かっていたことであって、 ナポレオンはそうなることを予期していたし、カール12世の失敗をよく研究していました。 しかしそれでも彼が試みて失敗したのは、全く別の観点から彼が 戦役を考えていたということであって、また彼が考慮せざる得なかった 複雑な経緯と情勢があったということを理解しないと、 どうして失敗したのかという本当の理由を知ることはできないのです。 ナポレオンが兵站や補給を重視しなかったというのは間違いで、 逆にナポレオンはこの時代のどの将軍、どの政治家よりも兵站の重要性を認識し その準備に可能な限りの万全を期そうとしました。 しかし戦術的観点から、輜重隊のスピードに捕らわれて戦うことはできなかったし、 物資を広範囲に分配することは、この時代のインフラと輸送手段では不可能だったわけで、 無補給下で軍を機動させるというリスクは、勝利のためには必要だったのです。 だからもうこの時代の装備では(というか第二次世界大戦当時でも無理だったわけで) ロシアを短期間で制圧することは不可能であったというのが 兵站面からの結論といえるのですが、ナポレオンは実は全く別の計画を持っていました。 そもそもナポレオンは、短期間でロシアを征服することが不可能であると 開戦前から理解していて、複数年に及ぶ戦役を計画していたのです。 だからこそこの戦役当初、「第二次ポーランド戦役が始まった」と称したわけです。 彼はロシアの野戦軍の撃滅を試みつつも、初年度は旧ポーランド・リトアニア領を占領するにとどめ、 ロシアの西と南の主要穀物生産拠点を占領して、ポーランド人の解放というなで 分離させようと考えていたようです。これは彼と側近が交わした幾つかの会話記録でわかります。 ただ、問題は国際情勢がそれを許さなかったことで、特にスペインでの半島戦争での劣勢が ヨーロッパの東西の端で戦争を維持するという危険から、 戦争の早期終結の必要性をナポレオンに迫ったのです。 サマランカ会戦でのマルモン元帥の大敗で、半島が同盟軍の手に落ちることが 確実になり、スペインはフランスの隣国であり、ここの陥落は本国に敵が迫ることを意味していて、 ナポレオンは散々躊躇しまいたが、 スモレンスクからさらに前進して、モスクワ前面で待つであろうクトゥーゾフ軍と 決戦を交えようと考えるにいたるわけです。 最初の計画では、一年目はスモレンスクよりも東に行く予定はなく、 リガなど沿岸部の都市の攻略を待ちながら、冬営するつもりだったのが、 結局のところは急遽変更ということになったのです。 さて、いかにして戦争を終結させるか、ということなんですが、 クラウゼヴィッツが言っているように、戦争の終結は政治的に続行不可能になった場合に起こるということであって、 ナポレオンもロシアのツアーリが戦争継続を諦めるような状況を作り出すという 観点から行動することになります。 クラウゼヴィッツも同意するところですが、ナポレオンの戦略目標は、 野戦軍の撃滅、もしくは、首都モスクワに占領しつつさらにロシアに脅威なりうる兵力を保持するというものでした。 これについて詳しく説明しませんが、これが合理的にアレクサンドルが講和に応じざる得ない状況というものです。 で、結果論でいうと、ボロディノ会戦において、ナポレオンは野戦軍の撃滅に失敗し、 かつ塹壕での砲撃戦となった当会戦で大きな損失を出したことから、 兵力を減じ、アレクサンドルに講和を強要するに至らず、 冬の到来とモスクワの大火、破壊工作によって冬営も不可能となったことから 大敗走となるわけです。 ナポレオンがロシア遠征に失敗した本当の理由は両面作戦、 スペインで戦争をしていたということが大きいです。 そもそもロシア遠征と半島戦争の原因が、大陸封鎖令の徹底ということで、 因縁めいているけれども、これだけの大計画にもかかわらず、 細部がつめられていなかったのは、ナポレオンにしては珍しい感じですが、 突然の計画変更や、情勢の変化はナポレオンの足を引っ張りました。 逆に言えばこれだけの総力戦に近いような大規模動員・大量物量の作戦を 一人の人間の脳みそで処理するには大きすぎたといえるかもしれません。 しかし紙とペンと伝言ゲームだけで、全てを準備して、60万余の大軍を動員して モスクワを占領するに至るのはとてつもないことでした。 ナチの機械化軍団がやれなかったことを、ナポレオンの軍隊は徒歩で達成したわけですからね。
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- komes
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それぞれのご回答のあるように種々の原因が指摘されているとうりですが、私はナポレオンが召集した大軍が彼の征服した各地の連合軍で構成されていた点を指摘したいです。 一口にナポレオン軍と呼ばれますが、実体は連合軍であり、純粋のフランス軍は半数を僅かに越える程度だったと思われます。 フランス軍は歴戦の兵士で戦意も高く信頼がおけましたが、その他の国からの徴募兵はなんの為に寒いロシアへ遠征するのか理解できなかったでしょう。 彼らの中で最も勇敢に戦ったのはポーランド兵だったのは永年ロシアに占領されていたのをナポレオンに解放されたからでした。 このような戦意も装備もバラバラな軍隊を統括しなければならなかったのが一因とおもいます。 さらにそれまでの戦役では敵の首都を占領すれば講和会議となるという先例があったのですがロシアにはこの先例が通用しませんでした。 ロシアの後進性と国土の広大な事が災いしました。 ナポレオンがこの先例に引きずられてモスクワの占領に執着し、ロシアの使者を待ち続けたのも一因でしょう。 このため撤退の時期を誤りその兵力の大半を各個撃破され反撃出来なかったのも一因です。
- nacam
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ナポレオンが、補給よりも敵の殲滅を主目的としていたのは、彼の戦いを見る限り明らかです。 ロシアとの戦いも、当初モスクワまでの進撃は考えていなかったように思われます。 ナポレオンは、策源をダンツィヒにおいており、通常よりも多い24日分の食料を持って進軍を行います。 ロシア軍主力は、ヴィルナにあり、この主力を撃破することで、ロシアが降伏すると考えたわけです。 ナポレオン軍がヴィルナに到着した時、ロシア軍は、ドリッサ方面に退却してしまっていました。 後退するロシア軍は、ヴィルナを略奪しつくしていたため、ナポレオン軍は、現地徴発が全くできない状況でした。 ダンツィヒを出てヴィルナまで22日かかっており、この時点でナポレオン軍の食料が尽きかけていたと思われます。 ヴィルナで補給を受けるために、20日ほど滞在しますが、その間に兵士の脱走などにより、兵力が半分になってしまいます。 ヴィルナは、現在のリトアニアのヴィリニスです。 つまりナポレオンは、リトアニア占領程度の食料しか用意せずに戦いに望んだ事になります。 また、ロシア軍の捕捉・殲滅を疑う事無く信じていたのでしょう。 そしてロシア軍の殲滅により、ロシアの降伏も既定事実としていたのでしょう。 しかし実際は、ロシア軍の士気の低さから撤退により、モスクワまで誘い込まれるような形となり、ナポレオン軍は壊滅してしまうのです。 敵兵力の殲滅ばかりに目を奪われ、補給を無視した戦い方がナポレオンの自滅を招いたのです。 これは、アウステリッツの戦いや、フリードランドの戦いで、補給切れの状態でも勝利を収めた経験からと思われます。 つまりナポレオンは、戦略よりも戦術を重要視し、戦術的勝利の積み重ねで戦略的問題を防ごうとしたのです。 しかし軍事学の定義で、「戦略的失敗を戦術で補う事はできない」を証明してみせたのです。 またナポレオン軍の特徴としまして、「ナポレオンがいるところでは全戦全勝ですが、ナポレオンの居ないところでは極端に弱い」という特徴があります。 これは、ナポレオンが部下に絶対的な服従を求め、独自の判断での行動を許さなかった事が原因とされています。 しかし、いかにナポレオンといえども、60万(実際にロシアに侵攻したのは45万ですが)もの兵力を全て把握する事はできず、ロシアでの苦戦となった事も原因でしょう。 そういったナポレオン軍の欠点をついたのが、クラウゼヴッツなどのプロイセンで、後日ドレスデンの戦い(諸国民の戦い)で、ナポレオン軍を壊滅させています。
- nacam
- ベストアンサー率36% (1238/3398)
ナポレオンの戦い方は、機動力を利用し相手の弱い点を集中攻撃し、確固撃破する事を得意としました。 そのため、軍への補給を待っていると敵を撃破するチャンスを逃すため、軍への補給は、戦術的には全く考慮せずに、食料は占領地からの徴発でまかない、弾薬や大砲、銃などは、敵からの鹵獲によりまかないました。 ナポレオンが主に戦ったドイツやイタリアではそれが有効に働き、無敵ともいえる強さを発揮しましたが、ロシアとの戦いでは、ロシア軍が士気の低さから戦わずに撤退し続ける一方、焦土戦術をも併用したため、ナポレオン軍は、補給で完全にゆきづまってしまいます。 ロシアは、それまでの戦地に比べ貧しい土地であっただけではなく、ドイツやイタリアでの動員兵力が数万~10万程度であったのに対し、ロシア遠征には60万近い兵力を動員したことも、ナポレオンの補給体制を完全に崩壊させてしまいました。 そのため、ナポレオン軍は、全く戦いが無いにもかかわらず、脱走が相次ぎ、大軍は消え去ってしまい、モスクワ前面での戦い(ボロジノの戦い)での時には、兵力は12万程度になってしまっていました。 しかも兵力不足から、ロシア軍を壊滅できずにモスクワに侵攻する事となります。 モスクワに入ったナポレオン軍は、10万強に減っていました。 モスクワでも満足に補給ができず、モスクワを占拠し続ける事は、部隊の自滅を意味するだけだと悟り、モスクワからの撤退を決意します。 撤退するナポレオン軍に、ロシア軍の追撃があり、ドイツ国内まで撤退できたのは、千名程度でした。 60万の大軍が千名程度しか残らなかった原因は、ナポレオンの補給軽視・戦術重視がその最大の原因です。
お礼
ありがとうございました!!!!もうちょっと調べてみます!とても役に立ちました!
お礼
ありがとうございました!すごく良くわかりました!