ユーゴスラビア連邦の元となったのは1918年12月に成立した「セルビア・クロアチア・スロベニア王国」(1929年にユーゴスラビア王国と改名)でしたが、これは第一次大戦のどさくさにセルビア中心に成立した国家であり、諸地域にはセルビア人の官僚が統治者として派遣されるなど最初から民族的対立を内包していました。
そして第二次大戦では1941年3月に一度、枢軸側に加盟したのですが、第一次大戦でドイツと戦ったセルビア人勢力が翌日にクーデターを起こしてドイツとの同盟を破棄、これに激怒したヒトラーがユーゴスラビアへ侵攻します。
このときクロアチア民族主義者組織ウスタシャがナチス・ドイツの支援を受けて「独立」を果たし、一方でセルビアはモンテネグロやマケドニアをブルガリアやアルバニアに併合されて1/3の面積となって傀儡政権が立てられる事となりました。
このときウスタシャの指導者バベリチは75万人のセルビア人・ユダヤ人を粛正したと言われています。
その後、有名なカリスマ的指導者チトーにひきいられたゲリラが国土の大半を奪い返し、ドイツ降伏後にユーゴスラビア連邦を再建します。
このユーゴ連邦は社会主義体制を取りながら、ソ連とは別の道、いわゆる「非同盟」の立場を取り、ソ連から経済封鎖を受けつつアメリカや西欧諸国と経済協定を結ぶなど、他の共産圏諸国とは一線を画した外交政策をとっていました。
これが実を結んで1961年にはベオグラードで25カ国の代表が集まった「第一回非同盟諸国会議」が開かれ、この時点ではユーゴスラビアは国際社会の一翼を担う国家であったといえるでしょう。
しかし1980年のチトー死後、連邦の大統領は連邦を構成する6カ国と2自治州の代表による1年ごとの持ち回りとしたのですが、任期が僅か1年では有効な政策が実行できません。
このため大統領は出身地域への利益誘導ばかり行う事となり、この「大統領持ち回り制度」は連邦の諸民族が他民族への不平不満と、連邦政府への不信感を増大させるだけという、最悪の結果を招いてしまいます。
そして1989年ユーゴ共産主義者同盟による一党独裁体制が崩壊し、複数政党制による選挙が行われると各共和国で独立を唱える民族主義政党が勃興することになるのです。
しかし民族がモザイク状に入り組んでいるユーゴスラビアにおいて、特定地域における民族主義を基にした独立運動の高まりは、必然的に同じ地域の別民族の反発を招き、またそれがまた他の地域における民族対立を煽り、と言う悪循環に突入してしまいます。
そして1991年のスロベニア・クロアチアの独立宣言からユーゴスラビアは凄惨な内戦に突入してしまい、内戦はボスニア、コソボへと飛び火してユーゴスラビア連邦は解体します。
なおクロアチア内戦の直接のきっかけは、周辺国が内戦の引き金を引く危険を考慮して、独立の承認を躊躇する中、ドイツが抜け駆けして独立を承認し、これが第二次大戦時のウスタシャによるセルビア人虐殺の記憶を刺激したからでもあります。
民族主義に影響力拡大を目論む周辺国がつけ込んで、事態を悪化させる一例と言えるでしょう。
元々、多数の民族がモザイク状に点在していたユーゴスラビアにてカリスマ的指導者チトー亡き後の体制の構築が出来なかった事が連邦崩壊の主因だと思われます。
お礼
ご丁寧に詳しく説明していただきまして、ありがとうございました。教えてgooで、いつもいろいろなことを教えていただきますが、これほど詳しくわかりやすい説明をいただいたのは初めてでしたし、とてもわかりやすかったです。助かりました。